03 蒼いプレート
パンダシティ、貧困地区の片隅に立つオンボロビル。
1階のガレージにバンが停まり、シャッターが閉まる。
「ふぅーっ……」
金属製の重たい音が降りきったタイミングで、金庫型ロボットのネオンが長いため息をついた。酸素を必要としない彼には排気の必要ももちろんないが、ともかくエモート・インジケーターは”やっと人心地ついた”とでも言うようにフラットな水色の波形を表示している。
「ウロボロスの連中、追ってきてないかな?」
ネオンの視覚器がルームミラー越しに荷室のエースを見た。
「たぶんな」ツナギ姿のエースは清掃用具がでたらめに撒き散らされた荷室のゴムマットの上であぐらをかき、鼻をひとつ鳴らした。「ポリ玉(註:パンダシティ市民のあいだで言われる自動警邏機球の蔑称)も尾けてきてなかったし、まあひとまずは大丈夫だ」
「だといいけど」
ネオンはダッシュボードの端子に接続したフレキシブルアームを引き抜くと、運転席のドアを開けてガレージの打ちっぱなしのコンクリート床に飛び降りた。エースもそれに倣う。
「あー、その……ニコ?」
首筋を撫で、ばつの悪そうな様子でエースは助手席で茫然としている女に声をかけた。
ニコはぎこちなくエースの顔を見て、小さくうなずいた。目には隠しきれない戸惑いが溢れそうなほど湛えられていて、怯えた小動物を思わせた。
「すまねえ、いきなりで驚かせちまったな」
「……」
「ここはオレたちの事務所で、その……なんていうか、安全な場所だから、安心してくれていい」
「……事務所?」ニコは鸚鵡返しに言った。
「ああ。”エース清掃”っつって、オレの……」
「ボクが社長のネオンだよ」頑丈な金庫の体の下に生えた車輪で滑るようにネオンが割って入った。「細かい話はあとあと。まずは事務所に上がってよ。ちょっと汚れてるけど」
いかなる合成技術によるものか、ネオンの少年のような声は人懐っこく、おおらかだった。
ニコはおずおずとうなずいて、バンの助手席から降りた。
ほかにどうにかできる選択肢は思いつかなかった。
*
「記憶がない?」
”エース清掃”事務所の応接スペース――とは名ばかりの、古びたソファとテーブルをパーテーションで区切っただけの場所で、エースとネオンは異口同音に言った。
ニコはそんなふたりの反応に大きな目をしばたかせてから、申し訳なさそうに顔を伏せた。
「じゃあ、なんだ、その……記憶喪失ってやつか」
ツナギの上半身だけをはだけた状態のエースは、腕組みしてうーんと唸った。ギャングに追われていたところをとにかく助けてやろうという単純な思いだけでウロボロスと銃撃戦までやってのけたが、追われていた本人が記憶喪失とは予想もつかない展開だった。
「名前以外に何も思い出せないの?」一方のネオンは、金属ボディを乗り出すようにして好奇心を露わにした。「ニコって言うのはファーストネーム? ファミリーネーム?」
「ごめんなさい、わからな……」
「出身は? 年齢は? 学校は? 可愛い服だね、どこで買ったの? コーヒーと紅茶どっちが好き? あ、もうコーヒー出しちゃったけど」
矢継ぎ早に質問を繰り出すネオンに、ニコは明らかに戸惑っていた。テーブルの上には確かにコーヒーが注がれているが、ニコはまだ口をつけていない。
「兄弟姉妹はいる? どこかで働いてた? まだ学生かな? 高校生って感じじゃないよね。テレビ見る? 音楽聞く? 静かな方がいい?」
「うるせえ」見かねてエースがネオンの頭頂部をゴインと小突いた。「そんないっぺんに聞くんじゃねーよ。だいたい記憶がないって言ってるのに、答えられねーだろ」
「バカだなあエースは」
「あ?」
「思い出せないからこそ、何かきっかけを与えようとしてるんじゃないか。バカだなあエースは」
「うるせえ」
エースは軽口に答えつつ、テーブルの反対側に座るニコの姿を盗み見た。
座っている姿勢。不安げに揺れる瞳。ノースリーブのニットからすらりと伸びる白い腕。むき出しの膝小僧。すね。ふくらはぎ。
美しい女だ。
「……あー、いや、そういうことじゃなくてだな」誰かに言い訳するように咳払いをひとつして、エースは居住まいを正した。「つまりその、なんだ。オレはどうすりゃいいんだ?」
エースのざっくりとしすぎな質問に、ニコはきょとんとした。
「だから……つまり、だ。ええと、オレはてっきりあの連中から救い出せばそれで終わりと思ってたんだ。事務所まで運んで、あとは送ってやればいいかくらいに。それが記憶喪失だなんて言われたら、どうすりゃいいのかわからねえ」
それはエースの正直な心境だった。
「……ごめんなさい」ニコはまた顔を伏せ、詫びた。「わからないの、本当に。たぶん、もっとお礼をしないといけないことなんだろうって思う。でも……何をどうすればいいのか、本当にわからない」
このままだと泣き出してしまいそうなニコの表情に、エースとネオンはふたたび顔と視覚器を見合わせて、ため息をついた。このまま話を聞き出そうとしても埒が明かないようだ。
「うーん……携帯端末とか手荷物とか、まずはそっちを調べてみようか」
ネオンはニコがここまでハンドルを握りしめて運んできたキャリングバッグをフレキシブルアームで指差した。
*
携帯端末はほぼ新品同様の代物で、個人情報に当たるものは何も拾えなかった。
ニコは目が覚めた直後に呼び出しがあったことをエースとネオンに話し、”登録1”という名前が表示されていたことも説明したが、そこに登録されていた電話番号はずらりと1が並んでいるだけで、どう見ても何かの間違いか偽装としか思えなかった。
「今日はもう遅いから、明日にでもショップに持っていこう」
端末にマルチ接続端子を突っ込んでデータを漁ったネオンはそう言って、”さじを投げた”というサインをエモート・インジケーターに表示させた。
キャリングバッグのなかに財布はなく、市民カードやクレジットカードと言った身分証明ができるものも見当たらなかった。
下着や着替えは全て新品だった。どれもニコの記憶に引っかかるものではなく、購入した覚えもなかった。
おそらく護身目的であろう拳銃は、管理番号も携帯許可コードも入っていないものだった。つまり違法に製造・流通された銃だ。個人情報にたどり着くどころか、ガンショップに持ち込めば通報されかねない。
ピルケースはこれと言って特徴のないプラスチック製、中に入っている薬も鎮痛剤や酔い止めのような市販薬だった。
結局最後に残ったのは、手のひらサイズの蒼いクリスタルプレートだけだった。
透き通った、厚さ5ミリほどの板である。
「なんだろうね、これ」
ネオンがアームでクリスタルを器用に持ち上げ、天井の照明に透かしてみせた。光が屈折して美しい青色の影をテーブルの上に落とす。
「中に何か……マイクロチップみたいなのが埋め込まれてる感じなんだけど。ボクの感覚器じゃ走査しきれないな。何かのパーツか、記録媒体か……うーん」
キュイ、キュイとフレキシブルアームが動くたびにクリスタルの角度が変わり、万華鏡めいて不思議な色合いを見せる。ニコもエースもクリスタルを見つめ、しばしその光の移ろいに見入った。
「パスポート……」
何かが大脳新皮質を刺激したのか、ニコがポツリと呟いた。
「え?」
「あの……もしかしたら、だけど」
ニコの黒目がちの目に、初めて己の意志らしききらめきが宿っていた。
「……何か思い出した?」とネオン。
「その、蒼いプレート」
「うん」
「パスポート、じゃないかなって」
「……パスポート?」
「ホラ、このバッグの中に入っているものって、ほとんどが着替えでしょう? だから私、全然思い出せないけどどこかに泊まりに行く予定だったんじゃないかな」
「泊まりに……ホテルとか?」
ネオンの問いに、ニコははっきりとうなずいた。
「そう。それで、どこか外国に旅行に行くつもりだったのかもしれない……あ、それともどこかから到着した後だったのかも」
「がいこく……?」
「うん!」
ニコは明るい表情を見せてうなずいたが、妙な感じがした。エースとネオンの反応が鈍い。ニコの言葉に、明らかに怪訝そうな様子だった。
「……あの、私変なこと言ったかな?」
少しはしゃぎすぎたような気分になって、ニコは声のトーンを落とした。
「言ってる」
「ええっ?」
「パスポート」
「……うん」
「パスポート、ってなんだ?」
エースは真顔だった。冗談やからかうような風ではない。本当にわからなくて聞いている、という雰囲気である。
ニコは急に足元がぐにゃりと不安定になったような気分に陥った。記憶がないと自覚したときと同じくらいの、床がぽっかりとくり抜かれてそこに落ちてしまいそうな、なんともいえない気持ちの悪さ。
救いを求めるようにニコはネオンの視覚器とエモート・インジケーターを見た。
”混乱”を示すもつれた糸のサインが表示されている。
「ニコ、もしかするとだけど、キミは”旅行者”なの?」
ネオンは”旅行者”のところに特別なイントネーションを置いた。文字通りの、旅行をする人物という意味以上の何かが込められているとニコは直感した。
「わからない。でも、そうかもしれない……私、この都市の人間じゃなくて、それで何を見ても思い出せないのかもしれないって……」
ニコがそう言ったきり、オンボロ事務所に沈黙が横たわった。
胸が締め付けられるような不安を感じたニコだったが、その正体を突き止めることはためらわれた。皮を剥いてみたら、そこにあるのは信じられないほど恐ろしい何かかもしれない。それは記憶がないことよりももっと巨大な苦痛を招くことなのかもしれない……。
鳥肌が立つような違和感に襲われつつ、ニコはエースとネオンの言葉を待った。
本心では、もうこれ以上何も聞きたくないと願いながら。