幻影の秋 1
決意したからと言って事がスムーズに運ぶと約束されたわけではない。
無理なことは無理で、できないことはできないのだ。
この通り。
ご友人に扉の側まで連れてきていただいたことまではよかったが、
「いらん。知らん」
それだけ言って若宮先輩は自席へ戻ってしまった。
放課後、委員会の仕事前に彼の生息地へ赴いたときも、一人ブランケットにくるまりソファーに横になっていらっしゃった。ポジションを調整していることから、まだ睡魔に勝ちを譲ったわけではないらしい。
「今日はお一人なんですね」
そんなことを言ってみながら本棚の大量のファイルに与えられた題に改めて目を通していた。
「一応、ルリは高校生徒会長だからな。タクは委員会のシフトが入っているそうだ」
普段よりもくぐもった曖昧な声で答えが返ってきた。
なるほど。一人で暇だから先輩は爆睡しようとしているのか。だったら、親切に仕事を差し上げよう。
「秋吉先生ってご存じですか? 生物の、男性の、白衣を着てる方です」
「知っていたら、何かな?」
「ご依頼です。助けてほしいそうです」
「断る」
「先輩に拒否権あるんですか?」
「なぜ無いと思っているのかな?」
「とりあえず、この封筒渡しておきますね。じゃあ、委員会の仕事があるので、失礼します」
「持って帰れ」
「僕が持っていても仕方ないんですよ。どうすればいいのか、さっぱりわかりません」
「それは君の力不足ではないかな?」
「僕に正論を宣える方にはぴったりな仕事ですよ。では、委員会のシフトがあるので失礼します」
先日じゃんけんで負けて押し付けられた委員の役割が無ければ、今は別館の多目的ルームEに赴いているところである。だが、シフトが入っていればそうもいかない。不良認定は一生されたくない不名誉の一つだからだ。
生徒会本部で岩本先輩が口にした“アイカの件”という言葉。
それに対し、加藤先輩は「ナオさんは気まぐれだから……」とごまかした。
件の相談内容こそ、若宮先輩を名探偵と呼ぶときに「二年前の」と接頭語がつく理由なのだろう。
若宮先輩は亡くなった岩本先輩から春野愛花さんの失踪について調べてくれないかと依頼を受けていた。複数の方々からの証言が裏付けているが、確認したところでは部室の本棚に該当する調査をまとめたファイルは見当たらなかった。奥の部屋にあるのか。
いや、違う。
演劇部の先輩の話では、その時期には既に名探偵を休職していたという。存在しないことが正解なのだ。
まだ一度しか彼の推理を拝見していないが、少なくとも僕よりはよほど名探偵に適している。先輩なら、当時アイカの件もそれほど時間をかけずに真相を解明できたのではないだろうか。解明を依頼したのは岩本先輩だけでなく、神谷先輩を筆頭にした生徒会の先輩方、演劇部の先輩方。そして、白瀬先輩。
複数人からの同一依頼を、なぜかたくなに断り続けたのか。
ああ、なるほど。妹の言う通りだ。考えれば考えるほど、わからないことが増えていく。
「あの」
「あ、はい。ああ、はい。お預かりします」
差し出された本と生徒手帳を受け取って、専用PCに向き直った。
まずは生徒手帳から学生番号を入力する。それから本のIBSNの後ろの一〇ケタをバーコードから読み取り、該当書籍を選択した。
今回貸し出すのは『魔女による殺人を立証する方法』『未成年でもバーにいたい』か。著者はどちらも沖崎帆貴。うん、趣味がいい。返却されたら僕も借りよう。
「どうぞ。返却期限は二週間です」
「ありがとうございます」
通学カバンに三つをしまい込んだ先輩を見送って、隠し持っていた『コード・NOAH』に視線を戻した。
それから数分後。
図書室の外が騒がしくなった。とっさに携帯で時間を確認した。
十七時二二、いや、二三分だった。
「何かあったのかな」
隣で新書籍に透明カバーを張り付けている同委員の内藤先輩が手を止めることなく尋ねた。
「あちらって体育館ですよね」
「うん。あ、部活で怪我人が出たのかな」
「可能性、ありますね」
「それとさ、日野くん。暇ならカバー掛け、やる? あ、うん。何でもない。読みたいなら読んでていいや。あの、どうぞ読んでいてください」
顔に出てしまったらしい。すみません。
急いで「いえ、あの。細かい作業、好きなので。やります。やらせてください」と頭を下げた。
内藤先輩の説明によると、面倒ではあってもたいして難しくない作業だった。
まず、専用のシートを文庫本にちょうどいいサイズに切る。これは先輩が用意してくださっていた。文庫本のカバーよりも一回りほど大きい。
次に、シートの保護フィルムを半分だけ剥がして該当する文庫本をカバーごと表紙を下にした状態でシートの粘着面に乗せる。もちろん、傾いたり粘着面がよれたりしないように気を付け、残りの半分の保護フィルムを剥がし背表紙、裏表紙にもシートを張り付ける。
そこまでできたら、文庫本を取り去りシートにカバーがくっついている状態が出来上がっている。ここで登場するのがハサミだ。背表紙を挟んでハの字になるように上下に切り込みを入れ、四隅の角を切り取って直角二等辺三角形を四つ獲得する。
背表紙に台形とカバーの折り返し部分の二ヶ所に粘着面を張りつけ、文庫本をもとの状態になるようにカバーにセットしなおす。上下反対にならないように。
あとは残りの四ヶ所を張りつけ、最後に直角二等辺三角形二つをカバーの折り返し部分と文庫本本体にわたって張り付ける。
「それで完成! わー、器用だね」
「本当ですか、ありがとうございます」
この調子で五冊ほど完成させたころだった。
「内藤くん、日野くん。お疲れさま」
「お疲れさまです。あ、の。あと四冊でカバー張り完了です」
「本当? 早いですね。ありがとうございます。受け取っておきますね」
甲高くも不思議と柔らかい声質の倉田司書が図書室へやってきた。軽く出来栄えを確認していると「ああ、すみませんね」ぱっと書籍から手を離した。
「ご帰宅しましょう。さ!」
「はい?」
内藤先輩とそろってクエスチョンマークを頭上で躍らせると、倉田司書は右手を頬に添える。
「すみませんね、私も詳しいことはまだわかっていないんです。自習している彼らも帰しますから、声掛けを手伝っていただけます?」
ひとまず二つ返事で図書室に隣接している自習室で教科書や参考書を広げている先輩らに一人ずつ声をかけて、僕と先輩も倉田司書の礼を受け取り退室した。
「カバー張り、やってくれてありがとう。おかげでさっさと終わりそう」
「図書委員の仕事って、ああいう感じなんですか?」
「まあ、基本的にはそうだね。暇?」
あはは、と苦笑を返すと「だよね」と朗らかに笑った。
それから十数年前に上梓されたという『コード・NOAH』の幻の前日譚の存在を教えていただき、エントランスで分かれた。というのも、特徴的な茶髪が視界に入ったからだ。
何と話しかければいいか迷っていると、かの社交力オバケがこちらに気がついてくれた。一度うなづいて見せると、向こうも首を傾げつつもうなづいてくれた。
駆け足気味にその集団に接近した。
「まさ」
今にも泣きだしそうな声色で妹は駆け寄ってきた。左手を右手で包み込んでいる。動揺はしているものの、それ以上にエントランスの隅に設置されたベンチに座っている一人の女子生徒が泣きじゃくっていることのほうが気になった。しかし、言及することも僕のコミュ力では困難だった。
ゆえに、できそうな彼に視線で助けを求めた。有能な彼は意図を察してくれた。
「部活とは関係ないんだけど、あの……ちょっと、いや、ちょっとではないんだけど、でも……それで、落ち着く時間が必要、たくさん」
帰るように言われている中、ここまで泣きじゃくっている状態では落ち着くための時間はとても足りないだろう。
それに加えて、この智博が言葉を濁している。相当な何かがあったことは疑いようがない。性格的に多少問題がありそうなミッションだが、新しい情報を新鮮なうちに入手できるかもしれない。天秤は、すぐに傾いた。
「うちに来ますか?」
営業トークでもしているのかと錯覚するように、言葉がさらさらりと出てきた。
「帰っても僕と妹だけですし、各停で二駅ですし。人に話したほうが落ち着くと思いますけど、こんな場所で話すのも、こう……気持ち的に良いものじゃないですし?」
妹の頭に手をのせるとぴくりと反応した。動揺はあまりひどいわけではないらしいことに安心した。
その間にバスケ部の先輩方は相談を始めた。
「水島、平気?」
「ん? あ、うん」
「無理なら無理って言え、バカ。唯花は?」
「肇よりは大丈夫」
「西元は?」
「私、事情とかは全く知りませんよ?」
「いや、それはそうだけど……」
話を振った先輩が、「唯花」先輩に視線を移した。
「私は大丈夫。田村と森園はハウス」
「えーっ、何でですか?!」
「あの場にいましたし、彼とは生徒会のほうでも」
「違う。貴方たちをあやちゃんの家に入れたくないだけ」
「あ、なるほど」
「ありがとう、納得してくれて。さすが田村」
「待ってください、俺は納得できません!」
「普段の言動を顧みろ」
「冷たいですよ、大聖くん。部活だけの仲で、プライベートで仲良くないからですか?」
「いや。違うけど、まあ、確かにプライベートで森園と親しくなりたく無い」
「えー、チームメイトなのに。親交深めましょうよ!」
「どうやって?」
答えを聞く前に尋ねたことに対する後悔を表情に出して「ハグでもしときます?」と提案した後輩を睨みながら手で傾いた体を押し返した。
「とりあえず、田村たちはもう今日は帰って平気だよ。冬城は水島が送って帰るし、日野はお兄さん来たし、篠原は……なんとかするから」
「大聖くんは? あまり遅くなったら征矢と知佳ちゃんが」
「いや。この時間なら二人ともまだ塾。そんな遅くならねえよ。篠原、家遠いんだから」
「そうっすか」
田村先輩が納得を表明したことを確認してから、彼は黙り込んでいる智博を視界に入れた。
「智博?」
「はい?」
「ちゃんと休めよ?」
「うん」
二人が拳を軽く突き合わせてから、その場は解散した。
智博と「水島」先輩は徒歩、「森園」先輩はバス、田村先輩は同じ最寄り駅だったが反対方面のホームへと分かれた。
というわけで、マンションの部屋へ到着して先輩らを招き入れた。
「何かいりますか? 飲み物とか、クッキーとか」
「いや、別に」
「一人分、お水もらえる?」
「わかりました。あの、ソファー、どうぞ。あや、ちょっとこっち」
泣きじゃくる後輩を支える「唯花」先輩の要望に応えてグラスに水を入れ、そのグラスを一旦置いてハンカチを濡らした。
「手、かして」
手を差し伸べると、素直に手を乗せてくれた。
校舎内にいるときから気がついていたが、その両手に血がついていた。自然に止血されたらしいからあまり深い傷ではないだろうと安心して処置した。しかし、濡らしたハンカチで血を拭っても傷はどこにもなかった。
誰の血液か。いつ付いたのか。気になるが、今は人を待たせている。
後で考えることにして、妹を自室に籠らせることにした。
「図面やってていいから、部屋で待てる?」
コクリとうなづいた妹を見送り、ソファーに座る場所を移した先輩の前の机にグラスを置いた。
「あの。まず、お名前をうかがっても大丈夫ですか?」
「柊大聖、渡辺唯花、篠原心」
柊先輩が指さしながら簡潔に答えてくださったので、礼を告げた。
「それでは、さっそくお話をお聞かせ願えますか?」
「その前に」
「場所を借りといて申し訳ないけど、君に聞かせる必要ないというか……冬城のクラスメートでしょ? 中一に話しても良い内容でもないし」
「あの、それにつきましては、少し事情がありまして。若宮先輩をご存じですか?」
「若宮って……あの高二の、名探偵の? 数年前に活動やめたって聞いてるけど」
「控えていただけで、やめてはいらっしゃいません」
確認していないことをこうもはっきり断言してしまうとは。我ながら、なかなか向こう見ずな発言だ。しかし、どこかからか湧いてきた自信が言わせた。
「ああ。君か、名探偵の助手って」
「はい?」
「何それ。本人が知らないじゃん」
「大聖は自分が女たらしって揶揄されてることもリアル課金されてることも、知らないでしょ? それと同じ」
「何それ……え、待って、マジで何それ」
「一週間くらい前に生徒会の先輩が亡くなったでしょう? そのころから、若宮先輩と親しくなった一年生がいて、彼が持ってくる情報をもとに先輩が推理を構築してるって。おかげさまで生徒会役員とか高校の先輩方の間とかでは有名だよ。決め台詞は 一言一句、違わずに! ってね」
「ちょ、待ってください。違うよ、渡辺さん?」
「サラが言ってたから本当のことだと思うけど」
「いや、そっちじゃあない。リアル課金って何? 初耳なんだけど」
「ばれたら、あんた引くからね。やってる側は全力でばれないように……てか、今はどうでもいいでしょ」
「んなこと」
渡辺先輩からの視線を受けて言葉を変えた。
「じゃあ、何? 君は若宮先輩の助手ってこと?」
「そう見えますか?」
「違うの?」
「あ、いえ、あの、似たようなものです。では、あの、そういうことなので……何があったのか、お聞かせ願えますか?」
篠原先輩の体が強張る。渡辺先輩は彼女を優しく抱き寄せた。代わりに、会話は声量を抑えた柊先輩によって続けられた。
「体育倉庫に、血まみれの人がいたんだ」
廊下へ続く扉を指さすと察してくださったから、玄関近くへと場所を移した。
体育倉庫は体育館に扉または壁を隔てて存在している空間である。先日の体育で数種のボールやマットなど様々な道具が静置されているのを見たときはそこそこ広い空間だと思った。僕が通っていた小学校のそれよりも、ずっと大きかった。
不意に、気になることが浮かんだ。
「妹なんですけど、大丈夫でしたか?」
「えっ?」
「あの、どのような経緯で部活に参加したのか知らなくて」
「ああ、うん。冬城が誘ったら来てくれたみたいだけど」
「智博が?」
「うん。確か……
バスケ、部?
そ。部活、入るとこ決めてないなら、マネージャーとして来て欲しいなーって
マネージャーって何するの?
わー(省略)
へーぇ
でさ、明日の放課後に
放課後って?
うぇーい(省略)
そっかー。何時までなの?
まだ一八時まで。どうかな?
行ってみたい!
……って感じだったらしい」
「なるほどです」
なんだこの会話。呆れが否めない。
淡々と話す柊先輩の様子と合わさって余計に滑稽だ。
ただ今は優先順位を考慮して一つ咳払いをした。
「それでは、詳しくお聞かせ願えますか?」
「えっと、部活動は最終下校の一九時までに学園外に出られるなら終わる時間は自由なんだけど、中一はまだ仮入部扱いだから一八時までに帰らないといけなくて、それで、一七時過ぎくらいにはストレッチとか着替えとかしてもらってて」
「この時期では、先輩方は一九時まで、一年生は一八時までに学園外に出る必要がある。だから、終わる時間が異なる。合ってますか?」
「あ、うん。ごめん。……一〇秒待って」
柊先輩は壁と向き合って耳をふさぎ、ちょうど十秒後に振り返った。
「ごめん、時系列整理してた。それで合ってるよ。えっと、二対二でミニゲームしたくて体育倉庫からゼッケン取ってきてもらうの、後輩に頼んで、そのときに、その……」
「現場をご覧になった、と?」
「まあ、うん。そういうこと」
「僕、図書室にいたんですけど騒がしくなったのは一七時二三分頃と記憶しています。被害者を見つけた正確な時間はわかりますか?」
「三〇分にはまだなってなかった気がするけど、そこまではわからない。ごめん」
「いえ。では、通報までの詳しい流れを聞かせてもらえますか?」
「篠原が叫んで、それで倉庫の中を見て。中で先生が血を流しているのが見えて。とりあえず、他の後輩に倉庫内を見せないようにしながら篠原移動させたり、養護教諭を呼びに行かせて。渡辺が救急車呼んでるところだったから俺は警察呼んだ。見るからに事件だったし。
救急の人たちが来るまで、水島が――冬城を送ってったやつなんだけど、そいつが先生がまだ生きていることに気がついてなんやかんややってたっぽい。聞いてみたら、とりあえず楽な態勢とってもらったほうが良いと思ったみたいでがんばったらしい。あとは、体育倉庫の跳び箱のキャスターに手錠のチェーンがひっかけられてたみたいで、それを日野が、あ、君の妹さんね? あの子が、外してくれて。それから、養護教諭の先生とか救急隊員の方々が来てくれて、警察も到着して……って、感じかな」
「あの、先生といいますと?」
「越前先生」
「養護教諭の先生ではなくて」
「ああ、倉庫で倒れていたのは中三の生物担当してる先生だった」
「秋吉先生ですか?」
「知ってんの?」
「あ、はい。少し機会がありまして。白衣の、若くて、おとなしい感じの先生ですよね」
柊先輩の首肯を確認して、記憶を整理した。
秋吉先生が脅迫状を持ってきたのは前日。犯人の動きが早いのは、それだけ脅迫状に意味があったか、そうする必要があったか。
「なぜ先生があそこにいたのか、心当たりはありませんか?」
「いや、まったく。たしか演劇部の顧問だし、運動してるところは見たことないし」
「体育倉庫、部活中は開けないんですか?」
「うん。用具の出し入れしかしないから。開始前にゴールのスイッチ入れて移動させて得点版とか出して、終わるときにそれらしまうだけだから」
「ほかに気が付いたことや気になったことは?」
「え……いや、ごめん」
「あいまいな質問ですみません」
「あ、いや。こっちこそ、ごめん」
なんとなくこれ以上何を質問すればいいか、何も思いつかなかったのでリビングに戻った。篠原先輩は多少気持ちが落ち着いてきたらしい。ハンカチを片手に握りしめ、水にも少しは手を付けていた。
「あ、終わったの?」
「ん」
「はい、わかりやすくて、すぐに。冷静で、本当にまとまっていて」
「言わせている感が否めないけど、さすが副キャプテン」
渡辺先輩はグラスを篠原先輩に持たせながらニッと笑って見せた。
「キャプテンが取り乱してるのに俺まで焦るわけにはいかなかったし、唯花に――――って言われたら一瞬で正気になった」
「……はい?」
「平気そうな顔してるくせに内心誰よりも焦ってたから言ったの。好き好んで言わないし」
「存じておりまーす」
仲がよろしいようで何よりだが……いや。僕は何も聞いてない。
一つ、全体で確かめておきたいことがあったので改めて先輩方に問いかけてみた。
「最後に一つ、すみません。体育倉庫の状態は、何時ごろに発見したんですか?」
「四月は、中学一年生は一八時までに帰らなきゃいけないから、ストレッチ、片づけ、着替え。だいたい三〇分くらいかかるの」
渡辺先輩はしっかりした声で答えた。内容は、柊先輩の話と一致する。
「十七時十九分」
呟くように、篠原先輩は答えた。答えてくださるとは思っていなかったが、かなり正確な時間に首を傾げた。
「あの、どうして篠原先輩はそんな正確な時間を?」
「携帯、持ってたから」
「はい?」
「男の人、血がたくさん出てたから、救急車呼ばないとって思って……。携帯はポケットに入れてたからすぐ出せたの。だけど、掛けられなくて、水島先輩が……」
「もう泣くなって」
柊先輩は篠原先輩を不器用な言葉で慰めながら頭を撫でた。目元に当てられた白いハンカチは濡れていることが分かる程度には色を変えていた。
「お前のせいじゃないだろ」
「でもぉ……」
止まらない涙をぬぐいながら先輩は続けた。
「あのとき、私、動けなくて、怖くて、頭が真っ白になっちゃって……。先輩になったら、しっかりしなきゃって。それなのに……」
先輩方は「そんなことない」などと彼女の言葉を何度か否定したのだろう。だが、彼女の自己嫌悪は収まらなかったと見える。
だから、かける言葉を探している先輩方に代わって、僕は「十分ですよ」とポケットから取り出した飴を手に乗せさせてもらった。
「携帯で救急車か警察を呼ぼうとなさった。日常の外側の出来事に混乱して焦っていたら、なかなかできないことです。十分です」
飴を握らせ、言葉を続けた。
「泣くのって、体力も水分もかなり消費します。ちゃんと水分補給して、たくさん休んで、甘いものを食べて元気出してください。ついでに……できればですが、妹に楽しいことを教えてあげてください。先輩の一人として」
しばらく飴を見つめていた篠原先輩は、おもむろにグラスを手に取り、水をゆっくり飲みほした。さらに、飴を口の中に放り込む。
「篠原」
柊先輩は、篠原先輩に手を差し出した。
「落ち着いてきたなら、もう帰ろう」
――もう、大丈夫――
そのシーンから、脳裏にこの言葉が浮かんだ。あの日、“あの人”も僕にそうやって手を差し出した。
「すみません、駅までしか送れなくて」
「いや。夜道は危ないし、妹を家に一人にできない気持ちもわかるし。それに、助かった。ありがとう。気をつけて帰って」
「はい。先輩方も」
最寄り駅まで見送りのために外出した。家に妹を一人にするのは不安だったので自室から引っ張り出した。
篠原先輩もだいぶ落ち着いている様子で安心した。
ちょうど、篠原先輩へと視線を向けたとき彼女もこちらに視線を向けていた。
コミュ障ゆえに目を逸らす前に、先輩は「あ、あの、日野くん……!」と通学バッグの肩ひもをぎゅっと握りしめた。
「ありがとう」
それだけ告げると、篠原先輩は 渡辺先輩の背にささっと隠れてしまった。その姿は妹と似ている気がした。
先輩方が改札を通り見えなくなるまでその場で待機していた。
そのとき、ずっと黙り込んでいたあやは「まさ」とぽつりと言った。
「出血量は推定一三〇〇ml。刺されてから間もなかったけれど、あの出血だと脾臓が傷ついてるかも……大丈夫かな、あの先生」
「きっと、大丈夫だよ」
頭に手を乗せて呟いた。