02 蛇
”ウロボロス”の一味であることを示す互いの尾を食む蛇のマークのバッジを付けたギャングたちは、清掃業者のつなぎを着た男・エースを取り囲んだ。
錆びたノコギリが肌を撫でるような空気が立ち込める。
パンダシティの地下社会をうねる犯罪組織ウロボロスに所属する彼らと敵対することは、蛇の巣に素手を突っ込む行為に等しい。
「おい兄ちゃん」さきほど手を蹴られ、拳銃を弾き飛ばされたスーツ姿の強面が一歩踏み出した。「これじゃあ見逃してやれなくなっちまうじゃねえか」
「だったら?」
エースの飄々とした態度に対する回答は、容赦のない前蹴りだった。
胃のあたりに革靴のつま先を叩き込まれ、エースの身体がくの字に曲がる。
自分が助けを求めた相手が蹴り飛ばされて、ウロボロスに追われていた女・ニコは声にならない悲鳴を上げて青ざめた。
「おい、連れて行け」
スーツの男が鼻を鳴らし、手下に命じる。
ギャングたちは大股でエースとニコに手を伸ばし、捕らえようとした。
「やめて……離して……!」
か細い声でニコが抵抗しようとするが、ギャングたちの人数と腕力はそれを何ひとつ受け入れない……。
次の瞬間、強引にニコの肩を掴んだ男が吹っ飛んだ。
エースの飛び蹴りが男のあごを直撃したのだ。
「気安く触るんじゃねーよ」
エースはみぞおちあたりを押さえながら、ギャング一同を見渡した。ギラつく視線。ギャングも、エースも、互いに血がふつふつと煮立つ音を聞いた。
目に見えないゴングが打ち鳴らされた。
「ウラアッ!」
スウェットにパーカーを着た肥満体の巨漢が、エースに向かって突進する。
初手に対するエースの回答は後ろ回し蹴りだった。かかとが巨体の脇腹に吸い込まれる。いくら肉の壁に包まれていても鍛えにくい場所というものがある。ぐえっと悲鳴を上げ、巨漢のギャングの身体がななめに傾いた。
その隙。エースはパーカーの襟元を掴んで思い切り引き下げると、ツナギに包まれた膝で丸っ鼻をかち上げた。ミヂッと鼻骨が折れて、鼻血が吹き出す。
「野郎ッ!」
その場で膝をつく巨漢の後ろから飛び出すようにして二番手が鋭いパンチを放つ。
エースは半身を翻してかわすと同時に懐に入り、胸骨に肘打ちを突き入れた。正面から胸を打たれ、一瞬呼吸も心臓も動きも止まった。エースは当然それを見逃さずフックをあごに叩き込もうとするが、そこに三番手が割って入った。
ナイフだ。
刃渡りは果物ナイフ程度だが、厚みがあり、いかにも肉を切り裂くのに適した作りになっている。ギャングが持つのにふさわしいものだと言える。
ナイフを持った男はジャケット姿であり、目つきが据わっている。ウロボロスの中ではチンピラより一枚上の存在だ。人を刃物で刺すことに躊躇がない。
鋭い突き、そこから刃を返しての斬りつけ、いったん引いて腰だめから刃先を突き出す恐ろしい動き。ナイフの威圧感も相まって、一般市民であれば刺される前に恐怖で体が動かなくなるだろう。
刃物が閃くたびにエースは普通の拳にするよりも大きくスウェーせざるを得ない。
三番手を倒そうとする間に、次のギャングたちがエースの背後に、そしてニコの身柄を押さえようと展開する。
このままでは押し切られてしまう――と歯噛みした途端、もっと恐ろしいものが弾けた。
銃声である。
エースの側面に回り込んだスーツ姿のギャングが、抜く手も見せず発砲したのだ。
もしバックステップが0.1秒でも遅れていたら、エースのツナギの下っ腹は赤黒く染まっていただろう。
「くッ!?」
いよいよ万事休す状況に陥った。殺す気だ。このままではニコをギャングたちから引き離すどころか、生きて帰ることさえ望み薄である。
と、そのとき。
タイヤがアスファルトを擦り上げ、甲高い悲鳴が響き渡った。
エースの運転していたバンが猛烈な勢いで急発進して、ギャングたちの只中に飛び込んだのである。
「ぐぇッ」
「ご!」
2、3人が弾き飛ばされ、宙を舞った。
「ネオン!」
エースが快哉を叫んだ。いつの間にか運転席に移っていた金庫型ロボットのネオンがバンを操作していた。
「エース、早く乗って!」
エモート・インジケーターを真っ赤に染めながら、ネオンは切羽詰まった声で叫んだ。
まさか素人を相手にしていて車が突っ込んでくるとは考えていなかったのだろう、ウロボロスのギャングたちは反応が一手遅れている。
そこを突き、エースはニコの身体を強引にひっつかんでいるチンピラふたりを即座に殴り飛ばした。
「あ……ありがとう……」ニコは目を白黒させて礼を言おうとした。「あの、私……」
「話は後だ、車に! 早く!」
エースはニコの背中を押して、投げ込むようにして助手席に座らせた。
「よし、出せ!」
自分は後部の荷室に潜り込み、ネオンに向かって怒鳴った。
再びタイヤが悲鳴を上げて、バンはギャングたちの合間を縫って発車した。
*
「……どうするの、追ってきてる」
ネオンがフレキシブルアームでハンドルを切りながら言った。機械の声とは思えない生々しい緊張感。
ドアミラーにはギャングを乗せたセダンが2台映っていた。威圧的な運転で追い越しを繰り返し、じょじょにバンへと迫って来ている。
「どうもこうもねえよ、撃ってくる前に巻くしか」
エースの言葉の途中で銃弾がバンの後部ガラスに食い込んだ。クモの巣状にひび割れて、細かい破片が荷室にばらまかれる。見れば、ギャングたちは箱乗りになって手に手に拳銃を持っていた。同時に5丁、銃口がバンに向けられている。
車間距離の微妙な安全圏を、ギャングの運転手がアクセルで食い破った。
「伏せろッ!」
自らも荷室で身を低くしながら、エースは助手席で縮こまる美しい女に頭を下げさせた。
銃声が3発。
1発は後部ハッチを貫通してから天井に食い込み、別の弾は運転席のヘッドレストを破壊し、最後の弾がフロントガラスまで達した。
「いってえ!」
叫んだのはネオンだ。
ヘッドレストを撃ち抜いた弾丸が、金庫型のボディの背中に飛び込んでいた。
「ちっくしょう、ふざけんなよ!」
少年の声で怒りを露わにするネオン。その頑丈な金属製の体には焼け焦げと凹みが出来ていた。
隣でそれを見たニコは、なんと言えばいいのかわからないという顔で口をぱくぱくとさせた。この喋る機械には痛覚があるのか?
と、ギャングを乗せたセダンがエンジンをふかした。
スピードを上げてネオンの運転するバンに体当たりを仕掛けてくる。
「エースッ! やばいよ!」
ネオンのエモート・インジケーターが最大限の警告を表示した。銃口のひとつがバンの前輪に向けられている。バーストさせる気だ。
金庫型ロボットの切羽詰まった声。
悪意を乗せた車のエンジン音。
暴力で己の意だけを通そうとする銃の軋み。
そして銃声――。
セダンから身を乗り出してタイヤを狙っていたギャングのひとりが肩を撃ち抜かれた。
撃ったのは――エース。
その瞳には漆黒の光が宿り、手に持つ拳銃からは細く煙が立ち昇る。
一線を越える。そのサイン。
ギャングたちが動いた。撃たれたひとりがドアから滑り落ちて路上に振り落とされるのを気にもとめず、バンに横合いから車体をぶつける。
「うおッ!?」
衝撃で車体がギシギシと揺れ、清掃用具がごちゃごちゃと積まれたバンの荷室でエースが片膝をついた。
「エース!」
ネオンの叫びに無言で答え、エースは荷室のウインドウをぶち割って引き金を引いた。
7発。ギャングたちを載せたセダンに銃弾が食い込む。車内は血飛沫にまみれた。
運転手がハンドルに突っ伏してクラクションが押しっぱなしになり、ギャングの車の1台はゆっくりと減速し、ミラーから消えていった。
しかしほんのひと息つく間もなく、もう1台の車がバンの後部にまっすぐ突っ込んできた。
凄まじい衝撃と揺れとでバンの中身はシェイクされた。ネオンがその人工知能で車体を精緻に制御しなければ、そのまま横転していたかもしれない。
コン、カンカン、と小気味よく銃弾が車内に飛び込んでくる音がして、その破片がいつ自分の肉体に潜り込んでくるかわからない。
「いやぁッ! もういやぁ!」
助手席に乗せられているニコは逃げることもできず状況を理解することも叶わず、恐怖のあまりほんのわずか失禁した。
「……ンなめるなあ!」
エースは吠えた。
銃を握ったまま荷室を這い進み、後部ハッチを蹴破るように開けると、自らに銃口が向けられるのも構わずギャングの車のフロントガラスに発砲した。
ビシっと音がしてクモの巣状にヒビが入る――が、貫通しない。
防弾ガラスだ。
一瞬だけ、ガラス越しにギャングのひとりと目が合う。暴力と犯罪とでパンダシティの地下社会をのたくるウロボロスの、これが組織力だと言わんばかりの酷薄な笑い。
エースの両目がかっと見開かれた。
信じられないムーブ。
ギャングが箱乗り状態から撃ってくるのを全く無視し、エースはしっかりと拳銃を構えて引き金を引いた。正確に、極めて正確に。フロントガラスに命中した同じ箇所を念押しするように銃弾が叩き込まれる。
3発目で防弾性能が音を上げて、ドライバーの保護が放棄された。
バシャ、と顔面の中央を撃ち抜かれ、ギャングカーは制御を失って尻を振り、後続車にぶつかってあえなく停止した。
興奮と緊張、硝煙の匂いが充満する車内。
どうにもならない沈黙を経てからようやくエースは全身の戦闘態勢を解き、前部座席の方を振り返った。
「……片付いたぞ」
その目にはもう恐ろしいものは宿ってはいなかった。
「びっくりさせちゃったね」
ネオンが優しい口調で言った。
それが自分にかけられた言葉だと理解するのに、ニコは数秒を要した。
「事情はよくわからないけど、いったん帰ろう」
「……帰る?」
「うん」
「どこに……?」
「ボクとエースの住んでる家に」
何もかもがわからないまま、ニコは奇妙な喋る金庫の言うことに従うことになった。
まだ何のよすがもない自分にとっては、彼らを頼るほかない。
それが正しい選択でありますようにと、祈る相手の名前すら、彼女の記憶の中にはなかった――。