1 カオスな出会い
途切れがちに歌声が聞こえた。同じフレーズだけを何度も何度も繰り返す。
哀愁漂うメロディがミュータの意識を少しずつ引き上げた。
体は倦怠感に支配され、鉛になってしまったかのように重い。瞼を持ち上げるのも億劫である。
青い匂いがした。草むらの中で横たわっているようだ。どうしてここにいるのか、なぜこんなにも体が辛いのか、考えは一向にまとまらない。
ぺち、と頬に冷たいものが落ち、やっとの思いで目を開く。
「…………」
一人の少女がミュータの頬に触れていた。
仄かに光る長い白銀の髪、艶やかな真珠色の頬、アメジストをそのまま閉じ込めたかのような紫の瞳。
浮世離れしたその美しさに思わず息を飲む。女神だと名乗られても納得してしまいそうな神秘的な美貌である。歌声の主は彼女らしい。
「あ」
視線が交錯した瞬間、か細い声を残し、少女は慌てて立ち去った。弾けたシャボン玉のように何の余韻も残っていない。一度瞬きをすると、たちどころに幻だったのではと思えてくる。
少女の消えた先を見ようと、体に力を入れるが、筋肉が笑い出して上手く起き上がれなかった。
「はぁ……ここ、どこだ?」
ひどくかすれた声だった。随分長い間声を出していなかったらしい。
身動きの取れないミュータは周囲を観察することにした。
緑豊かな森の中だ。木漏れ日は柔らかく、空気は澄みきっている。すぐ近くにスミレに似た花が咲き、耳心地の良い小鳥の鳴き声が聞こえる。木々の枝からわずかに垣間見える空が虹色なのは気のせいだろうか。
「すげー天国っぽいな……」
まさかと思って口の中を噛んでみると、ちゃんと痛みを感じた。生きているのは確からしい。
――なんか、ものすごく嫌な目に遭った気がするんだけど、何だっけ?
意識を失う直前の記憶を辿ってみる。
高校一年の春休みだった。迫る戦争に備えて全国的に部活動が休止になり、本格的な軍事訓練が行われることになっていた。そのことで友人と愚痴りあっていたことまでは覚えているが、実際に訓練に参加した記憶はない。最後の記憶はぼんやりしていて思い出せなかった。
「あ! 見てください!」
華やいだ声が聞こえ、軽い足音が駆け寄ってきた。しかし人の声に感じた安堵は劇的に裏切られる。その声の主がミュータの上に思い切りダイブしてきたのだ。
「はみゃっ」
「ぐえ!」
可愛らしい悲鳴に対し、聞くに堪えない呻き声を出してしまったが、内臓が飛び出なかっただけマシだろう。ミュータは激痛に苛まれながら、悲鳴の主を見上げた。
「…………」
その少女と至近距離で目が合った瞬間、時間が止まった。
少女の青い瞳は波のようにゆらゆら揺れ、暖かい地方の海のようだった。肩までの黒髪はさらさらしており、頬には薄紅色が差している。まだあどけなさの残るものの、可愛らしい顔立ちだ。先ほどの幻めいた少女とは違い、親しみを感じるタイプの華奢な美少女だった。
「おい、シアン」
降ってきた声に二人の時間は動き出した。シアンと呼ばれた少女は慌ててミュータの上から体をどかし、乱れた髪を整える。桃に似た甘い匂いが鼻を掠めた。
「鈍くさいにもほどがあるぞ。何もないところでなぜ転ぶ」
目つきの悪い少年が腰に手を当てて立っていた。冷徹な印象の瞳だが、無造作な茶髪はたてがみのようでワイルドだ。背が高く、一目で鍛えていることが分かる体格をしているが、森の中なのになぜか白衣を羽織っている。理系なのか体育会系なのか判断しづらい外見だ。
シアンはミュータより年下、白衣の少年は少し年上に見えた。
「うぅ、リオウさん、ひどいです。無神経です」
「ひどいのはお前の運動神経だろう。ところで、そいつは誰だ?」
「……さぁ?」
リオウという少年とシアン、二人分の視線を受け、さすがに寝たままではいられない。ミュータは腹筋に全力を注ぎ、シアンの介助で起き上がることに成功した。
「はぁ……一気に目が覚めたぜ。ありがとう」
「う。本当に本当にごめんなさい」
リオウがじとっとした目つきでミュータを見下ろした。
「お前、こんなところで寝て楽しいか?」
「そうです。珍しい草かと思っちゃいました」
赤髪を指差され、ミュータは微苦笑する。
「好きで寝てたわけじゃねぇよ。気づいたらここにいて……てか、ここどこ?」
「ユニゾランドの東の森だ」
「ゆにぞ、らんど?」
聞き慣れない単語に首を傾げると、リオウは露骨に舌打ちをした。
「こんなところで行き倒れを拾うとはな。しかも事件性を感じる。一度町に戻るしかないか。おい、自分で歩けるんだろうな? あ?」
半ば脅迫のような問いに、ミュータは頷く。シアンの手を借り、眩暈を堪えながら立ち上がった。
「ふん。一丁前に壱角銃持ちか」
「……壱角銃って?」
「その腰にあるものは模造品か。だとしたら犯罪だが」
苛立つリオウの視線を追って、ミュータは腰のベルトにガンホルダーが釣り下がっていることに気づく。もちろん見覚えはない。
グリップを引き抜くと、思っていたよりもだいぶ軽くて驚いた。射撃演習で扱った自動拳銃よりも一回り大きいくらいなのに、片手でも扱えそうである。
白い銃身に赤いラインが走っていて、デザインだけ見ればおもちゃだ。しかしリオウは「本物だな」と断定した。ミュータは戸惑う。
「この銃、俺のじゃないけど」
その瞬間、銃から電子音が「ぴぴ」と鳴り、銃身が青く点滅を始めた。ますますおもちゃっぽい。
「お前のもののようだが?」
「なんで?」
きょとんとするミュータにリオウは目を三角にした。
「たった今! お前の声に! 反応しただろうが!」
「……なるほど。この銃はあれか。持ち主にしか反応しないセキュリティが搭載されているとか?」
かなり高度なシステムを搭載した電子銃らしい。電子兵器の小型化が各国で進み、日本でも実用化に向けた研究はされていた。ミュータは初めて見る完成品をまじまじと眺める。
「そんな常識を今更確認するな。どこまでボケてるんだ、こいつ。……警察より先に病院に連れて行った方が良さそうだな。行くぞ。これ以上オレの貴重な時間をロスしたくない」
くるりと背を向け、返答を待たずにリオウは先に歩き出した。
「感じ悪いですけど、気にしないで下さい。リオウさんは誰にでもああなんです」
「ああ、うん」
ミュータは少し迷いつつも後に続いた。何かがおかしい。会話が妙に噛み合わないような。
「わたし、シアン・デュイスと言います。あの人はリオウ・シャルマーさん。二人ともユニゾン学園の学生です。今日はリオウさんの研究のために、森で薬草採取してたんですよ」
全く人使いの荒い先輩です、とシアンはぼそりと呟いた。よく見れば二人ともリュックを背負っていた。
「この森で誰かに会うなんて珍しいです。普段は人に会いませんから。ちゃんと申請書を出さないとここには立ち入っちゃいけないんです」
「そうなのか? でも、さっき……いや、なんでもない」
やはり白銀の髪の少女は幻だったのか。時間が経てば経つほど自信がなくなっていく。
「あの、すみません。あなたのお名前を伺ってもいいですか?」
「ああ、気づかなくて悪い。俺は……ミュータ」
ミュータさん、ミュータさん、とシアンはお気に入りのおまじないのように繰り返し呟いた。
「ふふ。わたし、ミュータさんに興味を持ちました。もっともっとよく知りたいです」
「えっ」
美少女からの大胆な発言に、心臓が跳ねる。
「どうしてこんなところで倒れていたんでしょう。何かワケありですか? 記憶喪失とか? すっごくすっごくミステリアスです! ぜひぜひ解明したいです!」
眩しくなるほど純粋な好奇心を向けられ、ミュータは脱力した。この十六年の人生、気になっていた女の子には悉く恋愛相談をされてきた。話しやすいのか侮られているのか、そういう対象に見られないらしい。早合点したことが恥ずかしい。
ミュータは軽く咳払いする。
「ああ、俺も自分の置かれた状況のおかしさについては気になってるぜ」
なぜ見知らぬ森の中で倒れていたのだろう。
電子銃を持っていたこともおかしい。
そしてリオウとシアン、この二人のことも気になる。
顔の雰囲気は東洋人に見えなくもないが、名前は明らかに外国人のものだ。先ほど聞いた地名も学園も全く聞いたことがない。
――ここ、まさか外国か?
それにしては流暢な日本語で会話ができている。
ちぐはぐな状況にミュータの不安は募るばかりだった。緊迫した世界情勢や父親が軍の関係者だということから、物騒なことに巻き込まれた可能性を否定できない。
「ミュータさんはどちらに住んでるんですか?」
その質問には曖昧に笑って答えを濁した。
この二人を信用してもいいのだろうか。怪しいそぶりはなく、むしろ親切にしてもらっている。疑うのは心苦しいが、もしも二人が敵対国の人間ならば、身分を明かすのは躊躇われた。
体が重く、歩くのすら億劫で、とても深い思考に耽る余裕はない。
しばらくすると整備された道に出た。木々の屋根がなくなり、目の前に晴れた空が広がる。
「……カオス」
ミュータは文字通り仰天した。木々の狭間から見えていたものは気のせいではなかったのだ。
この世の終わりを喚起させる不気味な空色だった。
青を基調としていながら、赤や黄色、紫が捻じれるように混ざり合い、禍々しいマーブル模様を形成していた。虹やオーロラとは違う。しかも太陽光まで歪んでぼんやりしていた。
「? 空がどうかしました?」
「どうもこうも、ここ、マジでどこだ!? もしかして外国ですらないんじゃ――」
「止まれ」
前方を歩いていたリオウが制止する。そして持っていた荷物をその場に投げ捨てた。
「おい、ミュータとか言ったな。銃を抜け」
「は?」
周囲の茂みが一斉に音を立てた。現われたのは虫に似たモンスターたちだった。






