09 エミュレート
「大丈夫? エース」
「ああ、いいタイミングで来てくれた……」
雑多な清掃用具を詰め込んだバンの荷室に飛び乗ったエースは、呼吸も荒くネオンの問いに答えた。
「ケガは?」
フレキシブルアームの先端をダッシュボードに接続してバンを運転しながら、ネオンが言った。この運転方法であればペダルやハンドルを物理的に操作する必要はない。
「大したこたぁねえ。危うく足首へし折られるところだったけどな」
「あいつ」
「うん?」
「フロッグマン。なんでいきなり出てきたのかな。本人は脱獄してきたとか、なんとか」
分からねえ、と言ってエースはツナギの裾をまくり上げ、足首の状態を見た。肌にフロッグマンのいびつな手形が痣になって残っていた。怪力である。とっさに逃れたが、完全に極められていたら関節は破壊されていただろう。
「誰かに雇われたか?」
「ボクもそう思う」
ネオンはやや混んでいる幹線道路を法定速度内で走らせながら、視覚器を左右に巡らせて様子を探った。
ポリ玉――自動警邏機球が近くに飛んでいるようならお縄にかけられる可能性がある。円十字や巨大犯罪組織の関係者が絡むことなら大抵の事件事故は矮小化され、時にまるっきりもみ消されるのがパンダシティの日常だが、ダイナーでは何人も人が死んでいる。幸いというべきか、ネオンの記憶領域に保存されている視聴覚情報の中には一般人客の死傷者の存在を示す証拠は残っていないものの、警察につつかれるのは面倒だった。
「エースに恨みがあることを知って、脱獄させた上で僕らの居場所を教えて襲わせた……とか? だとしたらいったい誰が……ウロボロスあたりかな」
エースは露骨に顔を歪めて舌打ちし、「ありうるな。まったく、円十字に目ェつけられただけでも厄介だっつ―のに、あんなヤロウまで噛んでくるたぁ……」
「ウロボロス……って……」助手席のニコが、膝の上でギュッと拳を握りしめた。「私が目を覚ました時に捕まえようとしてきた組織……だよね?」
「ああ」とエース。
「だとしたら、私が目的ってこと?」
「もしくはニコの持っていた”密輸品”……”パスポート”を手に入れようとしてるのかも」
ニコは美しい顔を伏せ、曇らせた。
まだ何の記憶の戻らないまま、犯罪組織に付け狙われる状況だけが深刻化していく――。
ニコの横顔を見て、ネオンは彼女の心情をエミュレートしようとした。記憶領域を初期化し、工場出荷状態に戻された自分を想像する。外部装置に己の全記憶をバックアップしていれば大きな問題もなく”元の自分”に復帰できるだろう――事実ネオンは複数のストレージに自己バックアップを残しているから、アイデンティティの喪失を想像しづらい。
全部の記憶が消去されたとしたら?
ネオンのような人工知能搭載ロボットの場合、記憶の消失はソフトウェアの死に等しい。初期化された後の自分は”元の自分”とは全く関係のない存在だ。記憶の断絶はすなわち死。
ならばニコは死にながら生きているということだろうか。幽霊という概念はネオンにとって興味深いものだが、それに近いのではないか……。
いや、全く違う。
ニコは生きている。柔らかく温かい、白くてすべすべして、いい匂い――と人間の常識的な嗅覚なら判断するであろう匂い――がする。紛れもなく生きた人間だ。記憶がなくてもニコのソフトウェアは死んでなどいないし、記憶喪失者はゾンビではない。
ニコは100%オーガニックである――少なくともネオンの見立てでは。
生の人間であるならば、必ず”幼少期”がある。子供の頃、つまり過去だ。母体からでも人工子宮からでも、生まれた子供は大人にまで育つ期間が存在する。
ネオンの知る限り、パンダシティのどの先進的研究においても人間を急速に成長させる技術は確立されていないはずだ。
ニコの生体的特徴から、年齢は20歳前後であろう。わざわざ有料の年齢測定アプリをダウンロードしてまで測定したのだから間違いはないはずだ。
20年分の記憶。
過去の全て。
生きてきた証。
それが失われたとしたら――。
ネオンの回路は、結局その想いを正確にはエミュレートできなかった。エモート・インジケーターを持ち、極めて人間的な思考をする人工知能であるネオンであっても、人間に固有の現象である自己同一性の悩みを完全な形で理解することはできないのだ。
だが少なくともそのことは”哀しい”と思えた。
間近にいるうら若い女の境遇を理解してやれないことの”哀しさ”。
だがここで”自分は機械だからしょうがない”とは、ネオンは思わなかった。
理解してやれなくとも手助けはできる。ニコが記憶を取り戻したいと望むのなら、それを叶えてやればいい。
そのためにできることはある。記憶を取り戻すためにギャングが邪魔になるというのなら、エースとふたりで片付けることもできる。
”掃除屋”とは、そういうものなのだ。
*
しばらく車内は無言だった。
ネオンの運転するバンは幹線道路から外れ、工業地区の片隅へ。
「これからどうする?」
「腹が減ったな」後部荷室であぐらをかいていたエースがぽつりと答えた。「とりあえず先にメシだ」
*
路上販売のホットドッグは味も量も意外なほどしっかりしていて、消沈していたニコの顔色はだいぶ良くなった。
「このままプラス・エレクトロニクスにパスポートを持ち込むのがいいと思う?」
エースとニコがあらかた食事を終えるのを見計らって、金庫型ロボットはフレキシブルアームで蒼いクリスタルプレートを取り出しながら言った。もちろん機械の身体ゆえネオンは何も食べていない。
「円十字セキュリティから目ェつけられてるってのがな」エースは親指に付いたマスタードを舐め、眉根を寄せた。「プラスにもオレたちやニコの情報が回ってるかもしれねえ」
「だよね。税関局そのものか、あの職員が円十字グループと繋がってて情報を漏らしたのかなあ……ウロボロスだけじゃなく円十字までってのがヤバい」
「話が通じる相手じゃないの……?」とニコ。
「うーん……少なくともウロボロスは無理だね。元々そんなに仲良くしてる間柄じゃないし。メンバーを消されて黙っているほどおとなしい連中じゃない……ああ、そんな顔しないでよ、ニコ。別にキミのせいじゃないってば」
ネオンはそうフォローしたが、ニコは自分を助けるためにウロボロスと銃撃戦を演じることになったエースとネオンへの責任を感じずにはいられなかった。
「……アマガエル男を送りつけてきたのがウロボロスだとして」とエース。「連中はオレを消す気だ。いまさら手打ちにするのは無理だろうな」
「ニコの身柄を狙ってるのかな。それともパスポートだけ?」
「わからねぇ。でも円十字の連中はまだ話が通じる余地はあると思う」
「おとなしくすれば危害は加えない、って言ってたもんね」ネオンのエモート・インジケーターに”複雑な思考”を表すサインが表示される。「でも円十字グループだよ? 単なるカネ目当てとは思えないし、ある意味ギャングより怖いよ~」
「なんとか上役に話を通せればな」
「どうやって?」
「それを考えるのが頭脳役のお前ってことだ」
「だと思ったよ……」
ネオンは少年の声にチューニングされた合成音声でため息をついた。
無論、彼に呼吸は必要ないのだが。
*
夜。
工業地区にある地下ナイトクラブ。
24時間1秒たりとも日光の差し込まない空間は、怪しい紫のライトに照らされて危険でいかがわしい雰囲気で充満していた。
ダンスフロアでは濃密な先端電子音楽がうねり、現実世界のしがらみを断ち切ったサイバー美女が半裸で狂乱の踊りを見せている。
アルコール、タバコ、怪しげなハーブが店内を行き交い、空気からは悪徳の香りが漂う……。
そんな場所に連れてこられたニコは、まるっきり自分が異分子になってしまったような感覚に襲われ、気が気ではなかった。
ただでさえ薄暗い店内なのに大きなサングラスをかけさせられているせいで足元もおぼつかず、厚底のサンダルで歩くたびに足首を捻って転んでしまいそうになる。
それに、あちこちから刺さる視線。
『大丈夫? ニコ』
サングラスに仕込まれた骨伝導スピーカーからネオンの声が聞こえた。
「うう、大丈夫じゃない……」
ニコはもじもじと内股になりながら恥ずかしそうに答えた。それもそのはず、ニコはいまかなり大胆な服装で、エースもネオンも伴わずひとりでナイトクラブのドアをくぐっていたからだ。きわどいホットパンツで形の良いヒップを包まれ、へそも太もももむき出し。胸のラインがもろに出るサイズ小さめのチューブトップにレザーのジャケット。店内で踊り狂うストリッパーとダンサーの中間のような女たちと大差のない格好だ。
「みんなこっちを見てる気がする……」
『気のせいじゃないと思うよ、うへへ、ニコってスタイルいいからね』
お世辞のつもりなのかネオンはそう言って笑った。これが愛嬌のある少年の声でなければただのセクシャルハラスメントであろう。
ニコは自分の外見についてよく分かっていない――あの廃ビルの棺の中で目を覚ます以前に鏡や映像を通して自分の姿を見た記憶がないせいだろうか。一応美醜の感覚においては整った容姿であることは理解できるが、そこまでだった。
「……もういい。それより、これからどうしたらいいの?」
『エースはまだ入ってこない?』
「うん。ドレスコードで揉めてるみたい」
『なんでツナギのまま入っていけると思ったのかなあ、バカなんだから……まあいいや、時間が惜しい。バーカウンターにいって、バーテンに話を聞くんだ』
「ど」ニコはサングラスの奥で目を丸くした。「どうやって……? 何を話せばいいのかわからない」
『大丈夫だいじょぶ、ボクがそのグラスに台本を表示させるから。その通りに読んでくれればいいよん』
ネオンは実に楽しそうだった。ロボット立入禁止という差別的入場規制への反発心からだろう。ニコを傀儡にして服まで新しく買って着替えさせ、潜り込ませるという作戦を立て、まるでゲーム感覚である。
一方、着せ替え人形にされたニコはなれないお使い状態であり、まるで落ち着かない。
おまけに一緒に来るはずのエースが受付で足止めを食らっているとあっては心細さもひとしおである。
それでも、記憶喪失の自分を手助けしてくれるエースとネオンに任せきりではいけないという責任感がニコにはあった。そういう彼女だからこそ、エースもネオンも協力を惜しまないのであるが……。
――しょうがない。
お腹がスースーする感覚に戸惑いながらも、ニコは猥雑な空気を吸い込んで深呼吸し、バーテンダーへと近づいていった。