はるか遠い夏の日 (1)
カフェ・ペンデュラムは、平凡で小さなな喫茶店だ。カウンターに椅子が四つと、テーブル席がが三組だけの、わたしのささやかな箱庭だ。
凝ったメニューはなにひとつないし、コーヒーにも特別なこだわりはない。それでも、なるべく温かくて美味しいものを安く出したいとわたしは心がけている。こんな何の変哲もない、おしゃれとも言い難いカフェに、ひいきにして通ってきてくれるお客がいるのはありがたいことだ。
しかし、わたしは繁忙を好まない。半日客が来なくてもまったく気にならない。わたしはこの場所でずっと、一人でひっそりとやっていくつもりなのだ。二度目に訪れるような客には、どうかこの喫茶店のことは誰にも言わないでくれとお願いしている。
それでも、やはり誰かしらを連れてきてしまう客は時々いる。
この制服姿の生真面目な女子高生に、悪気はまったくないことは明らかだ。
「絵夢ちゃん、彼女は学校のお友達かい?」と、声をかけると、「あっ」と目を見開いたまま一瞬動きが止まり、次には「そうでした、ごめんなさいごめんなさい」とひたすら謝り始めた。いいんだよ、ゆっくりしていって、とわたしは笑顔で言ったけれど、アウト。わたしは心の中で握りこぶしを振り上げた。
絵夢と友人の少女は、ボックス席に座り、二人してミルクティーを注文した。友人のほうは、飾り気のない絵夢とは違って、髪型をきれいにセットしていて、少し化粧もしているように見えた。地獄耳のわたしには会話の内容がたいてい聞こえてしまう。担任の教師のことや、誰が誰を好きだとかの噂話。二人はどうやらクラスメイトらしい。
会話が盛り上がっているところに、わたしはシナモンの効いたジンジャークッキーを持って行った。
「これはサービス。カロリーは控えめでヘルシーなお菓子だから大丈夫だよ」と言うと、二人とも屈託のない笑顔で「ありがとうございます!」とお礼を言ってくれた。
わたしはすこしだけ心が痛くなった。
「ところで、君たちのような若い子は、こんな古い時計見たことあるかい?」
わたしは大きな振り子時計を指し、二人の少女はそれを見た。
「これは昭和初期に作られた、本物のアンティークだよ。電池を使わないで、振り子とぜんまいの力だけで動いているのさ」
「へーえ、電気がなくても大丈夫なんですか?」絵夢が感心したように言った。
「ああいう振り子は、重さと長さが同じなら、常に同じ周期で振れつづけるんだ。その仕組みを利用している」
「理科で習いました」
わたしは手の中の、細い鎖がついた錘を取り出した。
「ほら、見てごらん、例えばこんなふうに――」
わたしは錘をゆっくりと振り子のように揺らした。少女たちは見入っている。
「――君たちは、わたしの言うことだけが、はっきりと聞こえるようになるよ」
彼女たちの目がうつろになっていくのを確認し、わたしはゆっくりと彼女たちに語りかけた。
「君たちの学校では、喫茶店の立ち入りが、禁止されているはずだ。今日、この喫茶店を一歩出たときから、もう来ないほうがいいんじゃないか、と、君たちは考え始める」
少女たちは向かい合って座っていたが、目の前にいる友人のことも目に映っていないように、微動だにせず、無表情に空中の一点を見つめている。
「この喫茶店のことは、少しずつ忘れていく。行き方も場所も、だんだんと薄らいで忘れていく。時計が鐘を打つと、君たちは目が覚める」
彼女たちはまだまどろんだように動かない。わたしはゆっくりと立ち去り、カウンターの中へ戻った。
振り子時計が十六時の鐘を打った。
彼女たちは目を覚まし、何事もなかったように雑談を始めた。
絵夢は店を出ていくとき、ワタルさんと小夜子さんによろしく、また来ますね、と頭を下げた。それが叶うことはないとわたしは知っていた。
それ以来、絵夢は来なかった。
わたしのところに届く年賀状はすくない。学生時代の友人とは疎遠になってしまったし、もともと親戚づきあいもほとんどなかった。いまとなっては、付き合いのある業者からのあいさつがわずかにあるばかりだった。
その薄い葉書の束の中に、玲子からの年賀状があった。彼女は毎年くれる。パソコンとプリンターで作成されたであろう干支のイラストの隣に、手書きの文字で「今年も新作がんばりますので、期待してくださいね」と添えられてあった。昔のわたしを知る数少ない人間のひとりだ。しばらく会っていないが、彼女の万年筆の筆跡とおなじように、相変わらず綺麗なのだろう。
窓の外は雪がちらついている。裸になった街路樹の梢で、シジュウカラが高い声でさえずっていた。春はまだ遠いというのに。
それよりもずっとはるかに遠い、大学時代の夏をわたしは思い返していた。
遠藤君、もしもほかのアルバイトが決まっていないんだったら、ちょっと力を貸してくれないか。
若槻先生はそう言って僕を誘ったが、どうも気乗りがしなかった。しかしその次に、瀬戸玲子も同じバイトに来るぞ、と聞いて、僕は半信半疑ながら承諾した。瀬戸玲子といったら、僕と同学年の首席合格者でありミスキャンパスだ。普通に過ごしていてお近づきになれるチャンスはまずないだろう。同じ仕事を引き受ければ、ひょっとしたらお友達くらいにはなれるかもしれない。もしかすると若槻先生の仕掛けた罠かもしれないが、それはそれでしょうがないと思った。
先生から紹介されたアルバイトの採用試験は、簡単な面接と健康診断だけだった。六泊七日の泊まり込みの軽作業および被験である旨を告げられた。後日、採用通知がきた。コンビニでバイトしている同級生にはとても言えないくらいの、良い報酬が約束されていた。
よく晴れた夏の日の朝、僕はボストンバッグに数日分の着替えなどを詰めて、最寄りのバス停に立っていた。気温はすでに上がりはじめ、アスファルトから陽炎が立ち上っていた。
約束の時間ぴったりにマイクロバスがやってきて、僕の目の前でぴたりと止まった。薄青色の作業服に帽子をかぶった男性が後部の扉をあけて、エンドウさんですね乗ってくださいと言った。
バスの中をのぞき込むと、僕より先にロングヘアの美人が乗っていた。瀬戸玲子だ。
僕は通路を挟んだ玲子と同じ列に腰かけ、額の汗を拭いた。バスの窓はスモークフィルムでも貼られているのか、外が見えないようになっていて、運転席側もカーテンで見えなかった。
「おはよう」と玲子が言った。僕もおはようと答えた。
「先生が言ってた遠藤君よね?」
「あ、うん」
僕は先生が妙なことを彼女に教えていないことを願った。たとえば成績のこととか。
「ねえ、これからどこに向かうのか知ってる?」と玲子が僕に訊ねたが、残念ながら僕は知らなかった。ただ首を横に振りつつ、下調べでもしておけば会話が膨らんだのだろうかと後悔した。
バスが出発してまもなく、作業服の男性が僕たちにアイマスクとヘッドフォンをよこして、好きな音楽のチャンネルを選んでくださいと言った。視界と音を遮ってまで、移動先を伏せたいということなのか。
「面白いわね、まるでテレビのバラエティー番組みたい」
そう言って玲子は僕に笑いかけた。少し怖いと思っていた自分が恥ずかしく、照れくさかった。
四十分くらい走ったのだろうか。降りてください、と言われて外に出ると、どこかの建物の地下駐車場のようだった。
暑かったはずの外気は感じられずひんやりとしていた。作業服の男に促され、僕と玲子はエレベーターに乗った。作業服の男がカードキーのようなものを操作板の穴に差し込み、階数表示のない白いボタンを押した。
エレベーターは少し上昇し停止した。
到着したのは小さなホールだ。先に廊下が伸びていて、片側に扉が並んでいた。
ホールに隣接してラウンジがあり、テーブルと椅子、自動給茶器、大型テレビなどがあった。僕たちは作業服の男に連れられて廊下を進んだ。男は扉を指し、ここが宿泊する部屋です、と言った。僕と玲子はそれぞれ一部屋を与えられた。
玲子ともう少し話したかったが、作業服の男は、それぞれの部屋に入って指示を待つように、と言い残して去っていってしまった。
僕たちはそれぞれの部屋に入った。風呂、トイレ、洗面所、クローゼット、テレビ、ベッドなどがある。部屋にも廊下にもどこにも窓はなかった。
まもなく電話が鳴った。
電話の声の主は女性のようだった。この階にあるライブラリ、スポーツジムなどの設備は自由に使ってよいということ、食事はルームサービスを電話で頼めばよいということ、次に呼び出すのは十四時ころになることなどが説明された。
僕は携帯電話を取り出して、現在の位置情報を検索した。GPSはなぜか機能しなかった。
とりあえず僕は部屋を出てラウンジへ向かった。エレベーターの脇にボタンはあるが、押しても反応しなかった。おそらくカードキーが必要なのだろう。
ラウンジの一角には飲み物の自動供給機があり、コーヒー、ジュース、緑茶など、たいていなんでも飲めるようになっていた。ライブラリにはちょっとしたスペースがとられていて、文庫本、コミック、映画やドラマのDVDなどは、漫画喫茶並みとはいかないが、不満がない程度には揃っていた。少し奥まった小部屋にドラム式の洗濯機が二台あった。
ラウンジに隣接した『トレーニングジム』と書かれた扉を開けると、ルームランナーやサイクリングマシン、腹筋台などがあり、ダンベルやヨガマットなども自由に使えるようになっていた。ここにもやはり窓はなかった。
僕は来た道を戻り、僕らの宿泊室がある廊下をさらに奥へ進んでみた。宿泊室は全部で八つあった。廊下の突き当りは『非常階段』と書かれた鉄の扉になっていて、押しても引いても動かなかった。消防法違反じゃないのか、と僕は心の中で文句を言った。
どうやら僕たちはこの階に閉じ込められたらしい。
仕方がないので、ライブラリで適当に雑誌を選び、部屋に戻った。ルームサービスでサンドイッチセットを注文した。
十四時の五分前になり、部屋をノックする音が聞こえた。
扉の向こうにいたのは、さっき僕らをここまで連れてきた作業服の男性だった。
「五号室の遠藤さん、案内しますのでいらして下さい」と男は言った。部屋のカードキーには、確かにナンバー5と書かれていた。
僕は作業服の男と一緒にエレベータに乗った。男の作業服の胸に、『桜木』という名札がついていた。僕らの乗った箱は、今度はすこし下に降りて止まった。
タイル張りの廊下を、僕と桜木氏の歩く足音だけが響いていた。先にはいくつかの扉が見えるだけだった。
「第五」とだけ書かれた扉を開け、中に入ると、病院の診察室のようになっていた。着替えて待っていてください、と言い残し桜木氏は去って行った。
そう広い部屋ではない。おそらく四畳半程度であろう。
見回すと、歯医者の診察台のようなリクライニングチェアが一つ中央にあり、頭のほうから可動式のアームが伸びて、先端にライトがくっついていた。傍らにある何かわからない計器類に、真っ暗なモニターがつながれている。この小さな部屋に対してやけに立派なエアコンがついている。壁は側面の一方が鏡張りになっていた。マジックミラーかもしれない。
足元のかごに、人間ドックの時に着るような浴衣状の着物があった。僕はジーンズとシャツを脱ぎ捨てて無造作にかごに放り込んだ。
「五号室の遠藤君、お待たせいたしました」
いつのまにか背後の扉が開いていて、白衣の中年女性が立っていた。僕はまだ浴衣を羽織りかけていたところだったので、あわてて上着の前を合わせてひもを結んだ。
「あなたを担当する鳴海といいます。私のことはドクターと呼んでください」
白衣の女性は感情のこもっていない平坦な口調で言った。医師か博士なのか。このアルバイトはよくわからないことばかりだ。
どうやらこれは国家権力が絡んだ極秘実験に違いない、と僕は考えた。妙なことをしたら消される、ってことまではないと願いたい。何かしらの臓器を一個とられるとかいうのも勘弁して頂きたい。
少なくともここは日本だから大丈夫だとは思うが。
「そこに座ってください」
僕は診察台のような椅子に座った。ドクター鳴海が手元のスイッチを操作すると、腰から足の部分が持ち上がり、僕は仰向けに寝る恰好になった。
「痛かったり苦しかったら言ってください」
ドクター鳴海は言いながら、僕の胸に吸盤をいくつかくっつけた。そのあと、僕の両腕をアームカバーのようなもので覆い、マジックテープで止めた。両脚も同じように固定された。
「拘束するためのものではありません。外そうと思えば自力で脱出できますが、外れるとアラームが鳴るので、極力試さないようにおねがいします」
僕はさすがに不安になってきて訊ねた。
「あの、危険な実験なんですか。僕は何も聞いていなくて」
「身体への影響は全く無いと考えていますが、多少の精神的疲労は考えられます。万が一実験中になんらかの異変があれば、すぐに中止します」
僕は右手に、プラスチックの小さな押しボタンを握らされた。
僕の頭を薄いフルフェイスのヘルメットのようなものが覆った。耳にヘッドフォンのようなものが押し付けられた。視界は暗くなり何も見えず、外の音も聞こえない。何かもうちょっと説明があってもいいんじゃないのかと僕は思った。
耳元でピーッと小さな電子音が鳴り、続いて人の声が聞こえた。
『遠藤君、聞こえましたら手元のボタンを一回押してください』
ドクター鳴海の声のようだ。僕はボタンを押した。
またピーッと鳴った。
『聞こえていますね。そのまま楽にしてください。なるべく力を抜いてください』
ヘッドフォンからクラシック音楽が聞こえてきた。電話の保留音みたいだと思った。
僕は少し眠くなった。
思えば、昨夜は緊張と暑さのせいかあまり眠っていなかった。この部屋は適度に涼しく、リクライニングチェアも寝心地が良かった。手足の締め付けも不快ではない。今の僕は相当無防備だろう。
そういえば、瀬戸玲子はいまごろどうしているだろうか。下心のある男性ドクターにつかまっていなければよいのだが。
ピーッと音が聞こえた。
少しうとうとしていたのだろうか、意識が途切れていた。ほんの数秒のようでもあり、半日眠ったようでもあった。失見当識に陥った僕は、あわてて顔を上げようとしたが、拘束されているためか金縛りのように動かなかった。
『聞こえますか、ボタンを一回押してください』
そうだ。右手のボタン。僕は一回押した。
『では、右腕を持ち上げることができますか? ゆっくり』
腕はカバーで覆われた上に固定されてるんじゃなかったのか。僕は不思議に思いながらもゆっくりと右手を引き上げた。カバーはいつのまにか取り除かれていたのか、抵抗なく上がった。
『ゆっくり下ろして。左腕を上げることはできますか』
今度は左か。これも上がった。
次は右脚、左脚、と続き、両手を一緒に上げたり、両足を上げたりした。
『では、力を抜いて楽にしてください』
また音楽が聞こえてきた。僕は再び眠くなった。
気づいたら視界が明るくなっていた。顔を覆っていたカバーは取り外され、ドクター鳴海が僕の手足のマジックテープを剥がしにかかっていたところだった。
「今日は終わりです、部屋に戻って自由に過ごしてください」とドクターは言った。
僕はあっさり解放され、着替えているうちに桜木氏が迎えにきてくれた。
彼はカードキーを使ってエレベーターを操作し、ホール前のラウンジまで僕を送り届けてくれた。
壁掛けのアナログ時計を見ると、十六時を少し回ったところだった。
いや、ここからは外の様子が全くわからない。まさか翌朝の四時ってことはないよな――と僕は考えたが、ライブラリに先客がいたことで、おそらく明け方ってことはないだろうと推測した。
先客はDVDコーナーを物色していた。背が高くてがっしりした体格の男で、中年にさしかかっているように見える。かなり金髪に近いくらいの茶髪で、肌は日焼けしていた。
彼がいることを知っていたら、僕はライブラリに足を踏み入れなかったに違いない。茶髪の男は僕のほうをちらりと見てから、またDVDを選びはじめた。僕はなるべく男から離れた棚に行き、DVDを適当に三本ほど選んで、そそくさと立ち去った。
部屋に戻るとき、玲子のいる部屋の前を通ったが、扉が開くことはなかった。
ルームサービスで頼んだ煮魚定食を食べたあと、シャワーを浴びて、借りてきたSF映画を観た。さっぱり眠くならなかった。ジムで少し運動したほうがいいのかとも考えたが、面倒くさかった。
寝床に入ったのは深夜だった。