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12 スパイの憂鬱

 

 このアパートで迎える初めての朝、エピカは部屋で荷物の整理整頓をしながら、一生懸命考えていた。


 ――どうすればミュータに近づけるかしら?


 エピカがミュータについて知っているのは、彼がこの世界の命運を握っているということだけだ。

 正直どこにでもいる平凡な、ほんの少しお人好しなだけの少年に見える。


 しかしエピカが唯一尊敬して信頼を寄せる人物――ルドはミュータを手に入れて未来を良い方法に導こうとしている。詳しい事情なんて知らなくとも、それだけ分かっていれば十分だ。


 森での誘拐に失敗したエピカは、ルドから新たな指示を与えられた。


『彼についての情報が欲しい。人柄や好むもの、特に弱点を調べてくれるかな。もし見つからないようならきみが彼の弱点になるんだ。彼と仲良くなって、できれば恋に落としてくれると助かるよ。きみの美しさを以てすれば難しいことではないはずだ』


 今度こそルドの期待に応えてみせる。頑張らなくては。


 ――でも恋に落とすなんて、私にできるかしら。


 エピカは手鏡を見つめ、首を傾げる。

 幼い頃から美しいと言われる機会は多かった。道を歩いているだけで男たちが振り向き、しばしば声をかけられる。

 自分ではよく分からないものの、ルドが断言するのだから恵まれた容姿なのだろう。

 しかしどれだけ見た目で人を惹きつけても、蟲客の姫宮であると知られた途端、男たちは手の平を返して逃げていく。見た目で得たアドバンテージは、生まれのハンデで相殺されてしまうのだ。


 ミュータは今のところ普通に接してくれている。怖がられていない。それだけでもエピカにとっては十分距離が近いと言える。


「どうすれば仲良くなれるの?」


 今まで異性と親しくなろうと努力した経験はない。積極的に声をかければいいのだろうか。それとも露出の多い服を着てみるべきか。逆効果になるような気がしてならない。


 問題は他にもある。リオウとシアンの存在だ。

 リオウには思い切り疑われてしまっている。研究の手伝いをさせられるというし、怪しまれれば怪しまれるほど時間的に拘束されそうだ。うまくやり過ごす方法を考えなければならない。

 シアンという賢民の少女のことも厄介である。彼女はミュータにべったりで、今日も朝から二人で買い物に出かけている。


 ――好きなのかしら? あれが恋?


 ミュータを見るときのシアンの目はうっとりして潤んでいて、とても可愛い。好意を持っているのは明らかだ。単なる憧れなのか、恋愛感情なのか、その辺りはエピカには判断できない。

 シアンがミュータに恋しているのなら、近づこうとするエピカの邪魔をするかもしれない。そうなると情報収集がやりづらくなる。

 もしもミュータがシアンに惚れてくれれば、シアンが弱点になってエピカの仕事が減るのだが、そううまくいくとは限らない。


「これは確かに大変ね……」


 エピカはコミュニケーション能力に自信がなかった。難しい仕事になりそうだ。

 リオウに怪しまれないように、シアンの出方を伺いながら、自然にミュータに近づき、親しくならなければならない。


 エピカは鏡に映る不安そうな自分の頬を叩いた。


「大丈夫! やる気と根性と忍耐力があればなんだってできるわ!」


「見上げた心意気だな」


「きゃっ!」


 気づけば玄関の扉が開き、呆れ果てた表情のリオウが立っていた。


「な、なな、なんで勝手に入ってきてるのよ! 信じられない! この恥知らず!」


「何度もノックをしたのに気づかない、鍵もかけてない、おまけに鏡に向かって叱咤激励している奴に言われたくない。隙だらけだぞ」


「ぐっ!」


 エピカは羞恥心を押し殺して睨み付ける。


「何の用よっ、さっそく研究の手伝いをさせようって言うの? まだ部屋の整頓も終わってないのに!」


「いや、お前の入居の件で役所に行く。隣空人の入居だといろいろ手続きが必要なんだ。本人の署名もいるから一緒に来い」


 リオウは静かにエピカを見た。疎むでもなく、憐れむでもなく、ただ憂鬱を閉じ込めた瞳に射抜かれ、エピカは面食らった。


「……そ、そう。それは、その、め、面倒をかけるわね」


「全くだ。オレの貴重な時間を浪費させるな。さっさと準備しろ」


「そんな言い方しなくてもいいじゃないっ」


 エピカは急いで出かける用意をし、リオウとともに役所に向かった。

 人類社会の煩雑な手続きは小一時間ほどかかった。役所を出たときにはお昼時になっていた。


「……帰ってから作るのも面倒だな。お前はどうする?」


「どうするって何が?」


「昼飯に決まってるだろう。アパートで自炊するか、何か買って帰るか、外で食べるか。オレは外食で済ませるが……今回だけお前の分もおごってやってもいい」


「どうして私があなたと一緒に食事をしなきゃいけないの。ごちそうになる理由もないわ。何が目的なの? また事情聴取?」


 こんな男と食事をしても絶対に美味しくない。エピカが嫌悪感を隠しもせず反射的に答えると、リオウは眉間にしわを寄せた。


「別に他意はない。どうせ自炊もろくにできないだろうし、毎日コンビニの飯ばかりじゃ飽きると思っただけだ。一人で店に入る度胸くらいあるか。余計な世話をした……じゃあな」


 皮肉っぽく笑い、リオウは背を向けた。


「あ……」


 エピカは一人で外食をしたことがなかった。価格の目安も、店の選び方も、人類の食事のマナーについても自信がない。

 言葉は悪いが、リオウはエピカの育ちを心配して声をかけてくれたらしい。その厚意を邪険に扱ってしまった。

 引き止めて謝らなくては。そう思うのに、エピカの喉は痛むばかりで声が出ない。


「あれ? 二人ともこんなところで何してるんだ?」


 声をかけてきたのは、ミュータとシアンだった。

 リオウは立ち止まり、彼らの持つ買い物袋を見る。


「お前たちこそ買い物は終わったのか?」


「ああ、大体は。で、腹が減ったからご飯食べようってことになったんだけど、目当ての店が見つからないらしくて」


 シアンは焦った様子でリオウに詰め寄る。


「あの安くて美味しい定食屋さんってこの辺りですよね? 赤い屋根のお店の」


「……通りが二つ違うが」


「えぇ!?」


 シアンはミュータに何度も頭を下げた。相当長い時間この辺りを彷徨っていたらしい。


「しょうがない。ちょうどオレも飯を食いに行くつもりだった。ついてこい」


「はぁ、良かったです。リオウさんたちに会えて……」


 リオウにシアンがついていき、ミュータも後に続く。


「エピカ、どうした? 行こうぜ」


「で、でも……」


 ミュータの誘いにエピカが躊躇っていくと、リオウが振り返った。


「早く来い」


 ため息混じりの声にエピカは救われた気分になった。




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