00.プロローグ
「……行きたかったね、甲子園」
高校二年生になったばかりのある日。野球部の練習でへとへとになったあと、自転車での帰り道。ポツリと一言つぶやいたのは、隣をあるく野球部マネージャーのひかるだ。
いつも通りふたりいっしょに、いつも通り買い物に寄ったコンビニで、ふと目に入った夕刊紙の見だし。……そうか、まだやっていたのか、春の甲子園。決勝は明日だったか。
本当にあと少しだったのだ。昨年の秋の地方大会。我が西高はベスト4に進出したものの、おしくも準決勝で敗退。あとひとつ勝てれば、……あとアウトいくつか取ることができれば、ほぼ確実に選抜に出場することができたのだ。
俺は琴似潤一。隣にいるのは野球部のマネージャー、十軒ひかる。ひかるの家は、うちのすぐ近所だ。いつの間にか家族ぐるみで仲良くなった、いわゆる幼馴染みというやつだ。
「しかたないって。つぎの夏を目指せばいいさ」
「潤一君は呑気だなぁ。そんな事いってるとすぐ三年生になって、そしたら卒業だよ」
「確かに甲子園は行きたいけどさ。頑張ってるのは俺達だけじゃないしなぁ」
「でも、でも、甲子園いかないと、ドラフトにかからないかもしれないじゃない。潤一君、お父さんみたいなプロ選手になるのが夢なんでしょ」
今時古風なセーラー服のひかるの視線が、俺の顔を見上げる。メガネ越しに必死にうったえかける瞳。この娘は、どうして俺のためにこんなに必死な顔ができるのだろう。
「まぁプロになれなかったら仕方がない。大学でも社会人でも野球はできるしな」
これは本心だ。夢のことも将来のこともそりゃいろいろと思うところはあるけれど、とにかく今はみんなと野球ができることが楽しいのだ。この毎日が永遠に続けばいいと思うほど。
「もう、本当に呑気者なんだから」
ぷんとふくれる幼馴染み。
「そんな顔するなよ。今はチームのみんなやお前と一緒に野球できるのが楽しいんだ。でも、これだけ毎日精一杯練習してるんだ。きっと甲子園に連れて行ってやれるから」
小さな頭をなでる。ひかるの頬がほのかに赤くなったような気がする。
棚に並んだ夕刊紙をよく見ると、もうひとつ大きな見だしが踊っている。
『甲子園にも女子選手? 高校野球連盟ついに女子選手解禁。高校野球人気回復をはかるため』
ほぉ、何年も前から話題にはなってたはずだけど、ついに決定したのか。
「へぇ、うちの野球部にもかわいい女子選手とか入部してこないかな」
「ばっかじゃないの。硬式ボールよ。そんな危険な部活に女子選手なんてくるわけないじゃない!」
……なに怒ってるんだよ。
ひかると別れて、自宅のマンションの前に来たときのことだ。自転車を駐輪場に入れようとして、黒塗りの高級車が目に入る。
ああ、たまに見かける最上階の住人か。ワンフロアぶち抜きで住んでるお金持ち。
肩で切りそろえたさらさらの黒髪。小さな身体。少々古風なお人形さんみたいな可愛らしい少女が車を降り、ホールの入り口へ向かう。制服を見る限り、有名なお坊っちゃんお嬢ちゃん学校の生徒なんだろうなぁ。
と、後ろから轟音。なんだ? 振り向くと目の前に迫るトラック。まったく減速せずに、こちらに向かってくる。
とっさに一歩さがる。マンションのエントランスに飛び込めば安全だろう。
だが、トラックは高級車の方向に向かっている。どこからか悲鳴が聞こえる。怒号と、そしてスリップ音。やばい。車を降りたばかりの少女が逃げた方向に、トラックが向きをかえる。エントランスのドアに飛び込む前に少女がこける。腰が抜けたか。大きく目を見開いたまま、そのまま動けない。周囲に人はいない。いや、たったひとりいる。俺だ
一番ちかくにいるのは俺だ。勝手に身体が動く。少女をとっさにかばう。
だめだ。これは逃げられない。だめだ。トラックが目の前に迫る。もうだめだ。
『女の子って、こんなに小さくて細くて華奢なんだなぁ』
切迫した命がけの瞬間であるにもかかわらず、頭の中に浮かんだのはこれだけだ。俺って本当にのんき者なのかもしれないなぁ、ひかる。
……せめて、この子だけでも助かればいいなぁ。
しばらくは毎日更新できると思います。
よろしくお願いします。
2015.12.19 初出




