04 朝食
限界まで強く、やけどしないギリギリまで熱くしたシャワーが白い肌を打つ。
湯の勢いが不安を押し流してくれるのを期待して。
ニコはエース清掃の事務所ビルに備えられたバスルームを借り、シャワーを浴びていた。
ウロボロスのギャングたちに追われて汗ばんでいた肢体が洗い流されると、頭の中の空虚な忘却から少しずつ意識が離れていくような気がした。
自分がどこから来た何者なのか。
――思い出せない。
なぜあんな廃ビルに、棺の中に入った状態で眠っていたのか。
――わからない。
ウロボロスと呼ばれるギャングたちはなぜ自分のことを捕まえようとしたのか。
――見当もつかない。
ニコは顔を上げ、勢い良く降り注ぐシャワーをまともに受け止めた。
何の答えも持ち得ない自分があまりに弱々しく思えてならなかった。
パンダシティ。
この都市の名前だという。奇妙な響きだ。それ以外の感慨は湧いてこない。
関連して思い出せるものは何もなかった。
自分がパンダシティの人間であるということを示すものは、頭のなかにもバッグの中にも入っていない。
ではどこか別の場所からやってきたのではないか――ニコの無意識の感覚はそちらの方を支持しているようだった。蒼いクリスタルプレートのことをパスポートだと感じたのもそのせいではないのか。
『パスポート、ってなんだ?』
エースの言葉が脳裏に蘇って、閉じたまま飛沫に耐えるまぶたがピクリと動いた。
『ねえニコ、キミが本当にこのパンダシティの外から来たのなら……』今度はおしゃべりな金庫型のロボット、ネオンの声。『ウロボロスがキミのことを捕まえようとしていた理由、わかる気がする』
ニコは水分を吸って垂れ下がる髪をかきあげ、後ろになでつけた。
『パンダシティには”外”がない。パンダシティからどこかに行くことも、どこかからパンダシティに来ることもできないんだ』
――そんなのおかしい。
ニコは反論した。ひとつの都市から外に出られないなどということは理屈にあわない。それは記憶がなくとも自明の理と思えた。
『でも本当なんだ。どうしてなのかわからない。誰にも説明できないけど、パンダシティにはパンダシティしかない。そこから外には出られないし、誰も入ってこれない。もし入ってくるものがあるとすればそれは”密輸品”だ』
――密輸品?
『……”外”からこの街に入ってくる品物のことをそう呼んでる。あー、言いたいことはわかる。話が矛盾してるってな』エースが訥々と言った。『オレも説明できねーが、とにかくそう呼ばれている。本来なら存在しないはずのもの。そういうものだから、金になる。ウロボロスみたいな組織は密輸品を手に入れることに躍起になってるんだ。他の組織との間で奪い合いになって、戦争しかけることだってある』
戦争、というのは犯罪組織同士の抗争のことだろうとニコは思った。
『だから……わかるだろう? ”密輸品”と同じように、”外”から人間がやってきたとしたら、どうなるか』
本来存在しない品物が”密輸品”なら、存在しない人間は”密入国者”とでもいうのだろうか。それが本当なら、そして金になるというのなら犯罪組織が密入国者を攫って売り物にしようと考えても不思議ではないような気がする。
つまり自分は密入国者なのだろうか。密航者、旅行者、不法滞在者……呼び方はなんでもいい。身分証明につながるものは何も持っていないし、記憶が全くない状態ではそれを否定しうる材料は何もなかった。
『結論を急ぐのは早いよ』ネオンがエモート・インジケーターにリラックスを促すサインを表示させた。『このクリスタルプレートが何なのか、もっと調べてからでも遅くない。何かの拍子に記憶が戻るかも知れないし。今日のところは事務所に泊まるといいよ』
ニコには断る理由はなかった。他に行くあてもない。
あるいはエースとネオンもまた危険な人物とロボットかもしれない。印象だけなら”良さそうな”人たちではあったが、そんな彼らもギャングに対抗して銃を撃ち、相手を殺傷している。ウロボロスなる組織の一員ではないにせよ、他の犯罪組織に属している可能性もあった。
だがそれを判断する知識は頭の中に存在しない。信用のことをいうなら自分自身が一番信用できなかった。
結局、ニコは湧き起こる疑問そのものをたっぷりの水量で洗い流し、いまはエースとネオンの世話になることを決めた。
そうするしか方法はないように思えた。
*
翌朝。
ニコは目が覚める直前に何かを期待したが、まぶたを開けると儚く消えた。何を期待していたのか、もう思い出せない。
「おはよう、ニコ。よく眠れた?」
朝から軽快なモーター音を鳴らすロボットのネオンが、寝起きで事務所にぼんやりと突っ立っているニコに愛想よく話しかけた。全身頑丈そうな金属製だが、中型犬ほどの大きさで人懐っこく動き回られると独特の愛嬌がある。
「はいこれ」
ネオンはフレキシブルアームに器用にぶら下げたコンビニエンスストアの袋をニコに差し出した。
何ごとかと受け取ると、中には歯ブラシとごく簡単なメイク用品が詰め込まれていた。眠っている間に買ってきてくれたのだろう。必死になって運んだキャリングバッグには入っていなかったものだ。
「どう、どう?」
エモート・インジケーターが、お利口を褒めてもらいたがるイヌのしっぽのごとく明滅している。
「ありがと、ネオン」ニコは小さく苦笑してからネオンの頭――そこが頭と呼べるなら――を撫でた。「洗面台、使わせてもらうね」
不思議なことだが、自分の身の上についてはほぼ何も覚えていないに等しいのに、洗顔や化粧の仕方は言われなくてもわかった。日常習慣化しているレベルの行為は問題なくこなせるらしい。
複雑な気分になった。何か、都合のいいことだけを覚えていて肝心なことに限って忘れてしまっているような、後ろめたさにも似た感情がよぎらないでもない。
「記憶っていうのは元々都合がいいんだよ、キミたち人間の場合」
同じくコンビニで買ってきた朝食をテーブルに並べながらネオンが言った。こまっしゃくれた少年のようである。
「感覚が捉えた情報の大事なところだけ編集して残りは意識の中から捨ててしまう……そのくせ欠損部分を自分勝手に補おうと捏造だって平気で行うんだ。その点、ボクみたいなロボットの頭脳は……」
「どうだかな」
いつの間にか事務所に現れたエースが、朝っぱらから人工知能の優位性を説こうとするネオンの頭にゴン、と軽く拳を落とした。髪がとんでもない寝癖になっている。
「お前はもう少しデリカシーっつーもんを学習したほうがいいぜ、ネオン」
「あ、あの、おはよう……エース」ニコが控えめに挨拶する。
「おう、おはよう」
「じゃあ食事だ。いただきまーす」とネオン。
「いただきます……」
「ん」
ロボットのネオンは充電池で動いており当然食事の必要はない。エモート・インジケーターで祈りのサインまで掲げて誰から何を”いただく”のか不明だが、朝食の席で人間に混じってそのような宣言をすることはネオンにとって重要な行為であるらしかった。
コンビニのバターロールやサンドイッチ、野菜ジュースはおいしいともまずいとも言えない凡庸な味がした。
こういった食事に自分が慣れているかどうか、ニコには判断がつかなかった。
こういった食事風景――他の誰かと食卓を囲んで食べるという行為についても。
人間ならば、誰しも子供の頃に親兄弟と食事をした記憶があるはずだ、という”常識”はある。だが、その常識をどうやって身につけたのかは見当もつかなかった。
気を抜くとすぐに心細くなる。
自分がどんな人生を歩んできたのか何もわからないという、自分自身が自分ではないように感じられる奇妙な孤独。
――いまは考えないようにしよう……。
小さくため息をついて、ニコは口の中のものを野菜ジュースで無理やり飲み込んだ。
*
食事を済ませた後、三人はバンに乗り込んで外出した。
「例の蒼いプレートを調べてもらおう」エースはそう言ってハンドルを切った。「知り合いにこの手の品物に強いジジイがいるんだ」
「強いジジイが」とニコ。
「そう。ジャンク屋をやってる」
ニコには何のことかわからなかったがとにかくエースとネオンに従うことに決めた。
このふたりが信用に値しない、ということになれば、ニコは記憶や身分証明だけでなく人を見る目まで無いということになる。偶然が結んだ縁ではあるが、今は二人を信じたかった。
「……清掃業者」
「うん?」
「エースとネオンは、ふたりは清掃業者なんでしょう?」
「そうだよ」「そうだな」
「いいの? 私のことを心配して手助けしてくれるのは嬉しいけど、仕事のじゃまだったら……」
「気にしなくていーよ、へいきへいき」ネオンの合成音声は脳天気だった。「清掃業者っていっても、ボクらはちょっと特殊っていうか」
「特殊な清掃?」
「あー、なんていうか、まあ普通の掃除もするんだけどな」
エースはそういうことではないんだが、と言いつつルームミラーに映るニコの姿を見た。
「そこは、世を忍ぶ仮の姿ってやつで」とネオン。
要領を得ない話である。
「ま、とにかくオレたちにその手の遠慮は必要ないから。気にしなくていい」
「そういうこと」
どうやらふたりにはニコに話す気がないらしい。それだけは理解できた。
それから20分ほど沈黙が続いた。
ニコは助手席からぼんやりと車窓を流れるパンダシティの街並みを眺めた。貧困地区とあだ名されるだけあって建物はどれも薄汚れて安っぽく、古びている。それがひとつの味となっているのも否めないが、全体的な印象としては本能的な身の危険を感じるような空気が底に流れているようだった。
「実際、危険なんだ」エースがわずかに眉をひそめた。「ウロボロスみたいな犯罪組織が裏で牛耳っているせいだ。警官の殉職も多くて、パトロール任務の大半が、ホラ、あそこに浮いてるの見えるか?」
「あの丸いロボット?」
「そう。自動警邏機球。オレたちはポリ玉って呼んでるが、それに置き換えられたんだ。見た目こそいいが、ポンコツでな。肝心なことをわざとじゃないかってくらい見逃して、おかげで犯罪率は右肩上がりだ」
「ウロボロス……」
ニコはその名を呟き、また気分を暗くした。組織に一度狙われた自分が、これからも狙われ続けることは十分考えられることだ。
「よし、ここだ」
ニコがよそ見をしている間にバンは急に方向を変え、駐車場に停止した。
そこはまさしくジャンク屋だった。