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はるか遠い夏の日 (2)

 気づいたら八時半を過ぎていた。

 相変わらず外が見えないので、朝か夜かがわからない。僕は携帯電話の時計を二十四時間表示に変更した。午前の八時半だった。部屋の入り口の床に新聞が届けられていた。

 新聞と一緒に一枚のピンク色の紙があった。『五号室の遠藤様 本日午前九時より作業予定 自室かラウンジにて待機願います』と書かれていた。

 あと三十分しかない。僕はルームサービスをあきらめて、ラウンジで飲み物だけもらおうと思った。

 ラウンジには玲子がいた。

「おはよう遠藤君」

「ああ、……おはよう」

 せっかく玲子があいさつしてくれたのに、僕は聞こえるかどうかの小さな声で答えるのが精いっぱいだ。玲子は長い黒髪を後ろで一本に束ね、ピンクのジャージの上下姿で、首にタオルをかけている。額には汗が流れていた。

「そこのジムで少し走ってたの。プールもあったら良かったのに、って言ったら贅沢だけど」

「そ、そっか」

 トレーニングジムにプールか……。活発でスタイルの良い玲子にはお似合いだ。そういえば、昨夜ライブラリで見た茶髪の男も筋肉質に見えた。僕は弱々しい自分の体が恥ずかしくなった。

「そういえば遠藤君、昨日って何か仕事した?」

 ひとりでいじけかかっていた僕は、玲子の言葉で現実に引き戻された。

「あ、ああ……。何か診察室みたいなとこで、目隠しして寝かされて、手を上げろとかなんとか。それだけ」

「それそれ、あたしも同じ。全然動かせなかったよね。手も足も」

「僕のほうは動かせたよ」

「えー、そうなの? あたしと何か違うのかなあ。あたしのほうは鳴海さんっていう女のドクターだったんだけどな」

「僕もおなじだ」

 話しているうちに、茶髪男がラウンジにやってきた。ライブラリに返却するためなのか、手にDVDを持っていた。

 玲子が、おはようございます、と声をかけた。茶髪男は、少し戸惑ったようだがあいさつを返した。彼女はきっと誰にでも気さくに話しかけることができるのだろう。

 仕事の時間はすぐに来た。桜木氏が現れて僕の名前を呼んだ。僕はラウンジを後にした。

 エレベーターの中から、玲子がいるテーブルに茶髪の男が近づいていくのが見えたが、扉はすぐに閉じてしまい、その後を見届けることができなかった。


 椅子に拘束されて、目と耳を塞がれるところまでは昨日と同じだった。

 真っ暗で無音の世界に、ピーッと音がする。どうやら、この音はドクターの指示が聞こえる前の合図らしい。

『聞こえたらボタンを一回押してください』

 僕は右手のボタンを押した。

『右手を上げてください』

 指示に従って右手、左手、右脚、左脚と動かしてみる。特に問題ない。

『では、目を開けることができますか』

 目を開けるが視界が暗い。

『見えますか、何か見えたら――』

「薄暗いです。よくわかりません」僕は答える。

 即答した後しまったと思った。ドクターの指示はきっと、何か見えたらボタンを押せと言いたかったはずだ。ヘッドフォンの向こうから、戸惑った気配が伝わってくる。しかし今はまだ、周囲がよく見えない。ボタンを押すべきか?

 ピーッと電子音。

『遠藤君。今後は、質問に言葉で答えてくださって結構です』

 余計なことをしたのかもしれないと心配したが、大丈夫そうだ。僕はほっとした。

『遠藤君、視界が暗いのですか? 何も見えませんか?』

 少し待っていると、まるで水銀灯で照らされたかのように、じわじわと周囲が明るくなる。

「だんだん明るくなってきました。蛍光灯――? が見えます。天井? かな」

 寝ていたのだから当然という気がするが、なにか違和感があった。

 拘束具の存在を感じないし、視界を遮っていた目の前のカバーもいつのまにかなくなっていて、ヘッドフォンだけが残っていた。

 それより、さっきの部屋と違うような気がした。

 頭を動かさずに眼球だけを動かして周囲を見た。部屋の大きさはあまり変わらない。計器類なども似たようなものがある。鏡張りの壁は、さっきとは逆側にあるように思えた。診察台ごと半回転したのかもしれないが――いや、鏡ではないのか。

 そこには僕ではない別の男性が横たわっていた。髪はスポーツ刈りのような短髪で、肉体労働者かハンマー投げの選手を思わせる隆々とした太い腕を持っていて、胸板も厚い。ラウンジで見た茶髪の男よりも、ずっとたくましかった。その男も僕をみていた。

 いや、おかしい。僕は唇をオを発音する形にしてみた。その男も同時に口をすぼめた。手の指を動かしてみた。その男の指も動いた。

 僕は自分の腕を見た。すると、いつもの頼りない腕ではなく、ずっと太かった。

 やっと僕は、自分自身が筋肉男になっているのだと気づいた。

 いきなりチャイムが響き扉が開いた。ドクター鳴海が呆然としたような顔で部屋に入ってきた。片手にインカム付きのヘッドセットを持っていた。あれで僕に話しかけていたのだろう。

「エンドウ……君?」

「はい、遠藤ですが」

 僕の顔を覗きこんで、驚愕の表情で言葉を紡ぐドクターに僕は答えた。

「体を起こせる? ゆっくりでいいわ」

 僕は上半身を起こした。

 ドクターは、凄いわ、こんなに早いなんて、とつぶやいた。そして床の配線につまずき、よろめきながら、部屋の壁に設置されていたインターホンの受話器を取って、電話の向こうの相手に言った。

「所長、成功者が一名出ました」


 もう一度眠って起きたら、もやしみたいな元の僕の体に戻っていた。

 桜木氏が現れ、僕とドクター鳴海と三人で、また別のフロアに向かった。エレベーターは上昇して止まった。

 その階の廊下はカーペット張りで、パンプスのドクター鳴海が歩いても足音がしなかった。僕たちは『所長室』と書かれた扉の中に入った。

 ガラス製のテーブルと革張りのソファーがあり、壁には大きな絵画が飾られていた。いわゆる応接室のようだ。ただし、大きな窓はブラインドで覆われていて外が見えなかった。

 部屋の奥のパーテーションの陰から、黒縁眼鏡の男性が現れた。七三分けにした頭は半分以上白髪だった。

「五号室の遠藤君だね。わたしは、この実験の責任者の藤という者だ。いままで何の説明もしなくて悪かったね。――ドクター鳴海も、ここで一緒に聞きなさい」

 若い女性秘書が、僕たちに麦茶を持ってきてくれた。藤所長は彼女に席を外すよう命じた。彼女が立ち去ったのち、藤所長は僕に説明をしてくれた。


 小学生でも知っている常識だが、クローン人間の開発実験は、国際的に禁止されている。

 もちろんそれは倫理的な理由からであって、技術的には充分可能であろうことは容易に推測できた。某国では実際に行われていて、その度に科学者がバチカンかCIAあたりの暗殺者に消されているらしい、という噂もまた都市伝説のように浸透していた。

 クローン人間の作成は禁止されているが、人工臓器や、腕や体、血管といった、個別器官の作成は禁止されていない。そこで、ある国の科学者が、人間の体の部品を全部作って、プラモデルみたいに組み合わせて、神経をつないで、心臓を動かし血液を流す実験に成功した。

 それは当然、クローン人間を作るよりもはるかにコストが高くて繊細な仕事だった。実験は半分成功したが半分失敗だった。出来上がった人間らしきそれは木偶人形でしかなく、ただ横たわって眠っているだけで、いつまでも目を覚ますことがなかった。何度追試してもほとんど同じ結果で、まるっきり失敗したときは、部品が全部腐った。それらの木偶人形を起こす方法があるのかどうか、誰にもわからなかった。

 実験が行き詰まりかけたとき、人体が人間として覚醒するために足りないのは、自我ではないかと、ある女性ドクターが仮説を立てた。

 そこで、コンピュータの研究者に、人体を制御できるほどの電脳自我を作れるかと訊ねたところ、国家予算の半分を使ってもいいなら出来なくもない、という返答が返ってきた。ほかの誰に聞いても似たような答えだった。

 事実上無理だと言っているのと同じだ。もっと低コストな方法を試す必要があった。

 そこで、ごく普通の生身の人間の自我を――正確には脳が発する電気信号を、電波に変調して送信し、木偶人形の脳内に埋め込んだ受信機で受けて復調することで、「自我を持った人間」を再現できるのではないかと考えた。


 藤所長はそのあたりまで説明したところで、一息ついて麦茶をごくりと飲んだ。ドクター鳴海は背筋を伸ばしたまま微動だにしないように見えた。僕はようやく自分がやらされていることに気づいた。

 僕自身の体が眠らされている間、意識は電波になって飛ばされて、人造人間の脳で受信される。僕の意志により人工の体を動かすことができるのか。あわよくば、生身の人間と同じように振る舞うことができるのか。そういう実験だったのだ。

 そして、実験の基となった仮説を立てた女性ドクターとは、きっとドクター鳴海のことだ。

 藤所長は、しばしの沈黙ののち、ふたたび口を開いた。

「遠藤君もご察しのことと思うが、この実験は国家機密だ。今まで説明しなかったのは、この事実を知っている者を極力少人数に抑えるためだ。

 しかし、自分の目で事実を見てしまった者には、何も説明しないわけにはいかない。遠藤君、きみは初の実験成功者で、今後何人の成功者が出るかはまだ分からない。この事実については口外無用だ。ほかの被験者にも伝えないように願いたい。申し訳ないが、しばらくの間きみの行動は全て、我々に盗聴、もしくは監視されていると思ってほしい。実験が終了し、自宅に戻った後も当面はそうであると考えていただきたい」

「もしも、僕が誰かにしゃべったり、インターネットに広めたらどうなります?」

「このセンター内での行動であれば、きみを即座に実験から隔離し、別棟にておとなしく過ごしていただく。あまり快適な環境ではないと思うよ。帰宅した後のことであれば、少々手荒いがしばらく神隠しに遭っていただくという具合かな」

 藤所長は穏やかな笑みを浮かべている。

 実質的な口止めだ、と僕は思った。


 エレベーターで宿泊棟に戻ると、玲子がラウンジで文庫本を読んでいた。僕が来たことに気づくと、遠藤君ちょっとちょっと、と言って僕を手招きした。

「ねえ、ここにいる間だけ、彼氏のふりしてくれないかな?」

 顔の前で両手を合わせて片目をつむり、玲子はそう言った。僕はあまりにも現実離れした状況に面食らっていた。さっきの藤所長の話よりも余程ありえないことだ。

「どうしたの、何かあったのかい」

「ランドリーとかジムとかにいると、何度も声をかけてくる人がいて。やんわりと断るのもなかなか難しいから、勢いで、彼氏も一緒に来てるから、って出まかせを言っちゃったのよね」

 玲子は本当に申し訳なさそうな様子だった。

「それってもしかして、体格が良くてすごい茶髪の人かい?」

「うーん、その人もだけど、しつこいのはまた別の人。少し年上っぽくて……漫画読みながら、あたしの洗濯が終わるのをずーっと待ってて、洗濯かごの中身をじろじろ見たりするのよ」

「それは気色悪いな。洗濯のとき、僕がついていてあげようか」

 自分でも信じられないような積極的な申し出をしてしまったことに、僕自身が驚いた。

「本当? ぜひお願いしたいわ」

「洗濯はいつごろしてる?」

「毎朝七時半頃」

「わかった。間に合うように起きるよ」

 部屋の扉の前で、手を振って別れた。玲子の笑顔は可愛らしかった。

 僕は小躍りしたい気分で、自分の部屋に戻った。玲子はどうして僕にお願いしてきたのか。少なくとも、あの茶髪男よりは信用されているということでいいだろう。嬉しくて僕はベッドの上でごろごろ転げまわった。

 それに、今日の所長の話。あの様子では、今回のメンバーの中では僕が唯一の成功者のようだ。

 玲子に話せないことが少しもどかしかったが仕方ない。今までの人生の中で、僕は一番をとったことはなかったし、女の子から頼りにされたことも記憶になかった。

 このバイトが終わっても、玲子と仲良く過ごせるだろうか。そうだ、メールアドレスくらいは聞いておかないと。どう切り出したらよいだろうか、と僕は考えながら、その夜は眠りについた。


 実験も三日目になった。

 僕は玲子の朝の洗濯に付き合った後(もちろん洗濯かごの中身をあまり見ないようにしながら)、ドクター鳴海のところへ出向いた。昨日までと同じやり方で、筋肉男の体に入った後、今度は起き上がって歩いたりする、基本的な運動機能の検査と、視力聴力といった感覚器の検査をした。僕は、おおむね本当の肉体と同じように動いたり、感じたりすることができた。

 部屋で昼食をとったら再び来るように言われたので、僕はスタミナがつくようにとレバニラ定食を頼んだ。よく考えたら僕自身の体はただ眠っているだけなのだが。

 午後の実験のときは、筋肉男の状態で目覚めて、診察室ではなく少し広いフロアにいた。

 飲料水のペットボトルが入ったダンボール箱を、フロアの端から端に運んで綺麗に積み上げるという仕事をした。おそらくこの作業自体には意味がない。木偶人形を操作して、軽作業にどの程度耐えられるかとかいう実験なのだ。その証拠に、作業の終わりに筋肉の乳酸値と硬度、血中の酸素量などが測られた。

 夕方、僕は自分の体に戻り、宿泊棟に戻ってきた。ラウンジに、初めて見る長髪で無精ひげの男がいた。アニメのDVDと、美少女ものの漫画本を何冊か持って歩いていた。こいつが玲子につきまとっていた男かもしれないと思った。

 玲子には会わなかったが、また明日の朝に会えるからいい。


 四日目。

 筋肉男の目を通してだが、久しぶりに青空を見た。

 ここはどこか屋外であることが分かった。筋肉男はいつもの浴衣ではなく、土木作業者が着るようなツナギ服を着せられ、軍手を着用し、腰にはスパナやペンチとなどといった工具をぶら下げていた。頭にはライト付きのヘルメットをかぶっている。目の前には崩れかけたコンクリート造りの建物があり、がれきが地面のところどころに散らばっていた。遠くには筋肉男と同じような恰好をした作業員が数人ちらほらと見えたが、あれは本物の人間なのだろうか。

 その日の作業は、足元のがれきを運んで片付けたり、建物の中に入って、指示されたケーブルを切ったりつないだりした。しばらくすると、胸元で何かのアラームが鳴りだした。ヘッドフォンから聞こえるドクター鳴海の声が、そこで終わりだから戻ってこいと言った。

 その場所がどこなのか誰も教えてくれなかった。


 五日目。

 玲子の洗濯には少し早い時間に起きてしまったので、僕はラウンジでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。

 ジムのほうから、茶髪男が出てきてこちらに向かってきた。僕は玲子の件で文句でもつけられるのかと思って身構えたが、茶髪男は意外な言葉を発した。

「きみ、フランケンシュタインを操縦したのか」

 僕はまだ玲子にメールアドレスを聞いていなかった。いまは強制送還させられたくないので、僕は言葉を選んで答えた。

「フランケンシュタインは博士の名前です。正しくは、フランケンシュタインの怪物、っていうんです。第一、フランケンのやつは、死体をつなぎ合わせたものなので、少し違います」

 茶髪の中年男はにやりと笑い、僕の向かいの椅子にどすんと腰を下ろした。

「おれは宮沢っていうんだ。娑婆では派遣作業員やってる」

「僕は遠藤です。大学生です」

 宮沢と名乗った茶髪男は、僕と同じように実験に成功した者だと思われた。この件は秘密だと言われているが、知っている者同士でも実験のことを話してはいけないのか? それはわからない。情報交換はしたいが、迂闊なことは言えない。

 宮沢さんは煙草を取り出して、いいか? と僕に訊くので、僕は周囲に禁煙のプレートがないことを確認して、どうぞと言った。宮沢さんはライターで火をつけた。

「おれのほうは年配の男のドクターで、白戸っていうんだが、気さくにいろいろ教えてくれるんだよ。いまのところ、成功者はおれときみだけ。実験は実質的には明日で終わりだ。あさっての最終日は健康診断で終わりだそうだ」

「そうですか。僕は何も聞いていなくて」

「ドクター鳴海だろう? 聞いても無駄だそうだ。お堅いようだから」

 宮沢さんは煙を勢いよく吐き出して続けた。

「被験者は全部で六人。きみとおれ以外は成功の兆しがなく、おそらく時間切れ。きみのかわいいお連れさんも残念ながら非適合。いまの段階では、あまりにもサンプルが少なすぎて、何が向き不向きの要素なのかはわかっていないらしい」

「そうなんですか」

 担当ドクターが違うと、ずいぶん情報量にも差がつくものだ。

 後ろから足音が近づいてきた。洗濯かごを抱えた玲子だ。僕は一礼して席を立った。宮沢さんは片手をあげて挨拶を返してくれた。案外話しやすい人なのかもしれないと思った。

 洗濯機を回している間、玲子はいつも女性雑誌を、僕は新聞か漫画雑誌を読む。今日こそ、メールアドレスを聞こうと思っていたが決心がつかなかった。もし今日断られて、明日を気まずく過ごすのはいやだった。明日が実質的な最終日なら明日聞こう。それでだめでも、きっとあきらめがつくだろうと思った。


 目覚めたら、昨日と同じ廃墟の作業現場にいた。

 寝かされていたマットから体を起こすと、隣にもう一人、そっくりな筋肉男が寝かされていた。僕のほうと同じく作業用の装備を身に着けている。

『遠藤君。今日はパートナーと協力して作業してもらいます』

 ドクター鳴海の声だ。

 隣の男を見ると、目が開いているが、手の指がぎこちなく動くだけで、体をまだ起こせないようだ。僕は手を貸したらいいのか迷っていたら、男が言った。

「遠藤君かい」

「そうです」

「おれだ、宮沢だよ。きみほどにはうまく動けなくってね。すこし待ってくれ」

 宮沢さんの操作する筋肉人形がそう言ったとき、ヘッドホンから声が聞こえた。

『遠藤君、動作や作業は協力しても構いません』

 ドクター鳴海がそう言ったので、僕は宮沢さんに手を貸した。

「何か頭が重いと思ったら、この安物ヘルメットかよ」

 首を左右に動かしながら、宮沢さんが文句を言った。腰に下がっている装備などを確認すると、宮沢さんが前方の廃墟を見て言った。

「遠藤君、ここがどこか聞いているのか」

「どこかはわかりませんが、どんなところなのかは何となく」

 崩れかけた工場のような建物。散乱するコンクリート片。ところどころに立ち入り禁止の標識がある。周囲は見渡す限りの荒地で雑草が伸び放題だった。どこからか潮の香りがする。それに、僕たちの胸についた、アラーム付きの計器。

「つまり、生身の人間が作業するのには、危険すぎる場所なんだと思います」

「正解だな」

 僕たちは、運搬を指示された資材を担ぎながら廃墟へ向かい歩いた。夏の日差しがじりじり照りつける。セミの声が響いていた。

「この木偶人形さえあれば、戦場に行ったり、地雷の掃討も気兼ねなくやり放題だな」

「不死身の指揮官なんてのもできますよ、きっと」

 僕たちは誰に向けているのかわからない皮肉を言いながら、汗だくになって働いた。宮沢さんは工具の扱いに詳しかったけれど、疲労が濃いようで、動きも遅かった。

 テントの中のクーラーボックスに飲み物が用意されているというので、僕らは飲んでみた。ごく普通のスポーツドリンクで、僕には本当の体で飲むのと同じようにさわやかな味が感じられた。よく冷えた水が食道を通って胃に落ちていくのもわかった。宮沢さんのほうは、ふた口ほどぎこちなく飲むのが精いっぱいで、無理に飲み込もうとして咳き込んでいた。

 宮沢さんは、ちょっとおれ一度戻るから、と言って、テントの中に入って眠ってしまった。

 僕のほうは不思議なくらい体が軽かった。まだまだ働ける気がした。生身の体でこれほど汗をかいたのはいつのことだっただろうか。しかし、間もなく僕のほうの胸のアラームが鳴った。僕は廃墟を離れて、マットがある地点まで戻った。

 耳もとでピーッという音がした。

『遠藤君、体調はどうですか?』

 ドクター鳴海の声だ。

「暑いですが、何も不具合はありません。飲み物もありますし、まだ働けます」

『では、アラームを一度リセットします。もう少し作業をお願いします。絶対に無理はしないように』

 後になって思えば、僕は少し調子に乗っていたのかもしれない。強靭な肉体を僕だけが自在に操れること。それに、玲子と親しくなれそうなこと。人生ってこんなに楽しいんだ。生まれて初めてそう感じていたのかもしれない。

 廃墟内のケーブルの修理を指示されて、僕は再び建物に入った。

 光が差さない場所だったので、ヘルメットのライトが頼りだった。無理はしないように、との忠告を僕は軽く考えていて、頭上でこんがらがっていたケーブルの束を、よく見えもしないまま力任せに引きずりおろした。途端に、上から黒く濁った水が大量に降ってきた。僕は顔を直撃され、全身水浸しになった。水は目と口にも入り、少し飲んでしまった。

 アラームがけたたましく鳴り響いた。

『遠藤君、至急戻って! はやく!』

 ドクター鳴海が激しく動揺しているのがわかった。僕が体中に浴びた黒い水は、おそらく毒性があるのだ。僕は指示されたとおり、テントの外にあったマットに横たわって目を閉じた。

 ああ、やらかしてしまった。貴重な実験体を一体お釈迦にしてしまったのかもしれない。

 僕は後悔したが、すでにもっと深刻な事態に陥っていたことを、その時は知らなかった。

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