06.登校 その1
俺はマウンドにいる。西高のユニフォーム姿だ。……またあの夢か。いいかげんにしろよ。
運もあった。ラッキーだった。まぐれ、女神の気まぐれ、言い方はいろいろあるが、しかし万年弱小チームの西高がベストフォーまで勝ち上がれたのは、みんなで必死に練習した結果であることは確かだ。
試合は準決勝。あとひとつ勝てば、ほぼ確実に春の甲子園に選抜される。相手は名門、小別沢高校。甲子園の常連だ。去年の夏も甲子園で三回戦まで進んでいる。今年のチームは例年よりも小粒だといわれるが、それでも総合力ではこの地域で突出している。
俺は、プロ選手である親父にあこがれてピッチャーになった。しかし、投球フォームは打たせて取る軟投派といわれる親父とは正反対だ。
高校に入った頃から、身体はいきなりでっかくなった。それを活かすために始めたトルネードもどきのフォーム。全身の力を込めたのびのあるストレートとカーブとフォーク。基本、それだけの球種で三振がとれるようになった。
スコアボードには両チームゼロが続く。緊迫した投手戦。しかし、九回表ついに均衡が崩れた。ポテンヒット、送りバント、そして西高にとってこの試合唯一の良いあたりが、このタイミングででたのだ。
夢にまでみた先取点。あと一イニング守り切れば、甲子園だ。
だがその裏、それまで堅実な守備を誇っていた我が西高が、普段からは考えられないようなエラーをおかす。俺の右手にあたった打球が内野をてんてんとする間に、ランナーが二塁に進む。そして、バッターは四番。
逃げたくなかった。逃げる姿を見せたくなかった。意地で投げたのは、渾身のストレート。
あっ。
おもわず声がでた。内角高めのストレート。しかし、指がうまくかからなかった。直前に打球をあびたせいで、指先の感覚が麻痺している。
来年のドラフトの目玉とも言われる高校生ナンバーワンスラッガーは、器用に腕をたたみこみ、ボールをめがけてフルスイング。まるで、そのボールを待っていたかのように。
バットの芯に捕えられたボールは、スタンドを目指して一直線にとんでいく。それまで必死に守ってきた守備陣をあざ笑うかのように、決して俺達の手が届かぬ遙か上空を。
目覚まし時計がなる前に目をさます。目から涙がこぼれていることに気づく。
くそ。また泣いていたのか。前の身体の時から、もう何度目になるだろう。
あの瞬間、バックスクリーンに向け放物線を描く打球を、俺は眺めることしかできなかった。
あのとき俺は何を思っていたのだろう。どうしても思い出せない。泣き崩れるチームメイトやマネージャーを尻目に、俺は淡々としていたつもりだったのだが、……やっぱり心の中では泣いていたのかもしれないなぁ。
くそ。あのスラッガー野郎は、春の甲子園に出場したうえ優勝までしやがった。それなのに……。
自分の手を見る。小さい。ボールを握れるとは思えない。腕を見る。細い。キャッチャーまでボールが届くとも思えない。脚も腰も身体全体がとにかく華奢で小さくて。
はぁ。まさかこんなにか弱い女の子の身体になってしまうとは……。
今頃になって目覚まし時計がなる。……おっと。いつまでも夢になんてかまっていられない。俺は未来に向けて生きるのだ。
ぺちん。小さな両手で両頬をひとつたたき、俺はベットから飛び起きる。さぁ朝だ。顔を洗って朝飯を食って学校にいくぞ!
顔を洗い、制服姿でダイニングに向かう。
制服は、どこぞの有名デザイナーがデザインしたという、お上品なブレザー。スカートはちょっと短め。夢実が通う美香保学園は、全国でも有名なお坊ちゃんお嬢ちゃん学校だ。だから、制服を極端に着崩すような生徒はいない。まして夢実は入学したばかりの一年生。とりあえずは無難に着ていればいいらしい。
退院して一週間。やっと女の子の服にも慣れてきた。ここだけのはなしだが、下着にはいろいろと苦労させられた。もともと潤一には姉がいたが、ブラの付け方なんてもちろん知らなかったんだ。
なんとかなったのは、潤一(中身は夢実ちゃん)のおかげだ。まさかこの俺が、鏡の前、スマホで『俺の声』に教えてもらいながらブラを付けることになるなんて、想像もしていなかったぜ。……夢実の身体は細くて華奢で胸もほんのささやかで、『この身体、下着なんていらないんじゃないのか?』 といったら、電話の向こうの夢実が激怒してしまったのは、もちろんここだけの話だが。
まぁ、とにかく、こんなわけで俺と彼女は毎日スマホで情報を交換をしているのだ。お互い日常生活を支障なくおくるためには、これは必要不可欠だ。最近はベットの中で二人で電話しているこの時間が日常生活のなか最大の楽しみになっているのも、ここだけの話にしておいてくれ。
我が白石家はでかい。潤一の琴似家と同じマンションだが、白石家は最上階ワンフロアぶち抜だ。
居間にはめずらしくお爺さまがいた。難しい顔をして新聞を読んでいる。退院しこの家に来てから一週間ほどたつが、この爺さんがうちで朝飯をくっている姿を見かけたのはたった二日くらいだ。
部屋の中には茨戸さんもいる。このマンションは、最上階のひとつ下のフロアも白石家のものだ。下のフロアの部屋には、他の秘書さんや、茨戸さんのような強面のお兄さんが詰めていることが多いらしい。
こんなに大きな家があるのに、爺さんはいつもはさらにでかい鎌倉の本宅か、あるいは事務所かわりのホテルの部屋にいることが多いそうだ。爺さんは、この歳で忙しいのだ。
夢実の祖父、白石一将。
俺もいわれて初めて気がついたのだが、潤一だった時代から、俺はこの爺さんの名前だけは知っていた。
たまに新聞でみかける。しかし、あまり良い文脈ではない。戦後のどさくさに紛れて一代でいまの巨大な財産を築いたといわれる超大物。この国の闇のキングメイカー、裏世界のフィクサー、政財界の黒幕、権力に取り憑かれた妖怪など、悪名ならいくらでももっている。白石夢実は、そんな悪名高い爺さんの孫なのだ。
「おはようございます。お爺さま」
夢実の普段の言葉遣いがいまだにわからんが、とりあえず適当に丁寧語をしゃべっておく。
「ああ。おはよう」
通いのお手伝いのおばさんが作ってくれた朝食を、ふたりきりで食べる。お互いに無言。話すきっかけがつかめない。
それでも、爺さんは何か話しかけたそうに、ちらちらとこちらをみている。無視するのも可哀想なので、声をかけてやろう。
「あ、あの、何か?」
「いや。……学校はどうじゃ? 記憶が戻らなくて、不都合はないか?」
「ええ。何も問題はありません。先生も級友も何かと気をつかっていただいてますし」
「そうか」
白石夢実という女の子は、学校でももともと友達が多くはなかったようだ。であるから、たとえ記憶喪失であっても、忘れて困るほどの人間関係はなかったらしい。俺としては好都合だが。
「お爺さま」
気になることがあったので、今度は俺の方から声をかけた。あわてて爺さんが顔をあげる。
「お顔の色がすぐれないようです。私の事でご心配をおかけしたせいですか? あまりご無理をなさらないでください」
そう、この爺さん。顔色が良くないのだ。俺が入院中に見舞いに来てくれたときもそうだったが、ここ数日ますます顔が土色になってきたような気がする。
「心配、……してくれるのか?」
「? お爺さまの事を孫が心配するのは当然ではないですか。お仕事がお忙しいのはわかりますが、もっとこの家に帰ってきて、ゆっくりお休みください」
「そ、そうか。そうだな。そうすることにする。……ありがとう」
「いいえ」
俺は爺さんっ子だったからな。もう死んでしまったが、琴似の父方の爺さんが大好きだった。だから、この爺さんにもできるだけ優しくしてやろうと思っている。
だいたい年寄りという生き物は、孫が大好きなものだ。闇社会のフィクサーとかいっても、孫娘に心配されて嬉しくないわけがないはずだ。
「お嬢様。そろそろ学校にいく時間です」
茨戸さんが声をかけてくれる。さて、学校へ行こうかね。
白石家の玄関の前の廊下には、でっかい姿見がある。そこに、ふと自分の姿を見る。
鎖骨あたりで切りそろえた黒髪。自分で言うのも何だが、まるでお人形のような美少女だ。そして、制服に包まれた、小さな小さな身体。身長はせいぜい百五十センチくらいか。世間の一般的な十五才の少女と比較してさえも、あきらかに小さい。袖から覗く折れそうな腕。長い髪。胸、スカートからのぞく細くて白い脚。
はぁ。ひとつため息がでる。
ふと。本当にふと。鏡の前で構えてみる。両手を頭の上に振りかぶる。ワインドアップだ。
ふむ。我ながら、それなりに決まっている。そりゃそうだ。この身体になる前は、何千回、何万回も練習したフォームなんだから
そのまま脚を上げて、思いっきり身体をひねる。打者から背中が見えるほどに。
もしかして、このままいける? この身体でも投げられる? いくぞ、身体を回転させて一気に腕を振り下ろ……。
トテッ
その場にこけた。フローリングの上、バランスを崩し脚をすべられてしまったのだ。このフォームは、何よりも鍛えられた腰、そして安定した下半身が必要だ。こんな華奢な身体でできるはずがない。
とっさに助け起こそうと駆け寄る茨戸さん。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「……大丈夫、大丈夫、平気だってば」
くそ、くそ、くそったれ。なんてにぶい身体だ。なんて貧弱な身体だ。投球動作の真似事すらできないのかよ。あんなに練習したのに。これじゃあ、野球なんてできないじゃないか。
……茨戸さん、そんなに心配そうに顔をのぞき込まないでくれ。大丈夫だから。俺は泣いてない。涙ぐんでなんかいないぞ。
2015.12.22 初出
2015.12.26 誤字脱字などをちょっと修正