はるか遠い夏の日 (3)
意識が一度闇に落ち、再び目が覚める。目の前には夏空。日差しがじりじりと熱い。またあの作業現場だ。僕は元の体に戻されたんじゃなかったのか?
疑問に思っていると、ドクター鳴海の声がする。
『遠藤君? 聞こえますか』
「はい、聞こえますけれども」
『……』
妙な沈黙。何か様子がおかしい。
『……では、もう一度眠りに誘導します。すみません』
何がすみませんなのか、手違いがあったのか。僕は再び眠りに落ちた。
今度は少し長く眠った気がする。目が覚めたが、まだ作業現場だ。
ただ、さっきよりも涼しい。日が落ちかけている。
ドクター鳴海と、さっきと似たようなやりとりをして、僕はまた眠った。ドクター鳴海はさっきよりもより混乱している様子だった。
次に目覚めたのは、診察室の椅子の上だった。
ただし、僕自身の体ではなく、筋肉男の体のままだった。とりあえず埃っぽい直射日光の下から逃れることができたので、僕はすこし安堵した。
入室を知らせるチャイムが鳴り、扉が開いた。ドクター鳴海と、藤所長が一緒に入ってきた。僕は、実験体をだめにしたことについてのお叱りを受けるに違いないと思った。
二人の表情は暗く曇っていた。ドクター鳴海にいたっては顔面蒼白だった。
口を開いたのは藤所長だった。
「遠藤君。落ち着いて聞いてほしい」
何か途方もなくいやな予感がする。
「きみがあの作業現場で毒水を浴びてから、ドクター鳴海がいつも通りにきみの意識を引き戻そうとした。単に、きみの頭についた電波送信機を停止させるだけで良かったはずだった。ところが、どういうわけか、きみの意識が戻らない。きみの体は、呼吸もしているし心臓も動いていて、ただ眠っている状態のまま、目を覚ますことがなかった。逆に、人工肉体のほうできみは呼びかけに反応した。
きみの体は極秘のうちに高度救命医療センターに運んだ。しかし、どの医者にも原因がわからないまま数時間が経過している。われわれは、救命センターにいるきみの頭に送信機を装着し、中間点に仮設の電波中継基地を立てた。こうしてきみとわれわれが話すことができているのは、そういうわけだ」
どういうわけだ。僕にはさっぱり理解できなかった。
「もう少しわかりやすくなりませんか?」
僕が質問すると、しばしの沈黙があり、ドクター鳴海が生気のない顔で答えた。
「――つまり、あなたは元の体に戻れなくなったということです」
ドクター鳴海と藤所長は、もちろんこれから全力で原因を究明して、一刻も早く僕の体を元通りにするべく努力する、と力説した。
そんなときにふと、妙なことが気になった。
「いま、何日の何時でしょう」
思えば拍子抜けするような質問だった。藤所長が腕のアナログ時計を見た。
「実験六日目の、朝十一時ですが」
「ああ」
玲子の洗濯の約束をすっぽかしてしまった。なぜか、そんなことが悲しかった。
その頃、僕の母は息子の緊急事態だということで、救命病院に呼び出されていたという。
名前を呼んでも泣きすがっても目を覚まさない僕の体に、ずっと付き添っていた。研究所の職員が、こちらに来れば息子さんとお話することができます、と説明しても、母にはとても理解できるはずもなく、てこでもその場所から動かなかったという。
それからというもの、原因究明と状況打開のためにあらゆる策が試された。
入眠して覚醒する標準のプロセスは数えきれない回数を試したし、眠った僕に母親が何度も話しかけたりもしてくれた。最終手段として、僕の脳内に送信機と受信機の両方を埋め込んだらいいんじゃないかという話もあったが、それは手術のリスクが高すぎるということで見送られた。
僕はその時知らなかったが、ドクター白戸を問い詰めて真実を聞き出した宮沢さんは、僕の恋人だと信じ込んでいた玲子にも事実を告げ、所内で二人して大騒動を起こしたそうだ。
元の体でも転送先の体でもどちらでもいいから遠藤に会わせろ、と、ドクター白戸を味方につけて二人は粘っていたが、結局取り押さえられて、強引に自宅へ返された。
僕の体は寝たきりのまま入院を続け、意識は呼ばれたり眠らされたりしながら、二か月の間研究所で過ごした。母は辛うじて事態を理解し、研究所と病院とを行き来するようになった。
しかし、僕が元の姿に戻って目覚めることは一度もなかった。
「残念ながら、きみを元通りの体に戻してやることはできないかもしれない」
応接間で藤所長は言った。
今日は窓のブラインドは上げられていて、遠くのビル群とうろこ雲が浮かぶ青空が見えた。僕はすっかり慣れた筋肉男の体のままうつむいた。母は僕の隣で泣き崩れていた。
「それ以外のことで、きみが望むことがあれば、可能な限り協力しよう」
藤所長はこれまでに何度も僕と母に土下座した。しかしそんなことはもう望まない。
それに、僕の本当の体の維持費用と、免疫機能が弱く数年しか持たない人工肉体のスペア確保、およびメンテナンスは、全て国で保障してくれることになっていた。もちろん生涯の生活費も支給される上に、慰謝料という名の口止め料が莫大な金額で提示されていた。
「僕、母と一緒に故郷に戻ります」
「そうか……」
藤所長は膝の上で拳を握りしめ、顔を伏せた。気のせいか、白髪が増えたように感じる。
「地元には、父が残した小さな住宅付きの店舗ピルがあって、そこで母と一緒に生活しようと考えています。僕の体は、なるべくそこから近い病院にでも置いてください」
「わかった、手配しよう」
「それにもうひとつ。この体はちょっと逞しすぎて、なんか僕らしくないっていうか。もう少し、細身で色白な感じの肉体にならないものでしょうか」
藤所長は黙って深くうなずいた。そうして、もう一度、深々と礼をした。
その一週間後、僕は母と一緒に研究所を去ることになった。
ドクター鳴海、ドクター白戸、藤所長と桜木氏も見送りに来てくれて、とくにドクター鳴海は僕を見るたびに土下座しようとするので、僕はいつも一生懸命止めなければならなかった。
車が出るとき、みんな列になって深々とお辞儀をしてくれた。まるで出棺みたいだから内心やめてほしかった。
車は筋肉男の僕と母とを乗せて、数十分走った。
あの夏の日の朝、僕が汗だくになって車を待っていた同じ場所に車は止まった。僕と母は車を降りた。
すっかり秋も深まっていて、銀杏の落ち葉が歩道に吹き溜まっていた。
僕の本体はまだ研究所にあったのだが、研究所が小型アンテナを貸し出してくれ、僕はアンテナの周囲数メートルの範囲でなら行動することができた。アパートに戻ってきたのは、部屋を引き払うためだった。
翌日、アパートに玲子と宮沢さんがやってきた。
二人とも、研究所に対しての怒りがいまだ収まらず、マスコミにネタを売った後、法廷に出て、研究所とそれに関係する国のお偉いさんをまとめて葬り去ってやるんだ、と息巻いていた。
母が温かい番茶を出したところで、二人はすこし落ち着いた。
「僕にはそんなつもりは微塵もないよ」
僕が茶をすすりながら言うと、玲子は再び怒り出した。
「どうして! こんなひどい目に遭ったのよ! 実験に不備があったに決まっているわ」
玲子が僕なんかのために真剣に心配してくれているんだと思うと、少しうれしかった。そのせいなのか、僕の心は不思議と穏やかだった。
「僕はもう故郷で静かに暮らしたいだけだよ。美人で成績もいい玲子とは違って、こんな僕でも実験体として国の役に少しでも立ったんだと思うと、それはそれでいいんだ。それに、法廷で闘ったりとかして大きな騒ぎを起こしたら、僕がフランケンシュタインの怪物だってことが、全世界に知れ渡ってしまう。僕は、そこまでのものを背負って歩き続ける自信がないんだ」
「でも……」
到底納得いかないといわんばかりの玲子を、宮沢さんが静かに諭した。
「玲子ちゃん、そういうことなら仕方ないんじゃないか。研究所とそれにつるんでる奴らを破滅させる引き換えに、遠藤君の人生を犠牲にするというのは、彼にとっては酷な話かもしれない」
「そうかしら……」
「もちろん、遠藤君の気が変わって、やっぱり戦うって言うならば、おれらはとことん一緒にやるつもりだ。いつでも連絡をくれ」
力強い宮沢さんの言葉に、玲子もうんうんとうなずいていた。
三人で、お互いの住所を紙に書き、交換し合った。玲子はメールアドレスも教えてくれた。
僕はふと思い出して玲子に言った。
「そういえば、六日目の朝に洗濯に付き合えなくて悪かった」
「そうね、待っていたのに」
玲子は笑った。久しぶりに見た笑顔は、やっぱり綺麗だった。
僕たちは手分けして部屋の掃除をした。午後になって、僕たちにバイトを紹介した若槻先生も謝りにきた。なぜか果物の盛り籠を持ってきていたので、母が切り分けてくれてみんなで食べた。そのまま遅くまで酒盛りをして、狭い部屋に雑魚寝した。
その夜はちっとも寒くなかった。
ところで、被験者のうちでも、なぜ僕だけがこんな災難に遭ったのか。
ドクター鳴海の説によると、僕があまりにも快適に眠っていたことに理由があるかもしれないそうだ。
僕の体は無音で無感覚に近い状態で、しかもかなりリラックスして眠っていたそうだ。
筋肉男を操作しながら、僕は、激しい肉体労働を行ったり、飲み物を飲んでおいしいと感じたり、突然緊張したり慌てたりと、短時間のうちに多くのイベントを体感した。
それに引き換え、本物の肉体のほうは、何の刺激も受けず眠っているだけ。
僕の自我っていうやつが、ほとんど情報をよこさない僕の本体を見限って、操作先の筋肉男を本体であると認識した。その切り替えがなんの拍子で起こったのか、今後また切り替わることがあるのか、それはわからなかった。
ほかの被験者はどうだったかというと、まず大抵が、実験の緊張からか、うまくリラックス状態になれなかった。更に、元の肉体が無感覚になれなかった。
玲子はジムで運動しすぎて筋肉痛。宮沢さんは招集の三日前に毛虫に刺されて、肩がずっと痛痒く、薬を塗りながら参加していた。他の被験者も、歯痛や胃もたれ、首の寝違えなど、なんらかの刺激が常に気になる状態だったというのだ。
彼らはみな、本当の体から、痛みや痒みなどの信号が絶えず発信されているため、自我をだますことが難しかった。それで転送先の体にすんなりと入り込めなかったのだ。
ただし、この仮説は実験で確かめることはできない。二人目の僕を作る危険は冒せないからだ。
――それでも、国がやると言ったら、いつかやるかもしれないわね。
ドクター鳴海は独り言のようにそう言った。
実家に戻ってから一か月後、すぐ近くに、場違いなほど立派な個人病院が建った。
病院の屋上には、PHSなどの基地局らしいアンテナが何本か立っていたが、違うのが一本さりげなく混じっていて、僕専用だとすぐにわかった。あれなら半径五百メートル程度はカバーすることだろう。これで近場の買い物くらいは不便なくできそうだ。
案の定、開院の日に呼び出された。
行ってみると、院長はよく知っている中年の女医だったが、名字が違っていた。研究所での鳴海という名前は仮名だったのだ。僕は、注文通りの細身で色白な肉体をさっそく支給された。
本当の僕の体は一番上の階の部屋で眠っていた。一度だけ見に行ったが、もうこれが僕であるという感覚はなくなっていて、それ以来は行かなかった。
母は毎日のように通ってくれているらしい。あれから二十数年が経過したいまでも。
二年ほど前から店によく来てくれる小夜子という女の子は、どこか玲子に似ていた。清く正しかった玲子に比べれば、多少曲がったり、いたずらをしながら生きている風ではあるが、誰にでも屈託のない笑顔で積極的に関わろうとするところが同じだった。
よく航星(ワタル、と読む)君という若者と一緒にいるが、交際しているわけではないらしい。
きみたち息が合っているのに付き合わないのかい? と、あるとき小夜子に聞いてみた。
すると悲しげな顔をして、だってあたしたち、同類だから、ネタの割れた手品を見せ合ったって何の慰めにもならないじゃないの、と言っていた。
松の内が明けたころ、店に小夜子がやってきた。客は彼女だけだった。
小夜子は鞄から公開求人票の写しを出して、わたしに見せてくれた。隣の市の、この工場に就職が決まったの、と彼女は言った。もう暮らす部屋も決めていて、来月には引っ越して仕事を始めるのだという。
マスター、ひんぱんには来られなくなるけど、また来るからね。
そう言って小夜子は笑っていた。
じゃあ餞別を送らなきゃね、と言いながら、わたしは手の中から振り子を取り出した。
もうこのタイミングしかなかった。わたしは今までに、じゅうぶん彼女を特別扱いしてきた。こんなに長い間、店から追い払わなかった客は他にいない。
わたしが暗示をかけたことを知らない小夜子は、マスターまたね、と言って笑顔で店を出ていった。
だが、もう二度と来ることはないだろう。
カウンターには、空になったコーヒーカップと、公開求人票の写しが置き去りにされていた。
翌日、航星君がやってきた。
彼は時々カウンターに座らず、テーブル席で食事をしコーヒーを飲みながら、文庫本などを読んでゆっくりしていることがある。そういう日は大抵話しかけづらい。いつもなら、注文のとき以外はそっとしておく。
今日もテーブル席にいた。わたしは航星君のテーブルに近づいていった。
「小夜子ちゃん、昨日来てたよ。就職決まったんだって」
「そうですか、やっぱり」
航星君は読んでいた文庫本を閉じた。ため息をひとつついて、窓の外を見た。空は灰色で、雪は絶え間なく三日三晩ほど降り続いていた。歩道の雪を小型除雪機が巻き上げて吹き飛ばしていた。
彼はこの小さなカフェに置き去りにされたことを悟ったのかもしれない。絵夢も小夜子も、もう来ないということまでは、まだ知らないのだろうが。
ここはこの街のどこでもない場所。隔絶された時間。わたしだけの庭でよかったのに、お気に入りをわたしは囲い込みすぎた。もう現実に返してあげなくてはいけない。
「しばらくの間は来られなくなるって言うんでね、ささやかな餞別をあげたんだ。ほら、これと同じものだよ」
わたしは航星君の目の前で、鎖のついた錘を見せた。
「それ、ペンデュラムですか。ついている青い石はなんです?」
「瑠璃さ。ほら、揺らすと光線の具合で色が変わる」
ふた昔も前には奇跡の石としてもてはやされた石だったが、実際にはそれほど高価ではない。
振り子に集中しろ――そう念じる。
わたしの思考の波はアンテナで増幅されているせいなのか、言葉にしなくても他人に影響を与えやすい。酔っ払いや、たちの悪い客に帰れ帰れと念じて、五分で追い出すこともできる。ペンデュラムを使おうものなら、暗示の効果は百発百中だ。
航星君は目を開いたまま眠ったように反応がなくなった。わたしは、航星君のコートのポケットに、小さく折りたたんだ公開求人票と、瑠璃のついたペンデュラムを入れた。
「ここのことはもう忘れるんだよ」
そして、私はしばしの間、無言で航星君に語りかけた。
振り子時計が鐘を打った。
航海君は眠りから覚め、会計を済ませ、いつものように「ごちそうさま」と言い残して扉から出ていった。
食器を片付けているうちに、わたしも少し腹が減ったので、冷凍庫から茄子のミートドリアを取り出し、オーブンに入れた。小夜子が好きだったメニューで、常に在庫を確保していたから、たくさん余っていた。
しばらくの間、仕入れの量を減らさなくてはならないな。それだけじゃない。ナポリタンも、スコーンも、ジンジャークッキーも、もう多くは必要ないだろう。
あとで玲子にそのように連絡しよう、とわたしは思った。このカフェのために、多くのメニューを開発してくれた彼女にとっては、悪いことをしてしまったのかもしれないが。
ミートドリアが焼きあがるのを待つ間、階段を降りて外に出た。
冬の日没は早く、もう暗くなっていた。積もった雪の表面が街灯に照らされて、結晶がきらきらと光っていた。店の前に積もった雪を強化プラスチックの雪べらで脇に寄せたが、今日はもうきっと誰も来ないだろう。
店に戻ると、オーブンが焼き上がりを告げるメロディーを鳴らしているところだった。
わたしは手動のコーヒーミルを回した。カウンターの向こうを眺めながら。いつか小夜子と航星君と三人で、夜更けまで話していたことを思い出し、わたしは記憶の中でふたりの残像を追った。
――君たちはまだ若く健康だ。そのことが、希望に満ちたしあわせなことなのだとわたしは言うつもりはない。栞は一命をとりとめたが、彼女にとって生きていくことが本当によいことなのか、いっそ死なせてやれば楽だったのか、それはまだわからない。
わたしは君たちよりも少しは長く生きてきたけれど、生きるということは、まだわからないことばかりだ。
しかし、ここは錆びついた空間だ。とどまってはいけない。君たちはもう行きなさい。
航星君を眠らせている間、そんなことをわたしはたぶん念じたと思う。航星君に、そしてここにはいない小夜子にも。
わたしは自分用のカップにコーヒーを注いだ。ほのかな湯気がゆらゆらと立った。
振り子時計が十八時の鐘を打った。
そして、看板をしまう頃になっても、雪はまだ降り続いていた。