51 哲学的な問題
「送ってくれてありがとう、潤一君」
「じゃあひかりちゃん、またあしたね」
西高野球部マネージャー、十軒ひかるの家の前。部活帰りの彼女は、チームのエースであり幼馴染みである琴似潤一に送ってもらったのだ。
いつものとおりの別れの挨拶。潤一は軽く手を振った後、いつものとおり自分の家に向かって帰っていく。
振り返って! 帰る前に、もういちど顔をみせて!!
大きな背中に向かって、ひかるはそう念じる。
しかし、潤一は振り返らない。いくらひかるが念じても、その気持ちが彼に伝わることはない。振り帰らずまっすぐに歩を進めていく。今日だけではない。昨日も、その前も同じだった。
あの事故の前、潤一が記憶を失うその日までは、ひかるが振り返って欲しいと思う瞬間、まるでそれがテレパシーで伝わったかと思うタイミングで彼は振り返り、そして微笑んでくれたのに。
潤一の家は、ここからも見える高層マンションだ。その真ん中くらいのフロアにある彼の家、ひかるは幼い頃から何度も何度も数え切れないくらい行った。ひかるの母親が夜勤の時は、潤一の家族と一緒にご飯を食べて、そのまま泊まることも珍しくなかった
しかし、あの事故以来、ひかるが潤一の家にいくことは激減してしまった。彼が遊びにこいと誘ってくれないのだ。まるで以前のことを忘れてしまったかのように。
同様に、潤一がひかるの家に来ることもない。ただ部活の後、義務のように送ってくれるだけだ。
ひかるは、もう一度マンションを見上げる。視線の先には最上階。もっとも高価なフロアをぶち抜きで使っている家の少女の顔が、目の前に浮かぶ。
今の潤一君が微笑む先に居るのは、彼女だ。
いまさらお弁当を作る係を強引に奪っても、二人きりの朝のランニングにむりやり割り込んでも、彼女には勝てない。潤一君の想いが私に向けられることはない。あの事故から、潤一君の記憶がなくなってから、すべてが変わってしまったのだ。
……いっそ、夢実ちゃんが思いっきり憎めるような人間ならよかったのに。
そう。夢実ちゃんは、お金持ちなのに潤一君に手作りのお弁当を作ってあげていた。不良に絡まれたひかるを助けてくれた。なによりも、潤一君とおなじく野球の才能がある。情熱もある。私が男だったらきっと夢実ちゃんを好きになっているに違いない。
ぽろっ。
そう思った瞬間、涙がこぼれおちる。あわててハンカチで拭う。
わかってる。泣いている場合じゃない。相手が誰であれ、どんなに不利な状況であれ、この勝負は絶対にあきらめるわけにはいかないのだ。事故なんかに負けてたまるもんですか。
ひかるは自分の両頬を軽くはたき、気合いを入れる。
「あららー、ひかるちゃん。今帰ったの? 潤一は一緒じゃないのぉ?」
とつぜん後ろから声をかけられた。ぽよよんとした雰囲気、聞き覚えのある女性の声。あわてて振り返ると、自転車に乗った女性がいた。潤一君のお姉さん、琴似優だ。
お姉さんは美香保高校の野球部の顧問だ。私達とおなじように、練習から帰ったところなのだろう。
「え、ええ。潤一君にはうちまで送ってもらって、さっき別れたところです」
「へぇ、こんな遅くまで練習しているとは西高野球部も頑張ってるみたいねぇ。でも、今年の美香保は去年までとはひと味ちがうのよ。予選が楽しみだわぁ、……って、どうしたの、ひかるちゃん。泣いてるの?」
しまった。
あわてて制服の袖で拭く。まだ涙がとまっていなかったか。
「な、なんでもない。なんでもないの」
数秒間、お姉さんはひかるの顔をみつめた。こころの中を見透かすような視線。そして、いつものやさしい表情で口をひらいた。
「……ひかるちゃんのおうち誰もいないのね。お母さんは今日夜勤? なら、これからいっしょに、ご飯食べに行かない? もちろんおごってあげるからぁ」
琴似優はひかるをつれて近所のファミリーレストランにいる。すでに家族連れは少なく、騒々しい若者グループが多い時間帯だ。
二人はそれぞれドリアとパスタを食べた。いま、セットのデザートに手をつけたところだ。
ひかるちゃんは、優の正面の席に座っている。うれしそうにアイスクリームを頬張っている。見た目にはいつも通りに見えるけど……。
そういえば、この娘といっしょに食事することも、最近めっきり減ってしまったわねぇ。昔は毎日のようにうち入り浸っていたのに。
そして、気付く。
……すべては潤一のあの事故から、か。
「あ、あの、お姉さん。いつもこんなに遅いんですか?」
優の視線に気付いたひかるちゃんが、会話のきっかけを求めるかのように口を開いた。
そうだ。今日は私の方から誘ったのよね。本来は私から話しかけなきゃならないのよね。
「え、ええ。最近そうなのよぉ。うちの野球部の子たちが青春してて、なかなか練習終わってくれなくて。……知ってる? ひかるちゃん。教師って、部活で遅くなっても残業代もらえないのよ。ひどい話よねぇ」
「へぇ。美香保といえばお金持ちの多い学校なのに、がんばってるんですね。でもおねえさん、今日は潤一君やお父さんと一緒にご飯食べなくてよかったんですか?」
「いいのいいの。お父さんは遠征中だし。潤一は勝手に昨日のカレーの残り食べてるでしょうから。……最近ひかるちゃんがご飯食べに来てくれないから、余っちゃうのよねぇ。お母さんが夜勤の時は、いつでもうちに来てくれていいのよ」
ひかるちゃんの表情が曇る。この娘のこんな顔は見たくない。
「で、でも、練習が終わってからだと、遅くなっちゃうから……」
そんなことは、去年から同じだったはず。要するに、事故の前のように潤一が誘ってくれないから……、ということね。
琴似優はひとつため息をつく。あらためて目の前の少女を見る。この娘は幼い頃からずっと潤一といっしょにいた。妹みたいなものだ。私なんかよりも遙かにしっかりしている。真剣に弟を想ってくれる頼りになる女の子。
……このまま、本当の妹になるものだと思っていたのだけどなぁ。あの事故が、すべてを変えてしまったのよね。
ひかるちゃんは、うつむいたまま固まっている。優は、なんと声をかけていいのかわからない。
この娘が、潤一を好いてくれていることは間違いない。しかし、ひかるちゃんは知らないが、いまの潤一は潤一であっても潤一ではない。
もし真実を知ったとしても、ひかるちゃんは潤一を好きでいてくれるのだろうか? そもそも、好きでいるべきなのだろうか? 逆に、今の潤一はひかるちゃんを好きになるだろうか?
例えば、あるプロ野球チームの熱烈なファンがいたとする。そのチームがどこか別のチームと中身の選手を総入れ替えしたとする。その時、彼はどちらのチームのファンであるのが正しいのか?
……難しいわ。わたしにもわからない。なかなか哲学的な問題よね。
さらに、仮にこの問いに正しい答えがあったとしても、恋愛は理屈で割り切れるものじゃない。
いや、そもそも、潤一と夢実ちゃんの精神が本当に入れ替わったのかしら? そんなことが本当にありえる? もしかして、本人達がそう思い込んでいるだけの可能性だって否定できないんじゃない?
再び、ひかるちゃんの顔をみる。あいかわらず化粧っ気がないが、大人になれば美人になるだろう。その上、昔から気は強いけど優しくて何でもできて、潤一にはもったいない娘だった。……ああ、また泣き出しそうだ。
なんとかしてあげなきゃ。とにかく、このままじゃひかるちゃんが可哀想。それだけは間違いないわ。
琴似優の胸の中で、ひとつの重大な決意がなされた。
……なんにしろ、決めるのはこの娘。真実を知った上で、どうすべきなのか自分で決めさせるのが正しい、のよね。うん、きっとそう。
「えーと、ひかるちゃん。落ち着いて聞いて」
少女が顔をあげる。必死に涙をこらえている。
「あなたに教えておきたいことがあるの。……潤一と夢実ちゃんについてよ」
2016.06.05 初出




