38.春の大会 その7
よし、よし、よし!!
完璧な無回転ボールになった! 我ながら変態的な投げ方だが、確かにナックルになったぞ!
人間が腕をつかってボールを投げるとき、普通はいやでもボールに回転がかかる。ボールに伝えるはずだったエネルギーの一部が、ボールの速度ではなく、回転エネルギーになってしまう。
しかし、その回転があるからこそ、大気をかきわけながら進むボールの挙動が安定する。また、回転の方向と強さを操ることにより、ピッチャーは変化球を投げ分けることができるのだ。
ナックルボールは、その回転をゼロにすることにより、ボールの挙動をわざと不安定にする特殊な変化球だ。
本来のナックルは、ボールをリリースする瞬間、突き立てた指でボールを弾き回転を殺して投げる。手首のスナップを利用できないため、通常のボールよりも速度がでない。
でも、昔から思ってたんだ。
指の背で弾くかわりに、指一本でボールの重心を正確に押し出してやっても、完全に無回転のボールが投げられるかもなぁ、って。原理だけならサッカーの無回転シュートと同じだ。スゲェ難しいけど、こちらの方が手首の力も使えるから球速はでるはずだ。
おそらく誰もやったことがない魔球だが、本当にできちゃうとは思わなかった。これぞケガの功名ってやつだな。
とはいえ、ナックルはある程度以上の球速がないと意味がない。無回転のボールが上下左右不規則にぶれるのためには、大気に対してそれなりの相対速度が必要だ。だから、どのみちスタミナ切れの俺は、もうほとんど投げられない。
それに、中指と薬指が痛くて痛くて痛くて痛くて、……はやく決着をつけなきゃ泣いてしまいそうだ。出血もそろそろ誤魔化しきれないだろう。要するに、……要するにだ、次で決めるしかない。それで終わりだ。
「夢実! がんばれ!!」
スタンドからよく知った声がきこえた。視線を向ければ、制服姿の潤一とひかるだ。
なんだ、おまえら。俺達、じゃなくて小別沢の偵察か? どのみち、俺達と西高はブロックが別だから、対戦するとしても決勝なんだが、わざわざご苦労なことだな。……って、西高は市内の別の球場で一回戦を戦っているんじゃないのか? もしかして、もう終わったのか?
ひかるが、手元のノートに大きくマジックで字を書き、潤一の前にかざした。なんだ?
『← ノーヒットノーラン!』
一回戦からいきなりノーヒットノーラン? 潤一が? それでもう試合終わったのか?
くっそー、俺がコールド負けしそうだというのに。嫌味か! ……いや、ひかる流の励ましだと受け取っておこう。
ひとつ深呼吸してモーションにはいる直前、バッターボックスを睨む。
おっ、南郷の顔つきかわった。さっきの空振りがよほどこたえたのか。それとも、おまえも潤一を見つけたのか。
去年の秋のあの試合の時よりもすげぇ恐い顔で俺を睨みつけている。背中からドス黒いオーラまで噴き出してる。これ、普通の女の子だったら、目が合っただけで泣き出すぞ。おっかけギャルも逃げ出す怖さ。これが高校生ナンバーワンスラッガーの本気か。まぁ、普段の仏頂面よりもよっぽど男らしいとは思うが。
うん、たしかに、……かっこいい。
おもわず見とれた。見とれた? ……そんなバカな事があるものか。
俺は必死に頭をふる。
潤一も見ているのに、俺は何を。……い、いや、そうじゃなくて。おっかない顔すれば俺がビビると思ったら大間違いだぞ。と、と、とにかく、その恐い顔を、いま吠え面にしてやるからな。
『さあ、カウントはワンボール・ツーストライク。ピッチャー白石さん、いままでより大きなフォームから四球目を、……投げました!』
先ほどよりもすこしだけ速いボール。極端に低い位置でのリリースから、バッターの顔に向かって山なりに迫る。しかし、バッターの目の前、まさにスイングを開始するタイミングで、ボールが揺れ始める。
正面から迎え撃つ南郷の目には、ボールがいくつにも分裂したように見えた。
ボールの表面にまといつく気流が、縫い目によって微妙に乱される。不規則な力がかかり、ボールの進行方向と角度がかわる。それにより、また力の方向がかわる。バッターだけではない。投げた本人だってどのように変化するのか予測できない、まさに魔球だ。
気まぐれなボールは、まず浮き上がり、そののち大きく右に落ち始めた。
『見送ればボールだ』
南郷賢の頭の中に、一瞬だけその考えがよぎる。彼は選球眼も一流だ。しかし、彼の理性はそれを否定する。
バットは届く! 打つ!!
これが彼女の本気だ。そして、この試合、おそらくこれが最後のボールだ。ならば俺は、白石夢実のボールを絶対に打つ。琴似潤一も見ているまえで、打ち崩してやる。
本能が叫んでいる。ここで打たなければ、俺はあとあとまで引きずることになる。自分でもどうしてよいか、わからなくなる。琴似潤一の声に反応した白石夢実の表情をみた瞬間の自分の感情に、悩み続けることになる。
それをこの瞬間だけで断ち切るためにも、俺はここで打たねばならない。ギリギリまで引きつけて、思いっきりのスイングをぶつける。ふらふら落ち着かないボールを相手に、ここで決着をつけるのだ。
しかし、……あたらない?
スイングが空を切った直後、彼は目を閉じ、頭を垂れた。マウンドに視線を向けることが出来なかった。彼女がどんな表情で自分を見ているのか、知るのが恐かったのだ。
我に返ったのは、ネクストバッターズサークルに控える五番バッターの叫びが聞こえたせいだ。
「南郷、はしれ!」
振り向けば、キャッチャーの拓馬がボールを後逸している。
あのボールを捕るのは、普通のキャッチャーでは難しいだろう。しかし、それでも南郷賢は口の中で弟を罵倒せずにはいられない。
『このバカ野郎! ピッチャーの脚を引っ張りやがって!!』
一瞬躊躇するも、しかしいまは試合中だ。走らないわけにはいかない。一塁はゆうゆうセーフ。だが、いまだにピッチャーの顔に視線を向けられない。自分がズルをしたようなうしろめたさを感じながら。
『南郷君、さんしーん! ……い、いえ、キャッチャー後逸しています。バッター振り逃げで一塁へ。キャッチャーが今ボールにおいつきましたが、間に合いません。ノーアウトランナー一塁です』
『……あ、なんでしょう? キャッチャーからボールを渡された主審が、ピッチャーの白石さんになにか話しかけてますね』
『あー、ボールに何かついているのに審判が気づいたんですね。あれは、血じゃないですか? 審判はそれで、ピッチャーのケガの確認をしようとしているのでしょう』
『白石さん、近寄ってくる審判を前に、手をグローブに隠しています。後ろを向いてイヤイヤの仕草。……か、可愛い仕草ですね』
『あなた何をいってるんですか? 確かに可愛らしい仕草ですが、白石さんは恐らくケガをしていますよ。それを隠しているんです』
『い、いえ、失礼しました。うちの五歳の娘がよく似たような仕草をするもので、つい……。主審がかまわずマウンドに近づきます。本人だけでなくベンチに向けてなにか言っていますね』
『さきほど右手に打球をうけたときのケガですかねぇ。あ、美香保学園の監督が出てきましたよ。マウンドでピッチャーと話した後、主審になにか伝えています』
『……ああ、棄権ですね。美香保学園、ここで棄権。ピッチャー白石さん、短時間の治療ではどうにもならないケガのため、もう試合続行不可能ということでしょう。美香保学園は選手が十人しかおらず、すでに一人交代してますから、白石さんの代わりはいません。いま、主審がゲームセットを宣言しました』
『ピッチャー白石さん、マウンドで泣きくずれています。七者連続三振、南郷君の振り逃げも入れれば打者九人で八つの三振という素晴らしい投球をみせてくれた白石さんでしたが、ここで試合終了です。他のナインに抱えられるようにして、泣きながらマウンドを去ります』
『いや、がんばりました。スタンドからも大きな拍手が起こってます。また夏の予選にもでてきてほしいですね』
……こうして、俺達の春の大会は終わったのだ。
血染めのボールと魔球は野球マンガの定番なのです。
次話からは夏の甲子園予選を目指します。
2016.02.21 初出




