2 知らない世界
カマキリ、クワガタ、蜘蛛、芋虫、ムカデ……シルエットはミュータの知る虫と相違ないが、絶対に同じものではないと断言できる。
体長三メートルを超え、体の表面は鈍く光る鋼色。叩けば金属音がしそうだ。人間の方が虫けら扱いされそうな巨大モンスターに囲まれていた。二十体はいる。
「なんだよこれ!」
「な、な、なんでこんなにたくさん主蟲が! リオウさん! どうしましょう!」
「落ち着け。シアン、分かっているな? ああ……」
リオウは肩を震わせながら、「はは、血が沸く! 殺してもいい主蟲だらけだ!」と哄笑した。そして懐から二つのものを取り出す。
右手には黒い棒きれ。先端に二又の刃物がついている。
「――弐角槍、起動」
リオウの声に反応して、棒切れは瞬時に二メートルほどの巨大な槍に変形した。
一方、左手に持っていた液体が満ちたガラス瓶を、コルクの蓋を開けるのではなく、躊躇いもなく握り潰した。液体が左手を濡らす。
蜂蜜のような甘い香りがその場に広まった瞬間、主蟲と呼ばれたモンスターたちが一斉に動いた。迷うことなくリオウに飛びかかっていく。リオウもまた主蟲たちの群れに攻め込んでいく。
「うらぁ!」
リオウが槍を一振りすると、前方の主蟲たちがまとめてなぎ倒された。ぶつかった木々が激しい音を立ててへし折れる。
「な、なんつー馬鹿力……」
その上リオウは早かった。主蟲たちの鋭い角やあごを避け、ときには主蟲の体を踏み台にして大きく跳躍する。槍の動きが目に追いつかないほど何度も突き出され、化け物の軍団の突進を押し返した。
「はははっ! どうした!? オレを殺してみろよ!」
実に楽しそうだった。力の限り槍をふるい、紙一重で主蟲の攻撃をかわし、踊るように戦っている。体育会系どころか、超武闘派だった。
リオウの豹変と目の前で繰り広げられる激闘を信じられない思いで見つめながら、ミュータはあることに気づく。主蟲はリオウにしか向かっていかない。あのガラス瓶の液体を浴びた左手に惹きつけられるようだ。
――俺、夢見てる? ゲームのやりすぎ? 二次元と現実をごっちゃにしてるのか?
全く理解できない状況だが、リオウはミュータとシアンを庇って戦っている。それだけは分かった。今のうちにシアンを連れて逃げるべきかもしれない。
「――――」
しかしシアンはその場に座り込み、胸の前で手を絡ませ、必死に何かを呟いていた。あまりに鬼気迫る様子なので声をかけられない。念仏ならば自分の分も頼みたい気分だった。
ミュータは動けない。言われたとおり銃を握りしめてはいるが、とても援護射撃する気にはならなかった。例え本物だとしても、きちんと整備されているかも分からない銃なんて使えない。ましてや縦横無尽に動き回るリオウを避けて撃つ技術も勇気もない。
主蟲はなかなかしぶとかった。リオウの槍で一突きされ、体が貫通してもまだ動く。絶命したのは頭を砕かれた数体くらいだ。
戦いの均衡が崩したのは蜘蛛だった。尻から噴出した白い塊がリオウの脚に当たる。粘着質の糸でリオウはバランスを崩して片膝をついた。その隙をクワガタの顎が狙う。
危ない、というミュータの声は轟音でかき消された。
「――――っ!」
青い閃光が槍の先端から発生し、クワガタに直撃。その胴体は真っ二つに裂けた。リオウは殺到する主蟲を振り払うように電光が散る槍を回す。
――あれも電子兵器か!?
電撃を纏った槍が主蟲三体を一気に砕いた。そのとき主蟲が奇妙なほどぴたりと動きを止める。主蟲の半分が一斉にリオウに飛びかかり、残りの半分が方向転換してミュータとシアンに向かってきた。
「うわ! マジかよ!」
近づくカマキリにミュータは銃を構えた。
――もうヤケクソだ! どうなっても知らねぇ!
思い切りトリガーを引く。
青い光線が空気を裂き、カマキリの胴体に当たった。手に残る反動は小さく、命中精度も悪くない。ただ威力はそんなに高くなかった。カマキリは地面に落ちて痙攣しているが、まだ絶命していない。
呆けている暇はなかった。その後ろからさらに主蟲たちが押し寄せてくる。
「くそ!」
ミュータは必死に撃ち続けた。一発でも外したら死ぬ。
「シアン! そっちまで手が回らん! 早くしろ!」
残りの主蟲を相手にしながらリオウが叫ぶ。
やがて空中に円形の光の筋が浮かんだ。
見覚えがある、とミュータは思う。どこで見たかと問われれば、ゲームやアニメでおなじみの奴としか答えられない。
魔法陣だ。
【――朽ちた明星から這いまわる英知よ】
雛鳥が泣き叫ぶような声が響くと同時に、魔法陣が強烈な光を放った。
【業火に研がれて目覚めよ!】
その瞬間、無数の炎の矢が上空から降り注いだ。熱風が頬を掠め、ミュータは頭を抱えて地面に伏せて小さくなった。音が断続的に響き、地面から衝撃が伝わってくる。
「…………」
ミュータが恐る恐る顔を上げると、主蟲達の無残な死骸が周囲に散乱していた。煙からタンパク質が燃える嫌な臭いがした。
「ふぅ。何とかなりましたね……」
シアンが額の汗を拭った。一仕事終えた顔をしている。
「今のは、まさか…………魔法?」
「そうですよ。わたしは賢民――魔法使いです。言っていませんでしたね」
まさか肯定されるとは思わず、ミュータは間抜けな顔を晒した。
「あ、リオウさんは人類ですよ。信じられないかもしれませんけど」
「いや、俺が信じられないのはそこじゃなくてだな――」
「シアン! とっとと消火しろ! この放火魔女!」
森に燃え移りそうになっている炎をリオウが白衣で消そうと試みている。
「わわ、はい! えっと、えっと、水の魔法……」
シアンは再び詠唱に入った。
――落ち着け、俺。状況を確認しろ。
ミュータは深呼吸しようとして煙にむせ、涙目になりながら考える。
カラフルに捻じれた空、巨大な虫型モンスター、魔法。
ミュータにとって非常識なものが当たり前に存在している。この世界に自分の常識は通用しない。
――ここ、もしかして。いや、まさか。
あり得ない。だけど目の前の光景を説明する術を他に知らない。
さぁっと、全身から血の気が引く音が聞こえた。
ぴくりと影が動いた。すぐ近くで炎に巻かれていたカマキリだ。まだ生きていたのかとミュータは引き金を引くが、咄嗟のことで外してしまった。
もう一度、と力を込めた瞬間、手の平の中から「ぴー」と間抜けな電子音が響いた。銃身が見る見るうちに光を失っていく。
弾切れ――エネルギー切れだろう。当然予測できた事態だが、今の今まで全く頭になかった。
「なっ!」
むくりと持ち上げられた鎌の先には、座り込んで詠唱を続けるシアンがいる。ミュータは無意識に動き、シアンに覆いかぶさった。
その瞬間、一秒がいつもよりはるかに長く感じられたが、脳裏のよぎったのは走馬灯ではなかった。
大きな風船に空気を入れていくとき、ジェットコースターで頂上に近づいていくとき、あるいは日ごと濃密になっていく戦争の気配を感じたとき――刻一刻と膨らむ恐怖がミュータの心を押し潰した。
――死ぬ。
鈍い音の後、カマキリの巨体があらぬ方向にずっしりと倒れた。
「油断しすぎだ」
リオウの投げた黒い槍がカマキリの体に突き刺さっている。間一髪のところを助けられた。
「……………は」
ミュータの思考は完全に停止し、体の動かし方も呼吸も忘れていた。
「あ、あの……ミュータさん、ありがとうございました。おかげで助かりました」
下敷きになっていたシアンは顔を真っ赤にして体を起こした。
「ミュータさん?」
シアンの心配そうな顔が滲む。大粒の涙が瞳からこぼれていった。もう我慢の限界だった。
ミュータは地面に伏して泣いた。
「う……うぅ……」
怖かった。いや、まだ怖い。これからのことを考えるだけで途方もない気持ちになる。
「どうしたんですか? どこか怪我しました?」
シアンが驚き、おろおろしている。恥ずかしさはもちろんあるが、ミュータには取り繕う余裕もなかった。
「本当になんなんだ、こいつ。情緒不安定な徘徊者だったのか? 面倒臭い」
「なんて言い方するんですか。ああ、ミュータさん、泣かないで」
リオウは呆れ、シアンは躊躇いがちにミュータの頭をよしよしと撫でた。
「おい、主蟲どもは全部倒したぞ。こんなことでめそめそするな」
「すっごくすっごく怖かったですよね。でももう大丈夫ですよー」
二人の戸惑いに満ちた優しさが余計に涙を誘う。
「俺……なんでこんな……!」
嗚咽が邪魔してまともな言葉にならない。それでも胸にこびりついた不安を吐き出すようにミュータはぽつりぽつりと事情を話した。
自分は青い空の下で育った日本の高校生であること。
虫型のモンスターも魔法も知らないこと。
これが夢でないのなら、異世界に迷い込んだとしか思えないこと。
「こんな世界っ、俺は知らない!」
ミュータの支離滅裂な説明を二人は黙って聞いていた。
「帰りたい。ここどこだよ。どうすれば帰れるんだ……」
ドッキリなら今すぐネタばらしをしてほしい。夢なら今すぐ覚めてほしい。そのどちらでもなくここが本当に異世界だとしたら、あんまりだと思う。こんなひどい目に遭うほど悪いことをした覚えはない。
リオウが荷物からおもむろに水筒を取り出した。
「事情はなんとなく把握した。飲め。少しは落ち着くだろう」
目の前に差し出されたコップからは湯気が立ち上り、香ばしい匂いが漂っていた。
ミュータは袖口で涙を拭う。
明るく前向きに、辛いときでも誰かのために笑えるくらい強くになりたい。
本当に明るく前向きで強かったらそんな目標は抱かない。とても笑えなかった。だけど、初対面の人間にこれ以上迷惑をかけられない。気遣いを無下にしたくなかった。
ミュータはコップの中のお茶に口をつけた。
「ぶっ……にっが! まっず!」
漢方薬をそのまま溶いたような味なのに、ミントのように鼻に抜ける清涼感があった。あまりのショックに別の涙がこみ上げてくる。何とか呑み込めたものの、生きた心地がしなかった。
「そうか? 爽やかさと渋さが絶妙な見事なブレンドだと思うが」
「止めるべきでした。リオウさんのバカ舌を基準にして作ったお茶なんて劇薬ですよ」
「誰がバカ舌だコラ」
リオウがシアンの背中を軽く蹴った。女の子になんてことするんですか、とシアンが抗議の声を上げている。
泣いてすっきりしたのか、怪しいお茶の効果か、ミュータは体が温まるのを感じた。先ほどまで感じていた怠さもいつの間にかとれている。
放心したままのミュータの手をシアンがぎゅっと握りしめた。
「わたしはミュータさんのお話、信じますよ。きっときっと力になります。だからもう泣かないで下さい!」
好奇心に慈愛がプラスされたシアンの瞳に、心まで温かくなった。
「……ありがとう」
ミュータは弱々しく呟き、目を細めた。