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なぜ追放ものを読みたくなるのか? 読み手の心理から考える書き手のテンプレ考察

作者: 長谷川凸蔵

 昨今の小説家になろうにおいて人気ジャンルの一つに「追放」があります。


 このいわゆる「追放もの」は大体以下のような流れで展開される物語です。


 1.主人公が所属している集団(勇者のパーティや国家など)から、その能力から考えれば不当と思える理由で追放される。


 2.追放された主人公はそれまでの責任から解放され、新天地を目指す、それまでできなかったことや、やりたかったことに取り組む(スローライフや商売、気の合う仲間との集団形成など)。

基本的には、それほど責任が課せられるような立場になることはない(物語がさらに進めば例外あり)。


 3.主人公を不当に追放した集団は、実は主人公無しでは効果的な運営や維持が難しく、解散や不幸な出来事に遭遇する。

 特に、追放することへ積極的に関わった人物ほど不幸になる。

 主人公が集団の崩壊に直接的に関わるのは、大体決定的な最終場面で、主人公が関わる前に既にその集団がほとんど崩壊していることが望ましい。


 以上が私の考える「追放もの」のテンプレです。


 テンプレに当てはめようとした場合、例えば1において追放される場合、追放する側に正当性があると3の場面があまり盛り上がりません。

 追放前は大したことないが、追放された後に真の力に目覚める、みたいなものは避けるべきだと個人的には思います。追放側に正当な理由を与えるからです。

 少なくとも能力の片鱗が見えたり、その片鱗に気が付かないのはおかしいといった落ち度が必要です。


 また2において新たに責任を与えるのもあまりよく無いと思います。知る人ぞ知る実力者、のような扱いが好まれるかと思います。これは追放の考察からは外れますが、主人公に義務を与えるのは小説家になろうではあまり好まれません(主人公が勇者で、世界を救わなければならない等)。


 ではタイトルにもあるように読み手側の考察となります。なぜ読み手側は追放ものを楽しいと感じるのでしょうか。


 まず先に言い訳させて貰えれば、私は心理学の専門家でもなんでも無いので、ここからの話はあくまで素人の一つの考えだ、ということを理解して頂いた上で読み進めて下さい。


 これはあくまで私の考えですが、追放ものを好ましく感じるのは「シャーデンフロイデ」という感情から成り立っています。


 シャーデンフロイデについてはさまざまな書籍がありますので、この後の文章で興味が出たら読んで頂くのが良いと思いますが、簡単に言えば「ざまぁ」「メシウマ」「他人の不幸は蜜の味」です。

 誰もが書籍を読む訳ではないと思いますので、誰でも読めるWikipediaからシャーデンフロイデについて簡単に引用しますと


 ①自分から見て、不幸に見舞われた他人はそれ相応な状態だと認識されている。


 ②他人の不幸はそれほど深刻ではない。


 ③他人の不幸に対して自分が受動的な立場である(積極的な関与ではない)。


 とのことです。これを追放ものに当てはめた場合。


 ①については簡単です。主人公を追放したという行為、それによって訪れる不幸、が相応の罰です。

 そのため主人公の追放に対して追放側に正当性があると、罰が相応ではなくなるので追放の理由は不当でなければいけません。


 ②についてはやや当てはまらない場合もあります。小説家になろうにおける追放の首謀者は、最終的に死亡するケースも多いからです。

 ただ追放側に残ったメンバーが救済されることによってこれに近い状態になります。

 追放側ではあるのですが、主人公をかばうなどのキャラクターを用意することが必要です。

 ただ彼らも追放が不当でもその後パーティや集団に残る事を考えれば、消極的には追放に関与していますので、ちょっとした罰は課せられます。


 本来なら追放が不当な場合、追放の首謀者はこの時点で糾弾され、追放され、主人公は戻されるべきなのですがそうはならず、不当な行為を行った追放の首謀者はこの時点では罰則がない、または罰則が相応ではなく軽い事がほとんどです。

 つまり首謀者以外の集団に残るメンバーは消極的関与と言って良いかと思います。


 消極的な関与をしたメンバーは、命までは取られない事がほとんどですが、少し罰を与えられる事があります。これが相応の罰です。


 もちろんメンバー全員が積極的に関わった場合、全員に等しく罰を与える必要があります。


 ③はそのままですね。直接的な復讐を主人公が望めば、それが義務になるのであまり好まれません。最終的に手を下すことはありますが、やや仕方なしという感じが多いかと思います。


 もちろん集団の壊滅に直接的、積極的に関与する場合もあります。この場合は他人の不幸に受動的な立場ではなくなるので、あくまで「追放」はおまけの「復讐もの」と言えるかも知れません。


 このシャーデンフロイデという感情ですが、後ろ暗い感情だと思う方もいるかも知れません。


「俺、人の不幸好きなんだよね」

とはなかなか言えないと思います。


 しかしシャーデンフロイデ自体は、別に悪い感情ではありません。


 例えばあなたが街を歩いていた時に、全く関わりがない、明らかに未成年だとわかる人物がタバコを吸っていたとします。

 喫煙その物を嫌う人もいますが、あくまであなたが未成年の喫煙に対してのみ否定的だとした場合、あなたは注意しますか?


 私は恐らく注意しません。注意する際のコストがわりに合わないと感じるからです。

 反論されたり、下手をすれば暴力を振るわれたりといったトラブルを抱える可能性、これがコストです。


 ただもし仮に注意した場合に、その人物が「すみませんでした、もう二度と吸いません」と言ってきたらどうでしょう。


 彼または彼女がタバコをやめることに、今これを読んでる方のほとんどにメリットは無いと思います。

 ただもしそうなったとしたら、とても気持ちが良い、誇らしい気分になる、そう思いませんか?


 共同体においてルールが守られる事に対して、快感を覚えるというのは単純な脳の働きだからです。つまり「ルールが守られる事に関与できて気持ちいい」と感じることそれ自体がメリットです。


 この共同体に対しての意識から発生する感情のひとつがシャーデンフロイデです。


 そういった意味で、共同体への帰属意識を持たないという特徴を持つ、サイコパスな人物は恐らく追放系の物語は楽しめません。むしろ真面目で、やや愛情深い人間の方がシャーデンフロイデを感じやすいという人もいます。


 例えば先程のタバコを吸っている人物の話に戻しますが、その人物がタバコのフィルターが唇にくっついてしまい、うまくタバコを口から離せず火種に手が当たり、「アッチィ!」と言う場面を見たとします。


 私なら思わず「フフッ」と笑ってしまうかも知れません。

 ただし罰は相応でなければなりません。タバコの火が服に燃え移り死んだ、となるとさすがに笑えません。


 つまり人間には共同体のルールを守らない人物に対して、相応の罰を求める本能があるのです。

 人間は本能を満たした場合、報酬として脳が快感を与えます。


 これこそがシャーデンフロイデの元になる感情です。


 ただしこの「共同体」というのが、その人の価値観によって変化を及ぼします。


 例えば芸能人、スポーツ選手などの「有名人」という共同体に対して「一般人」という共同体。

 この「有名人」は「金持ち」に変わることもあれば、「リア充」に変わることもあるでしょう。

 ただし広い共同体としての「日本人」に所属している訳ですから、当然彼らにも「共同体」としてのルールを求めます。


 この場合「一般人」の共同体に所属している人物から見れば、その他の共同体に所属している人物は「不当な利益を得ている」と考える事があります。


 ちょっと容姿に恵まれたから、ちょっとスポーツの才能に恵まれたから、あいつは大したこと無いのに、親が金持ちだから……など、その感情の源は妬みですが、共同体のルールを乱す人間と心理上カテゴライズされます。


 本来、本人が持つ価値に応じて報酬を得るのは、資本主義経済において正当な行為です。妬む人々もそれはわかっているのでこの時点では面と向かって罰則を求めたりはしません。せいぜい「あいつどこに需要あるの?」とか「そこまで美人じゃ無いのに」などの批判にとどまります。


 恐らく「有名人」の報酬がとても低い、などであれば良いのですが、現在はネットやテレビによって彼らの生活ぶりも伝わりますので、「安月給なんですよー」と言ってもなかなか信じて貰えないでしょう。


 そのため普段は妬みでしかない感情でも、彼らが不倫や、交通事故などの不祥事を起こした場合、日本人という共同体のルールを破った事に合わせて、普段から「あいつらはズルい」と感じているので、本来の法律などが定める相応の罰以上の罰を求めがちになります。


 不祥事に対しての罰だけでなく、普段から感じている不公平感への罰を合わせて求めることに正当性を感じてしまうのです。


 ちなみにこの妬みも、突き抜ければ尊敬や憧れに変わるので、一概に悪い感情ではありません。


 少し話がずれましたが、シャーデンフロイデ自体は自分が所属している共同体を守ろうとすることに対しての脳からの報酬なので、過度に恥ずかしがる必要は無いということです。


 ただしあまりにその感情が強すぎると「イジメ」などに快感を覚えるので、自分の心理状態が「必要以上の罰則を求めていないか?」と常に考える冷静さが必要になります。


 長々とここまで考察したまとめになります。


Ⅰ.主人公の追放を積極的に進めた人物は、共同体にとって有益な人物を排除するという、共同体を脅かす愚行を働いた張本人である。


Ⅱ.人間には共同体を脅かす人物が罰を受けてほしいという本能がある。


Ⅲ.追放テンプレは、その張本人が罰を与えられる物語の為、人が本能的に快感を感じやすい。


ということです。


 その上で考えなければいけないのは、最初に上げた1~3までが物語として進行が終わった場合、本能に訴えかける快感は無くなってしまうということです。


 つまりよほどその後の展開を考えないと、いわゆる「ざまぁ」が終わった後は、その後の物語が蛇足になってしまう可能性がある、という恐ろしさが追放テンプレには内包されているのです。


 そういった意味では、長く話を続けるためにスタートした場合、1~3のうちの2


「主人公が本当にやりたいこと」


がいかに共感を得ることができるか、「ざまぁ」が終わった後も読む人がそれを楽しめるかをスタート前に考えなければいけないのかもしれません。


 これが上手くいかないと、「追放もの」における主人公は、「共同体を脅かす、愚かな人物が罰を受ける物語」の舞台装置になってしまうからです。それだと「愚か者が転落してざまぁされる物語」にしかならなくなります。


 または「ざまぁ」をできるだけ引っ張って「今か今か」と期待感を煽り続ける事でしょうか。


 期待感を煽るなら、罰を受ける人物がある程度幸福を積み上げる方が、その罰が激しくても相応だ、となる可能性もあります。


 幸福を積み上げるのは実はそれ相応の能力が必要ですが、それは「主人公の追放」という、不公平な手段と思えることによってもたらされた不当な幸福の為、強烈な罰に読者が正当性を感じやすくなるでしょう。


 本来自分の立場を脅かす人物を排除しようとするのは、世間一般では珍しいことではありませんが、そのような手段を実行する人物はなかなか好意的には受け取られないでしょう。


 その上で物語のラストに盛大な「ざまぁ」で終わらせる、というのも1つの方法かも知れません。


 以上が私の考える追放テンプレと、読者の心理です。


 ちなみにダメな例として、自分の作品を。


「Sクラス冒険者の彼氏にフラれたら、回りの手のひら返しが凄いんですが」


 という作品をしばらく前に書きました。


 これは「ざまぁ」を考えた場合、かなりダメな例となりました。どうダメだったかはここまで読んで頂いたものを、作品を読みながら当てはめるのも面白いかも知れません。


 八千字ほどの作品なので、それほど時間はかからないと思います


 もしこのエッセイを読んだ方が、追放系の話を考えていて「参考になった!」と思ってもらえたり、追放系が好きな読者の方が「そうだったんだ!」と感じて頂けたら幸いです。


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[良い点] シャーテンフロイデ! 分かった気がします!(気がするだけ) 勉強になりました!
[良い点] 自分と異なる考察でなるほどと思いました [一言] 追放系って承認欲求の発露だとおもってました。女性向け婚約破棄もそう。実は私が聖女でしたとかー。 そして必ず本当の価値の知る人があらわれ、み…
[一言] 追放系の物語が好きな私は「真面目で、やや愛情深い人間」であることがわかりました(←おい。ちがう、そうじゃない) という冗談はさておいて、追放系を書こうと考えるも、どうしてもラストが思いつかな…
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