57 予選一回戦 その2
マウンドの上、投球練習を終えた俺は空を見あげる。
天候はうすくもり。気温はそれほど高くないうえ、風もすずしい。
いいぞ。省エネモードを徹底すれば今日は無理なく完投できる、……かもしれない。
視線を水平に戻し、周囲を見渡す。
あいかわらずボロい球場だ。しかも予選一回戦。弱小校同士の対戦。……だというのに、お客さんはそれなりに入っている。
今日は両校とも応援団はいない。さすがに一回戦から全校応援なんて組織されるはずもなく、美香保学園の一般の生徒は今頃授業中だ。
ちなみにお調子者ばかりの西高の場合、野球でもサッカーでも母校の試合が市内で行われる時は、たとえ一回戦だろうと授業があろうとかまわずに多くの生徒が学校を抜けだして勝手に応援してたりする。球場の中で「西高生は学校に戻ってください」なんてアナウンスが流れることすらあるのだが、……お坊ちゃんお嬢ちゃんばかりの美香保にそんな生徒はいるはずがない。
ともかく、応援団も居ないというのに平日真っ昼間からこんなにお客さんがいるということは、ほとんどが地元の高校野球ファンなのだろうか。世の中、暇な人が多いもんだ。でっかいカメラ構えたマスコミも結構居るし。
ボールを回している内野陣を改めて確認する。
サード。ショート。いいぞ。みんな気合いが入っている。
そしてセカンド一希ちゃん。
うわー、清楚なお嬢様が、腰を落として戦闘態勢。なんて凜々しい。
一瞬、みとれる俺。一希ちゃんと視線が交わる。……俺の視線に気づいた瞬間、プイッと横を向くその仕草まで、なんてかわいらしい。このツンデレ美少女め。
……ごめんね、一希ちゃん。俺、自分でも自分がよくわからないんだ。次に南郷の野郎に会った時、なんて言えばいいのか自分でもわかんないんだ。だから、今は一希ちゃんに嫌われても仕方がない。でもいいよ。たとえ嫌われても、いっしょに野球やってくれるだけで十分だ。
最後にファーストと、そしてキャッチャーの拓馬君。マスクを外して立ち上がり、みんなに声をかけている。……おまえ、なんか最近突然身体大きくなったか? いや、身体じゃなくて、オーラというか雰囲気が変わったというか、とにかく最近ちょっと格好いいぞ。
その拓馬君からボールが返ってくる。主審の手があがる。
プレイボール。
さていくか、甲子園。
よしよし。夢実の奴、藻岩一希とも仲直り、……まではいかないようだが、とりあえずあの調子なら試合には影響無さそうだ。
ひとりごちるキャッチャー南郷拓馬の後ろ、主審が試合開始を宣言する。
プレイボール。
マウンド上には、この場には似つかわしくないお人形のような少女。セットポジションでじっと俺を凝視している。
夢実の表情、……いいな。やっぱり真剣勝負はいい。
こないだの練習試合の時の、負けても良いからスタミナ温存だけ考えて淡々と投げていたゾンビみたいな表情とはやっぱり違う。
ついでにいうと、春の大会の時のあの鬼気迫る表情とも違う。兄貴はあの顔を一目見て心を撃ち抜かれたらしいが。……たしかに、普段お人形のような美少女が、決死の覚悟で敵に立ち向かう表情はいい。それは俺も認める。背筋がゾクゾクするよな。でも、あの時の夢実にはまったく余裕がなかった。
あの時の夢実は、……あの鬼気迫る顔の夢実は、本来の夢実の魅力の半分も見せてはいない。真剣勝負のグランドにみずから立っている夢実に対してこんなことを言うのは、もしかしたら侮辱になるかもしれないが、俺は好きな女の子にあんな顔をさせたくはない。それが兄貴の言う負け犬根性だというのなら、俺は負け犬でいいや。俺はすっかり開き直って悟りを開いたのだ。
今日の夢実はあの時よりもかなり余裕がある表情だ。凛として、そして野球を、真剣勝負を、心から楽しんでやろうという顔。俺はこっちの方がいい。遙かにいい。……兄貴はこの夢実を知っているだろうか?
ともかく、いま彼女の視界の中にあるのは俺だけ、……いや正確には俺のミットだけだが。でも、俺愛用のミットだって俺の一部であるから、夢実は俺だけを見ていると言っても間違いではないはずだ。つまり、今この瞬間、夢実は俺ひとりのものだ。ざまぁみろ、兄貴。これだけでも、俺は美香保に入学した甲斐があったぜ。
さぁ、甲子園にいくぞ、夢実。
初球。拓馬君のサインは内角高めのホップするストレートか。
いいだろう。ワンパターンではあるが、まずのっけから敵を驚かせ、こちらのペースに乗せてしまうのは勝負の定石だ。
俺は頷く。そしてモーションに入る。
時間をかけてゆっくりと左足を胸まであげ、すかさず上半身を折り曲げて重心を下に落とす。
思いっきり後ろからだした右腕を、肘から鞭のようにしならせる。指先を地面ぎりぎりに走らせ、全体重をボールにのせる。そして、ボールをリリースするその瞬間、指先でボールの下面を切るのだ。
よし!
拓馬はおもわず口の中で叫んだ。
まるでマウンドの地面から噴き出したかのようなボールが、バッターの胸元に向けて走る。
いいぞ。モーションを見ただけでわかる。今日の夢実のボールは、最高に切れている。
バッターにとって、タイミングは取りづらいものの、スピードだけなら打ち頃に見えるはずだ。だが、ばか正直に打ちにいったバッターは、スイングの途中で目を見張ることになる。
内角のストライクゾーンを通過しようかというボールが、そこからホップするのだ。まるで顔面に向かうように。
バッターがスイングを途中で放棄。おもわず仰け反る。そのまま後ろに尻餅をつき、唖然とした表情で振り返る。
……だけど、入ってるんだよなぁ。
中腰になってボールをキャッチした俺の後ろ、審判がストライクのコール。ちょっと時間がかかったのは、審判もびっくりしたのかもしれない。
まぁ、初めてこのボールを見れば、びっくりするのも当然だ。たとえわかっていても、打てないだろけどな。
夢実のホップするストレートは、いわゆるバックスピンだ。ボールの回転の向きだけならば、極端に伸びるストレートと同じといえる。
だが、投げ方は、普通のストレートとはかなり違うのだ。
夢実は、アンダースローから手首を外側に向け、地面と水平にしてリリースの瞬間に指でボールの下面を切る。
むりやり既存の変化球に例えるなら、縦に(上に)曲がる高速スライダ、あるいは上に曲がるカットボールと言ってもいい。
もちろん実際に上に向けてホップするわけではないが、地面から湧き上がったかと見えるほど下から出てきたストレートが、予想されるその軌道の頂点を超えてもなお落下せずに顔に向かってくれば、バッターにとってはホップしたも同然だ。
原理としては単純だが、しかしそうそう簡単に投げられるボールではない。完璧なバックスピンの回転のみをボールに与えるための、柔らかな手首。そして、全身の力と体重をボールの重心の運動エネルギーと回転モーメントに理想的な割合で与える、繊細な指。夢実だけが投げられるこのボールは、たとえプロだって初見では打てない必殺の魔球だ。
だが、もちろん弱点もある。手首や腕にかかる負担が、通常のストレートよりもかなり大きいのだ。だから、完投するつもりならば、できるだけ投球数は減らしたい。
二球目。
そう、夢実には完投してもらわなければならない。だから、二球目は同じボールは投げさせない。
夢実に向け、俺はサインを出す。ちょっと意外そうな顔をしたものの、素直に頷く夢実。いい子だ。
そして投球。
二球目は、外角低めのストレートだ。しかし、ホップしない。普通のフォーシームの握りから素直にまっすぐ投げただけのボール。より厳密に言えば、アンダースローでかつ指の短い夢実の投げたボールは、若干ジャイロ気味の回転がかかりちょっとだけシンカーのように落ちていくのだが、まぁ一般的に言うところの何の変哲も無い普通のストレートといってもいい。
バッターから見て、するどく変化することはなく、しかも決して速くはない直球。普通にストライクゾーンに入ってくれば、普通の高校球児にとっては実に打ちごろのボールであるはずだ。
しかし、夢実はコントロール抜群だ。たとえ速度が足りなくても、ストライクゾーンを目一杯つかい、硬軟織り交ぜ対角線に投げ分ければ、普通のバッターにとってはそれだけで打つのは困難になる。
外角低めギリギリ一杯。しかし確かにストライクゾーンを横切るボール。それがホームベースを通過するまでの間に、何度も、何度も、何度も、バッターの肘がピクピク動いた。
遠い。しかしストライクか? 打つべきなのか? バットが届くのか?
激しい葛藤の後、結局バッターは見送った。そして、審判のストライクのコールに驚き、ふたたび振り返る。
そうだよなぁ。あの内角高めのホップするボールの直後だ。えらい遠くに感じただろうなぁ。
……俺、夢実のボールを受けるようになって、はじめてキャッチャーの醍醐味が理解できたような気がするよ。コントロールのいいピッチャーをリードしてバッターと知恵比べするのって、こんなに楽しいものだったのか。
振り返ったバッターの顔に書いてある。この速度ならば、次は打てる。……うん、そうかもね。普通はそう思うよね。頑張ってみなよ。
さあ、追い込んで三球目。
先頭バッターは慎重に打ち取りたい。何を投げる?
今日は監督から三振禁止令は出ていない。基本、スタミナ重視の打たせて取るピッチングは変わってないが、スタミナを温存した上で三振とれるチャンスがあれば大いに狙ってよし、と指示されている。
そりゃそうだ。ランナーを出すよりは出さない方が、結局のところ球数は減りスタミナを使わないに決まってるからな。
バッターは、夢実には横に曲がるスライダや変態ナックルがあることも知ってるはずだ。さて、何がくると思う? セオリー通り一球外すと思うか? 悩め悩め。
俺はサインをだす。もしかしたら顔がニヤけていたかもしれない。そんな俺のサインに、夢実は一瞬おどろいた表情。しかし頷く。彼女もニヤリと笑ったように見えた。
いつも通りのセットポジションから、いつも通りの投球フォーム。地面ギリギリから湧き出すような、……超スローボールだ!
一応、俺と夢実の間ではチェンジアップということにしているが、実際にはただの山なりスローボール。
打ち気満々のバッターは唖然としてバットを停める。そして、ボールが山なりの頂点を超えた頃、やっと気づくのだ。あれ? これ、……ストライクじゃないか?
あわててバットを振っても、ほぼ垂直に、しかも微妙に曲がりながら落ちてくるボールには当たらない。俺はホームベースの角に弾んだボールをキャッチ。そして、そっとバッターにタッチした。
三振!
マウンドの上、夢実が目立たないように小さくガッツポーズしたのが見えた。
そんなボール投げられるわけないだろ! ……なんて突っ込みはしないでいただけると助かります。ファンタジーですから。
2016.08.28 初出




