消えた春 1
翌日、学校に到着して間もなく、臙脂色のリボンを首元に結んでいる先輩から接触があった。
「日野くんって、君のこと……?」
華奢な彼女におびえた眼差しを向けられ、変なことを言わないように口をつぐんだままこくりと頷いた。妹は手を振ってから上階へと消えて行った。
向き直ると、先輩は通学カバンの肩ひもを握りしめながら話し始めた。
「あの……友達に、聞いて……それで……」
「場所、移しますか?」
勢いよく何度もうなずく彼女とともに中庭の噴水の陰へ移動した。ガラス張りの階段や教室からは見えない、唯一の死角だという。あまり大きな声で話せない内容を話すとき、人気のない空間を求める人々は一定数いるらしい。
「わ……わたしの、せい、なんです。たぶん」
懺悔のようなタレコミは、この言葉で始まった。
「何がでしょう?」
「……本当に、若宮先輩に、伝えて……くれるんだよね?」
「あ、はい。もちろんです。一言一句、違わずに。必ず」
「放課後、美術室でハルノさんが誰かと話しているところを見たの。当時は、誰にも聞かれなかったから忘れていたんだけど、あの日に、いなくなったらしくて……。それを、わたし、もっと早く知って思い出しておくべきだったのに、あの子がいなくなって一年くらいしてから知って、それがどうやってか知らないけれど、岩本くんに伝わった、みたいで……。生徒会の部屋に荷物を運ぶのを頼まれて、手伝ったときに聞かれたの。アイカは、誰と一緒にいたんだ!? って。大人しくて優しい岩本くんが、あんなに必死になっているところ、初めて見たから、言ったの。ちらりとしか見てなかったけど、小柄な人で、たぶん男性だと思う、って。どんな顔だったかも聞かれたけど……あのとき、後姿しか見えなかったから、わからないって答えたの」
「そうだったんですね。あの、ハルノさんというのは」
「ハルノアイカさんのことです」
興奮を抑えて「詳しくお聞かせ願えますか?」と先を促した。話しづらそうにしながらも、先輩は言葉を続けてくださった。
「一年生のとき、同じクラスだったの。席も近くて、すぐに仲良くなって、でも、あの子は、こう……中心にいるメンバーだったから、クラスの。二年生になるころにはあまり話さなくなっていたんだけど、たまに話すときは、やっぱり、温かかった」
通学カバンを抱き寄せ、言葉を止めた。
彼女の話を踏まえ、違和感が一つ、浮かんだ。
――「二ヶ月くらい前に見かけたと仰っていて……。細身で、背は高くなくて、中学生のネクタイが似合いそうだ、と。似合っているとは仰っていなかったので、中学生よりも年下で、ちょうど時期が」――
息を深く吐いた。
僕の仕事は、あくまで情報を集めること。今は、それに集中しなければならない。
「他に話したいことはありますか?」とたずねると、彼女は被りを振った。
「あの、それでは、質問とお願い、よろしいですか?」
「え……」
「あ、いえ、そ、その、あれです。大層なものではありません。もしハルノさんのお写真をお持ちでしたら見せていただきたいのと、それから、ハルノさんを美術室で見た日付と時間帯をできるだけ正確に教えていただけませんか?」
「……岩本くん、殺されたかもしれないんでしょう?」
「はい?」
「あの日、校内にいた人なら……それなら、この学校の先生か生徒だし、警察があんなに調べていたってことは、岩本くん、もしかして……その、春野さんがいなくなる前に一緒にいた人に……そう思ったら、わたし……」
「あの、待ってください。一度、落ち着いて――」
「だって! 岩本くんに聞かれていなかったら、ハルノさんの件にあんなに執着させていなかったかもしれないんだよ?!」
何も言うべき言葉を見つけられない代わりに、ハンカチを差し出した。
「……ご、ごめん。関係ないのに」
「あ、いえ」
彼女はポケットから携帯を取り出すと、少し操作してからスクリーンをこちらに向ける。
一枚の写真が表示されている。六名とも体育着姿で水色のハチマキを頭につけているから、体育祭のときに撮影した写真だろう。不意に、そのうちの一人に既視感を覚えた。
「二年前の、十一月十七日。最終下校よりも前だったのは覚えてる。用事があって、部活にほんの少しだけ顔を出してから帰るつもりだったの。急いでいて、だから、音楽室から最短で校門まで行くとき、美術室の前を通る道を選んで。そのときに、ハルノさんを見たの。彼女、後姿でも目立つからすぐに分かった」
「ハルノさん、一人っ子ですか?」
「そう、だったと思うけど……」
質問の意図を図りかねたのか、いぶかしげな視線が返ってくる。それを「お気になさらず」の一言で収めていただいた。
「お話してくださり、ありがとうございます。なるべく早く伝えますね。正しいかどうかわかってから、一言一句違わずに」
「すぐには伝えてくれないってこと?」
「え、あ。その、あの、いえ。先輩は気まぐれな人なんです。ガセネタを伝えたらやる気をなくしてしまうかもしれないので、念のため、確認を済ませておきたいんです。なので、そこまで時間はかからないのですが……」
なくしてしまうかもしれないやる気がまだ出てすらいないことは伏せて、言い切った。先輩は「そういうことなら、よろしくね」とカバンを抱きしめた。
「はい、もちろんです。あの、先輩はこのまま教室へ行かれますか?」
「あ……うん」
「でしたら、お先にどうぞお戻りください。僕はもう少ししてから戻ります」
彼女は一礼とともに去った。
幸い、始業までだいぶ時間はある。ここで一度、落ち着いておこうと目を閉じだ。
今、彼女から得られる情報は、すべて受け取れただろうか。名乗りたくなかったからすぐに話を始めたのだろうが、名前は聞いておくべきだったか。いや、顔と学年がわかるなら探せるか。
それよりも、確認事項が二つ増えた。
もう春とはいえ、外はまだ肌寒い。教室へ向かおうと立ち上がった。
そのときだった。
「待って、アサ……!」
校舎の陰から、二人の先輩が姿を現した。九条先輩、柊先輩である。とっさに噴水の陰に身を隠し、様子を見る。
昨日の様子から、九条先輩は柊先輩と話したくても話せない状況であるとうかがえたが。
「わかってるよ、わかっているの。ルリは何も悪くない。だけど」
「そういうことじゃないのよ。一度、落ち着いて話したいだけよ」
「無理なの。本当にごめん。前から言ってるでしょう? あの御曹司と違って暇じゃない」
「それはわかっているわ。尚将さんは無関係。私が、貴女と話したいの」
「無関係? それじゃあ、そこで聞き耳を立てているのは?」
心臓を止めない代わりに呼吸を止めた。
「ごめんね、ルリ。ごめん。ノンにあんなことがあって、辛いのは私だけじゃないのに。本当にごめん。ルリは何も悪くない。私が……割り切れないだけ。二年経った今でも……それだけ」
「ええ。……それでも、いつかアサとまた普通に話したい」
穏やかな沈黙に足音が混ざり、そして、無音になる。
調査技術研究会の楽屋落ち的な事情が見えそうな気がした。
「あの子にばれたってことは、タクくんじゃないと思うのよね。あっているかしら、日野真記くん?」
「ご明察です」
そう答えると、穏やかなほほえみと共に目の前にお越しになる。いつから気づかれていたのだろう。
「何をしていたの?」
「高校一年生の先輩から、少々お話を」
「実在する?」
「じつ? し、します。小柄な方で、部活の活動場所は音楽室で、こう……黒髪の、短い、そういう方です」
「あら、吉木さんかしら」
この人は何をどこまでご存じなのだろう。
穏やかに微笑む先輩に尋ねる勇気はないチキンです、はい。
「それじゃあ、情報を集めるのは順調なのかしら」
「あ、はい。おかげさまで。でも、若宮先輩、聞いてくださるでしょうか」
「ごめんなさいね、尚将さんは少し……子供らしさが突き抜けてて」
「九条先輩から伝えていただくことは難しいですか?」
「そうね。ごまかされちゃうと思うわ。小さいころは通じていたんだけれど、最近はもういけないわね。あ、だけど、ちゃんと協力はするわ。何かあったら、連絡くれる?」
「あ、はい。え、いいんですか?」
「もちろん。真記くん、電話苦手そうだから……LINKsでいいかしら?」
ご明察です、と感心している間に連絡先の交換が完了した。
教室で智博相手に、断言する。
「犯人を知るには、まず、被害者を知る必要がある」
「うん」
「なぜ被害者が殺されることになったのか。要するに、犯人はなぜ被害者を殺害することにしたのか。これがわかれば、犯人の目的、動機が判明する」
「へーぇ」
「興味なさすぎ」
「学校内で事件があった点に関しては、興味ある。だからと言って、犯人探しをしたいと思うほど純粋な興味じゃなくて、ゴシップ的な興味のほうが近い」
「そんなゴシップ好きには、こちら。黛真弓さん著作の『公私』」
「いえ、結構です」
「なんで?」
「物語、読むの、苦手」
「なんで?」
「なんか……読めない」
「なんで?」
「え、そこに理由求める?」
「今、なんかすべてを理由付けしたい気分なんだよね。で、なんで?」
「えー……」
不快を隠さない彼は時計に視線をやると、立ち上がった。
「じゃ、もう行くから。本はまた今度で」
受け取ってもらえなかった書籍をカバンにしまうと、先日の宣言通り不破先輩が迎えに来てくれた。
彼に案内されたのは、ミーティングルームDだった。室内には机や椅子の他に、数名の先輩方がいらっしゃる。念のため、扉に背後を預けた。
「はじめまして。日野真記といいます。あの、以後、お見知りおきを」
大丈夫、笑っておけばどうにかなる。妹ほどの効果は望めなくとも、どうにかなる。
何度も頭の中で反芻し、よく緊張から出てしまう変な発言を必死に抑え込んだ。無様な半笑いだったことは許していただきたい。不破先輩との一対一ならばどうにかなると考えていたのだ。多対一は覚悟していなかった。
「神谷いないなら、いけると思ったのが浅はかだったかな。ごめんね。でも、すぐに終わるから」
「ご安心ください、先輩にはちゃんとお伝えします。一言一句、違わずに、必ず」
室内にいらっしゃったのは、中学生徒会役員の五名だった。
三年生は、会長の前橋紗里さん、副会長の三ツ谷美紅さん、会計の不破出雲さん。二年生は、副会長の田村兼国さん、会計の五十嵐天乃さん。
ちなみに、書記は今はここにいない神谷先輩と白瀬先輩とのこと。
それから、高校生の先輩が約一名……九条先輩である。
この場に神谷先輩がいらっしゃらないのは、彼の私用のためらしい。
「あの、でしたら白瀬先輩はどちらに?」
「けいちゃんがいたらこんな話できないよ」
遠慮がちに三ツ谷さんが呟き、視線を前橋さんに投げる。
「あの、先輩。どこまでなら大丈夫ですか?」
「必要な話をしたら?」
九条先輩の穏やかな微笑みに促され、話そうとするが、言葉を飲み込んだ。
代わりに田村さんが口を開いた。
「二年前の話、聞いたことある?」
「いえ。詳しくは」
「白瀬の前の名字は?」
空気が、固まった。視線を集めながらも飄々と眠そうな瞳で答えを待っている。
「存じ上げません」
そう答えると、田村さんは「話すと決めたんですから、話して大丈夫ですよね?」と前橋先輩に尋ねた。
前橋先輩は深呼吸をしてから話し始めた。
「私たちが一年のとき、一つ上の先輩がいなくなったの」
「ハルノアイカさんですか?」
「あ、ええ、そう。それで、あの……ハルノ先輩の妹さんが白瀬さん。親の再婚で血のつながりはないけど、姉妹になったって聞いた。このあたりは、美紅のほうが詳しいよね?」
「あ、うん。そうですね。先輩も演劇部で、それで私、推薦してもらいましたから」
「推薦とおっしゃいますと?」
「生徒会役員になるには、選挙で選ばれる必要があってね。その際、現役役員一人以上の推薦とその推薦を選挙管理委員の顧問の先生に承認してもらう必要があるの。三ツ谷さんたちの代では、秋吉先生だったかしら」
九条先輩の解説に三ツ谷さんがうなずいた。
「あ、はい。そうです、秋吉先生でした。あ、そうでした。一年生は生物無いから知りませんよね。白衣着た、一七〇くらいの背の高さで」
「理系の先生はみんな白衣着てない?」
「あれ? あ、確かにそうですね」
「理科の先生だけだよ。数学の先生たちは着てないでしょ?」
「話、戻しません?」
二年生の先輩方の声が重なった。話を逸らすに逸らしていた三年生の先輩方が気まずそうな苦笑で応じる。
「えっと、必要があれば秋吉先生には後日、話を聞きます。続きを話してもらえますか?」
「は、はい。ごめんなさい。あれ、えっと、何を……」
「ハルノさんがいなくなったのは、十一月であっていますか?」
「あ、うん。十一月十七日、二年前の。その日、部活はあったんですけど先輩は来なくて……。その翌日からいなくなったと騒ぎになりました」
「あの、演劇部の活動は月曜日、水曜日、木曜日ですよね? 明日、お話を伺いに行くことはできますか?」
「え、あ……どうでしょう。残っても大丈夫なら」
「先生と高校生の部員には話を通しておくわね。中学生のほうは同学年の子だけ声をかけてあげて」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
「ありがとうございます」
九条先輩に軽く頭を下げてから、三年生の先輩方に向き直った。
「他に、ご存じのことはありませんか?」
そう尋ねると先輩方は顔を見合わせる。不破先輩が「これなら、神谷に予定合わせてもらうべきだったね」と苦笑する。
「神谷先輩には、後日、話を聞きます」
「わざわざ来てくれたのにたいした情報無くてごめんね」
「いえ、め、ご、せん!」
「えっと?」
「めっそうもございません、かしら。とりあえず、まあ、気にしないであげて」
完璧なフォローありがとうございます、九条先輩。
頭を下げてから二年生の先輩方に視線を向けると、
「一年生のとき、白瀬さんと同じクラスでした。彼女に誘われて、私も生徒会役員になりました」
「自分は当時の部活の先輩になんか推薦されたんで、まあ、そのまま。あとは……部活の日、木曜日だけ演劇部と重なってるくらいかな」
五十嵐さんが硬い声で、田村さんがのんびりと、そのように述べた。
「ありがとうございます。今日はお時間ありがとうございました。後日、何か思い出したら、教えてくださるととても助かります」
深く頭を下げると会合は解散した。先輩方が退室していく。
室内の机に軽く腰掛けると、急に気が抜けた。
「高校生徒会長として注意したほうが良いかしら、チョウケン会員として思考するところを見守るべきかしら」
「すみませんっ」
彼女の声で九条先輩がまだ退室なさっていないことに気が付いた。急いで机から飛び降り、先輩に向き直る。
「うるさく言うつもりはないわよ」
「あの、今日はお時間ありがとうございま、あー……」
頭を下げながら、不意に気になることが頭をよぎった。顔をあげると、九条先輩が「どうしたの?」と苦笑する。
「すみません、もう一つ。よろしいですか? 気になってしまって。あ、ご存じでなければ大丈夫なんですけど、いいですか?」
「なあに?」
「桜の木がいつ植えられたか、ご存じですか?」
「二本とも、去年の春休みよ。正確には、三月二二日」
「どうしてそんな正確に」
「中学の生徒会での最後の仕事だったから」
と、九条先輩は穏やかに微笑んだ。
今朝、中庭で桜の木を見たとき二本あることに気がついた。それまで、手前の桜のほうが生育がいいらしくもう一方が隠れていたため、一本だけだと思っていたのだ。
しかし、同じ日に植えられたならば生育差の理由はなんだろうか?