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パンダシティ  作者: ミノ
第01章 記憶のない女
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01 迷子

 雨こそ降っていなかったがその日は曇りで、厚ぼったい雲の向こうに太陽の存在はまるで感じられない。


 灰色の空の下、解体途中で放棄された廃ビルの一角で、ひとりの女がまぶたを開けた。


 体を起こしてぼやけた視界が戻ってくる頃にはふたつの事実が判明した。目に入ってきたのは女にとって全く馴染みのない風景で、今の今まで身体を横たえていたのは黒塗りの棺の中だということ。


 ひび割れて湿った埃の匂いを漂わせるコンクリートの廃墟に置かれた黒い棺桶ひとつ。


 ひどく頭が重い。


 わけの分からぬまま、女は立ち上がって黒い棺の中から出た。


 つま先が何かを軽く蹴飛ばした。キャリングバッグ。それが自分の所有物であるという感覚だけはあった。


 女は特に考えずにバッグを開いた。携帯端末。着替え。下着。蒼いクリスタルプレート。生理用品。ピルケース。そして――拳銃。


 急に焦燥感が襲ってくる。女は異変に気がついた。


 ここがどこなのか。


 いまがいつなのか。


 自分が誰なのか。


 記憶がなかった。


 ガン、ガン、とどこかで大きな重機が動いている音。車のクラクション。都市のノイズ。


 混乱が血流に乗って頸動脈を駆け上がり、脳内を真っ白に焼き付かせる。


 と、場違いに軽快なベルの音が鳴った。女はびくりと細い肩を震わせた。その音が携帯端末の呼び出し音であることだけは理解できた。


 ”登録1”、”通話/拒否”。


 おそるおそる取り出した端末の画面に表示されるアイコン。その操作法は言われずとも頭のなかにあった。奇妙な感覚だった。端末自体にはまるで覚えがないのに。


『お目覚めね』


 落ち着いた女性の声。聞き覚えはない。


「……誰?」かすれた声でかろうじてそれだけを返した。


『そこから逃げなさい。”ウロボロス”に嗅ぎつけられたわ』


「う、ろぼろす……?」


 端末の向こう側の誰かは小さくため息をつき、『説明している時間はないわ。いい? そのカバンを持って一刻も早くそこから逃げなさい』


 複数の足音が廃墟のあちこちから聞こえてくるのがわかった。何者かが近づいてくる。全身、締め付けられるような緊張感が走る。


「逃げるって、どこに……?」


『手取り足取り教えてあげられればいいのだけれど。私が介入できる余地は少ないの。とにかく今は逃げ道を』


 話の途中で銃声が響いた。


「動くな」


 ねっとりとした男の声。スーツ姿の男達が、棺と女しかいないコンクリートの荒れた部屋にどこかから踏み込んできた。


 複数の銃口、そして視線が女を狙う。


 端末に救いを求めようとしたが、無情にも回線は切断されていた。


 瞬間、女は行動に出た。


 キャリングバッグから取り出した銃を男たちに向け、狙いも定めずに引き金を引くと、脇目も振らずにその場から駆け出した。


 何もわからぬまま、向かう先も知らず――。


     *


 道路に沿って浮遊する自動警邏機球パトスフィアの聴覚が、安い雑居ビルの一角で窓ガラスの割れる音を捉えた。


 事件の可能性をしめす黄色いグラフが跳ね上がる。一方で民事不介入の原則遵守を主張する思考プログラムが緑のバーを拡大させて、最後に本部との連携を行って現場に踏み込んだ際の経済効果を加味した演算領域が行動指針を左右する。


 パトスフィアの下した判断は、他の多くの例にしたがって現状維持のまま警戒を続ける、であった。


 その結果――アルコールで理性をほとんど崩壊させられた男が、割れた酒瓶を振り回して見知らぬ一般人を人質に立てこもり事件を起こしたとしても。


 殉職率の高い貧困地区のパトロールを人間に変わって行うパトスフィアは警官たちの命を救う名目において導入され、その名目に限っては成果を発揮していたが、犯罪発生率の上昇に一役買っているというのがもっぱらの噂だった。


 そのような事情とは無関係に、再び窓ガラスが打ち破られる音、そして悲鳴があたりに響いた。酒乱の男が暴れている。


 野次馬と関係者が十重二十重とえはたえと取り囲む中、警察はまだ到着しない。その高い殉職率、負傷率ゆえに先週も機動装甲服パワードスーツの現場支給を求める大規模な待遇改善要求デモを起こしたばかりの彼らの良心的怠慢は、その分のしわ寄せを最も弱い立場にある犯罪被害者へと担わせていた。


 誰もが不満を持っている。


 だがその解決策はいつもズレていて、本当に救済されるべきところへ手が届かない。


 今日もそんな”いつもの風景”が繰り返されようとしていた。


「おやっすおおったらああ!」


 意味不明の叫びが上がった。新しい酒と食い物、金を痙攣的に要求する男は業を煮やし、割れた酒瓶を振りかざし、まだ若い女事務員の頭へ振り下ろそうとする――。


 そのとき。


「ちわーっす、エース清掃でーっす」


 全く状況にそぐわない、間の抜けた声とともに男の立てこもる事務所のドアがノックされた。


「ああ? せーそーがいしゃが何の用じゃっらあ!?」


 ろれつの回らない酒乱男が怒鳴り返す。


「何って、掃除っすよ掃除」ドアの向こうからの声は、無責任な若者のそれだった。「仕事の依頼受けてますんで、開けてもらえますぅ?」


「やっしゃあボケェ! 掃除なンか頼んでヘンわ!」


「あっそ」


 ドアの向こうから清掃業者を名乗る人物が投げ捨てるような口調でそう言うと、突然ドアの鍵周辺がレーザートーチで焼き切られ、爆砕した。


「わああ!」


 蹴破られたドアに額を叩きつけられ、立てこもり犯は派手に転倒した。


「な、なんじゃワレ……!」


「待たせたな」ツナギ姿でモップとバケツを持ったその男は、乱雑に書類を撒き散らされた事務所内に悠々と足を踏み込んだ。「掃除屋でぇっす」


「わけのわからンことを!」


 己を掃除屋と呼ぶ男を前に、酒乱男は激昂して飛びかかった。逆手に酒瓶を構え、尖ったガラスを脳天に叩き込む。


 だがそれはツナギの男のモップに弾き飛ばされた。事務所の反対側の壁まで酒瓶が吹っ飛んで粉々に砕け散る。


 さらに流れるような棒さばきで足を打たれ肩を打たれ、天地ひっくり返されて事務デスクに背中から叩きつけられた。


「ぐお……な、なンやお前……!?」


エース


「はあ!?」


「もうアンタにゃ関係ない男の名前さ」


 エース――その男は一瞬瞳に漆黒の光を宿し、立てこもり犯の首筋をモップで打ち据え、気絶させた。


     *


 駆けつけたパトカーのサイレンが鳴り響く。


 警察が到着した頃にはすでに現場は沈静化されており、エースの姿はなかった。


 去り際に、事務所の人間から現金の入った封筒を受け取っているのを雑居ビルの入居者のひとりが目撃していたが、警察に知らされることはなかった。


 これはそういうものなのだ。


     *


「警察の動きが日に日に鈍くなってる気がするぜ」


 旧式のバンを運転するエースが視線をフロントガラスに向けたまま言った。


 車内に乗っているのは彼ひとり。助手席には複雑な機構の小型金庫が乗せられているだけである。


「だからこそボクたちが介入する余地があるのさ」


 返事をしたのは、その小型金庫であった。


 人工知能搭載の金庫型ロボット。形式番号を縮めて”ネオン”というのがその名前である。


「それよりエース、さっきのアガリ・・・は?」


 ネオンは機械とは思えぬ少年のような声でそう言うと、蛇腹状のフレキシブルアームをわきわきと伸び縮みさせた。


「ああ、ここに……」と、エースが懐に収めた封筒を取り出そうとするとそれより早くネオンのアームが伸び、横からかっさらった。


「1000バーブ。ま、こんなもんか」


 ネオンは札を取り出して己の頭頂部にあるスロットに差し込み、空気に晒すことさえ惜しむかのごとく腹の中に吸い込んだ。


「ガメついヤローだぜ……」


「人助けの対価として正当な報酬を貰っているだけだって話、もう一回する?」ネオンは小生意気に聞こえる合成音声を発し、エモート・インジケーターを明滅させた。「エース、キミもそのガメつさのお陰で暮らしていけるってこと、忘れないでよ」


「へいへい、わかってるよ社長・・


 エースは面白くなさそうな顔でハンドルを切り――慌てて急ブレーキを踏んだ。


「なんだあ!?」


 ネオンの金属製ボディが助手席の上で大きく弾んだ。


 バンの鼻先で、女がひとり身をすくめて立ち止まっていた。


 何かがぶつかる小さな音と、わずかな振動。


 スローモーションになる風景の中で、女が道路に尻餅をついた。


 エースとネオン、互いの目と視覚器が合う。


「マズっ……ヤ、ヤバいよエース! なにやってんだよ!?」

「ま、ま、まマジかよ!?」


 どうやら当ててしまったらしい。


「チクショウ、勘弁してくれよ……!」エースは運転席からもどかしげに飛び降りて、女のもとに駆け寄った。「おい、大丈夫か!? しっかりしてくれ!」


「う……」


 女はかすかなうめき声を漏らし、身をよじった。


 外傷は見当たらない。だが当たりどころというものもある。エースはパニックに陥りそうになりながら、助手席のネオンに救急車を呼ぶよう叫んだ。


 だが。


「いや、救急車は呼ばなくていい」


 冷たい声がエースたちの耳朶を逆撫でた。


 銃を構えた男がひとり、ふたり、三人。そしてさらに数人続いている。人気ひとけは少ないが道路の真っ只中である。複数の人間が堂々と銃火器を持っている光景は、そこがいかに治安の悪い貧困地区であったとしてもあからさまに犯罪の臭いを予感させた。


「その女は我々が預かる。お前たちは何も見なかった。そういうことにしろ」


 スーツ姿の男達は揃いのタイピンを付けていた――互いの尾を食みあう2匹の蛇のマーク。


 ウロボロス。


 エースたちが暮らすこの都市、”パンダシティ”の中でも最大の権勢を誇ると言われるギャングのメンバーであることを示すものだ。


「お、ねがい……」エースのツナギの袖を、女が掴んでいた。「……助けて」


 その顔。


 心細げに眉をひそめる女の顔。


 美しかった。エースの”男”が揺さぶられた。苦しむ女を救いたいという、ただそれだけの極めて原始的プリミティブな思いが血の流れとともに全身に行き渡る。


 エースの表情から混乱ぶりがすう、と消え失せた。


「どうした? もう行っていいぞ」


 ウロボロスの男が、銃を片手にエースに近づいてきた。


 沈黙。エースは答えない。


「……聞こえなかったか? 女から離れろ」


「安心しな」


「あ?」


「あんたじゃない。このに言ったんだ」


 一瞬の視線の交差。


 エースの蹴りが、ギャングの手首を打った。拳銃が弧を描いてアスファルトの上に落ち、ざあっと音を立てて滑っていった。


「悪ィな。渡せないわ、この女」


 ゆらりと立ち上がったエースの発言に対し、ウロボロスの男たち全ての銃が一斉に向けられた。


「名前は?」


 目に見えて張り詰める空気の中、そう言いながらエースは女に手を差し伸べた。


「……ニコ」女は信じられないものを見るような目でエースを見、その手を取っておそるおそる立ち上がった。「私は……そう、私の名前はニコ」


「そうか。もう大丈夫だ。オレはエース」


「エース」


「そうだ。オレが切り札エースだ」


 にやりと唇を歪める男に、自らのことをニコと呼んだ女は、取りこぼしてはならない大切な何かの存在を感じた――。



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