絵夢 (2)
次の週の木曜日、僕とエミューはペンデュラムで会った。大雪のため交通が麻痺し、エミューのほうは三十分の遅れだった。とても寒い日で、僕は少し喉が痛かった。
僕はエミューから、描いたイラストが収められたクリアーファイルを預かった。エミューは乗り継ぎのバスまで時間がないということで、お茶の一杯も頼まずに去って行った。小夜子は用事ができて来られないというので、僕はコーヒーを飲みながらファイルを見てみることにした。今夜の放送で紹介する絵を選ぶつもりだった。
エミューは、どれでも好きな絵を使ってください、ただし、どの絵もあまり長時間見つめないほうがいいと思います、と言い残していた。
僕はクリアーファイルを手に取ってめくってみた。
一番最初のポケットに収められていた絵は、青空の下を一人歩く旅人に見えた。二番目の絵は、椅子に腰かける威風堂々たる王様のような男。枠の外に「Ⅰ」という番号が振ってある。三番目には、書物を手にした知的そうな女性の絵。「Ⅱ」という番号が書かれている。その次は、豪華な身なりをしたふくよかな女性の絵。「Ⅲ」と書かれている。
――そうか。これはタロットカードをモチーフに描かれているんだ。タロットカードのゼロ番に位置するのは「愚者」、一番が「皇帝」、二番が「女教皇」、三番が「女帝」である。
僕は最初のポケットにあった孤独な旅人の絵をもう一度見たが、あるはずの「0」の番号はどこにも書かれていない。ゼロ番の愚者は元々番号を持っていなかったという説もあるから、これはこれで正しいのだが。
僕は順番にファイルをめくっていった。絵柄の並び順は、現在僕たちが入手できるタロットのなかでも、主流となっているウエイト版というデッキを参考にしているようだった。十二番目には、木の枝から逆さづりにされた男の絵。Ⅻと書かれている。
その次の十三番目の絵は全体的に重苦しい濃紺と黒と灰色で描かれていて、番号はなかった。
僕はエミューから預かったファイルを、雪で濡らさないようにビニル袋に入れ、脇に抱えて帰路についた。すこし寒気がした。
帰宅すると、僕の部屋はすっかり冷え切っていた。真っ先にファンヒーターのスイッチを入れる。
部屋が暖まるのも待たず、僕はエミューの十三番目に置かれていた絵を抜き取り、パソコンに取り込むためにスキャンした。モニターに映し出されたその絵は際立って陰鬱だ。黒い棺のような箱が置かれてあり、魂のようなもやもやした筋がその上に立ちのぼっている。棺の前には、突っ伏して泣き崩れているように見える髪の長い少女。高い窓から差すわずかな光でかろうじて浮かび上がるその光景は、まさに絶望。
タロットカードの十三番は「DEATH」、つまり死。このカードも元々番号が与えられていないという説がある。最も有名なデザインは、骸骨騎士が大鎌を構えているものだ。
エミューが典型的モチーフに従っていなくても不思議はない。
例えば、若い女性が恋占いをするとき、そんな一目で不吉だとわかるカードが出たら、見ただけでショックを受ける。大抵の人は最悪のほうに考えてしまうだろう。そこで近年アレンジされたデッキでは、骸骨騎士が描かれず、直接的な死のイメージを避けたものが多数ある。「DEATH」という表記そのものが別な語句に変えられていることもある。
僕のパソコンでは、放送中にワンタッチで画像ファイルを直接映し出すように切り替えることができる。視聴者から投稿された写真やイラストを紹介するためだ。今はDEATHの画像が映し出されているが、視聴者のみんなに見せるのは、もっと希望を与えられるような「星」のカードあたりが良いかもしれない。それとも、前途洋々たる「太陽」か、奇跡を意味する「審判」が良いだろうか?
僕は頬杖をついてぱらぱらとファイルをめくり、絵を見比べていた。
時計を見るとまだ十九時半だ。生放送まではまだ時間がある。
喉の痛みが増してきた。僕は風邪薬の瓶を探した。
すこし眠ってしまったのだろうか。
携帯電話が青くチカチカと光り、夏希からのメールが受信されたことを伝えていた。
重い腕を伸ばして電話を手に取る。
『何か月待っても、あなたは貸したお金を返してくれませんでしたね。定職に就いた様子もなければ、必死に就職活動をしている気配もありません。信じて待つのも疲れました。もう私からは連絡いたしません』
二度読み返して、振られたのだと気がついた。
夏希。元々はスバルのファンとして知り合った。名前の通り夏生まれで、そのくせ冷え性で僕はいつも彼女の手を暖めてやっていたっけ。
――おかしい。こんなことは前にもあった。これは夢なのか。
僕はいつのまにかペンデュラムのカウンターにいる。
「それって、振られたって言わないんじゃない?」
小夜子が黒いフリルのドレス姿で、ブラッディ―マリーを飲んでいる。マスターはサングラスをかけていて表情が見えない。
「どうして」
「『私からは連絡しない』ってことは、ワタルからの連絡はまだ通るかもしれないってことでしょ。ワタルがアルバイトするなりなんなりして、夏希さんからの借金を耳揃えて返して、僕は心を入れ替えて真面目にやりますから正式にお付き合い願います、って頭を下げれば、まだ脈ありって気もするんだけど?」
「しかし、今すぐに二十万なんて出来ないし……。いや、そのくらいの金額なら、消費者金融を使えばいいのか? 無職でも審査通るかな? そうだ、小夜子、オジサンたちで稼いでるんだろ? 儲かってるなら貸してくれよ」
「そうやって女から借りて女に返すなんてことしてるうちは、だめね。問題は、誠意を見せるってこと。たとえ今すぐ返済できなくても、できることはあると思うけど」
小夜子は足を組み換えた。太腿にガーターベルトが覗いていた。
先週、そんな会話をした記憶があるが、小夜子はそんな恰好をしていただろうか? そうか、やっぱり夢なのだ、と僕は思った。
夏希に三下り半されたことは事実だ。
だが、心を決して夏希に告白するという意気地が僕にはなかった。僕は、いままでありがとう本当に楽しかった決して忘れないよ君は素敵だからきっと幸せになれる、とかいう最低なメールを最後に送り、それ以来夏希には連絡しなかった。夏希のために一遍の詩を書いて放送したが、今思えば免罪符にさえもならなかった。ただの自己陶酔だった。
小夜子の言うように、僕はまだ振られていなかったのかもしれない。夏希からの試練だったのだ。それも、借りた金を返すというごく当たり前の。僕は心の底では気づいていながら、振られたんだ、もう終わったんだと思い続けた。
気づいていないふりをしていれば、責任から逃れられるんじゃないか。そう思っていたんだ。僕は卑怯だ。そして今も。
僕はさっき、風邪薬を焼酎で飲んでベッドで横になった。今日は木曜で、眠った時間は十九時半だった。ただの仮眠のつもりだった。目覚ましのアラームさえ正しくセットしていれば、生放送に間に合うように起きられる。
でも僕はアラームなんてセットしただろうか?
眠る前、放送用のパソコンにはDEATHのイラストが映し出されたままだった。
そして、たとえ僕が何の操作もしなくても、回線接続とともに自動的に放送が始まるようにしてある。もしも僕が寝過ごしてしまって、DEATHを放送画面に表示させたまま、二十三時を迎えたとしたら?
頭が重い。体はベッドに張り付いたまま動かない。
どこか遠くから携帯電話の着信音がする。
アパートのドアを誰かが開けた。僕は施錠していなかったのだろうか。
血相変えて部屋に駆け込んできたのは小夜子で、ぐったりした僕を見ると言葉にならない声をあげた。なにやってるのよ起きて! 放送を止めるのよ! とかなんとか叫んでいた。体がひどく気怠くて動けない。吐き気がする。はやくこっちに来て、止め方を教えなさい、と、小夜子は僕を無理やり引きずっていこうとしたが、非力な女性にそれはできなかった。
小夜子の携帯が鳴った。小夜子は電話の相手と何か話しながら、放送制御用のパソコンをいじっているようだ。電話の相手はエミューのようで、しばらくの格闘の末、放送回線の切断に成功していた。
小夜子は僕に水を持ってきて飲めと言った。僕はなんとか頭だけ起こして飲み込んだ。
「動ける? 動けないなら救急車呼ぶわよ」
それはまずい。僕はこのアパートには一人で暮らしているが、すぐ近くに大家でもある両親が住んでいる。こんな不祥事を起こしては、実家に無理やり戻されるかもしれない。
「起きる、大丈夫だ」
僕は上体を起こした。胸のあたりがむかむかして我慢ができない。僕は這いつくばってなんとかトイレにたどり着いた。胃の中のものを吐き出して水を勢いよく流したが、まだ気持ち悪さは消えなかった。立ち上がれず僕は尻をついて座り込んでしまった。天井と壁がぐるぐる回る。
どうせもう全部終わりだ。呪いの放送を行ってしまったスバルの番組も、僕と、夏希、エミュー、そして小夜子との関係も。ペンデュラムにも行けなくなるかもしれない。
ある物事の死、終焉――それこそが、DEATHのカードの意味するところだ。人の死を暗示するとは限らない。僕はいつのまにか鼻水を流しながら泣いていた。よく覚えていないが、小夜子に向かっていろいろなことをわめき続けた。
小夜子が呼んでくれたタクシーに乗せられ、僕は救急病院へ行った。
命に別状はなかった。僕は、酔った勢いで、誤って酒で風邪薬を服用したのだろうということになっていた。
その夜の出来事は、伝説の放送事故と後に呼ばれることになった。
「スバルさん本当にごめんなさい、こんなことになるなんて、全部わたしのせいです」
小夜子に連れられて病室にやってきたエミューは、深々と頭を下げた。僕の具合は大して悪くはなかったが、大事をとって入院していた。血液検査の結果次第ですぐに退院できるだろう。
「エミュちゃんは悪くないのよ。ワタルが勝手に馬鹿やっただけ」
「でも……。十三番、十五番、十六番は、特に凝視しないように、と説明しなかったのはわたしです。小夜子さんにも、とんでもないご迷惑をおかけしました」
エミューは小夜子にもぺこぺこお辞儀した。
「いや、エミューは本当に悪くないんだよ。僕もタロットカードの意味がわかるから、注意するべきだったんだ。わかっちゃいたけれど、棺の前で泣く女の子の絵が妙に気になって、ついじっくり見てしまったのさ」
僕は、エミューの絵を視聴者に紹介することしか考えていなかったが、まっ先に自分が絵を目にするのだということに、注意を払う必要があったのだ。
そのせいなのか分からないが、僕の勝手な破滅願望が暴走して、おそらく多くの視聴者たちがあのDEATHの絵を見てしまったことは確かだ。僕の責任だ。
いまごろみんなどうなっているだろうか。
「棺――? ああ、あれは違います」
「えっ?」
僕と小夜子は顔を見合わせた。反応からいって、小夜子もそう思っていたのだろう。
「十三番のカードを描くとき、死神のイメージは避けたかったので、別のモチーフを使おうと考えたんです。かといって自分で一から考え出すことは難しかったし、欠番にもしておけないので、パンドラの箱の神話を題材にして描いて、ひとまず十三番におさめました」
棺とか死神という言葉が出たので、小夜子は慌てて仕切りカーテンから顔を出して外を見渡した。幸いなことに、同じ病室の中には他の患者はいなかった。僕もほっとした。一瞬遅れて気づいたエミューが、あっすみません、とまた頭を下げた。
パンドラの箱。プロメテウスの家に伝わる絶対に開けてはいけない箱を、美女パンドラが開けたことによって、世界には災いや悲しみがあふれ出したという寓話。僕が棺の前で泣く少女だと思っていたのは、禁断の箱を開けてしまって後悔するパンドラの姿だったということだ。
パンドラの箱についての一番有名な解釈は、箱の中から災いがあふれ出した後の最後に希望が残っていたというものだ。そういえば、棺桶だと思っていた箱の中には、かすかに清らかな光が描かれていたような気もする。
本当に人を救えるのは、むしろエミューのほうだ。
僕はたぶん愛で人を救っているような気になっていたんだ。栞のことも、夏希のことも。鳩にポップコーンをばらまくように簡単に。
木曜日の二十三時五分。放送開始。
僕は化粧もせず髪も黒いままでスタジオに座っていた。音楽もなかった。
まず僕は深々と頭を下げた。
「こんばんは。僕がスバルです。いつもとかなり姿かたちが違いますが、今日は謝罪と説明のためこのような形でお目にかかります。
先週の放送に驚かれた皆様も多いと思います。たいへん申し訳ありませんでした。僕のミスにより、僕のライブラリの中の、ある一枚のイラストが画面に表示されたままになっていました。しかも、僕は急病によりその後の操作ができない状態にありました」
正直に未必の故意であったなどと言ったところで、誰も幸せにならない。そういう嘘ならやむを得ない、と小夜子は言っていた。
「そのイラストですが、多くの皆様の推察通り、エミューからお借りしていたものです。しかし、この件についてエミューには何の責任もありません。
絵のタイトルは『パンドラの箱』だということです。僕はこの悲しくも美しい雰囲気に惹かれ――もちろん、皆様の前に公開するつもりはありませんでしたが、個人的に鑑賞していたところ、突然体調を崩しました。
この絵について、エミューからは取扱いと鑑賞に充分に注意するよう言われておりましたが、正直なところ僕は半信半疑でした。エミューの絵を甘く見ていたのだと思います。繰り返しますが、僕自身の責任です。
さて、放送の後、皆様からさまざまなご報告をいただきました。
夢の中で大切な方を失い、それが現実であるかのような悲しみに襲われたという方。
三晩にわたって悪夢に苦しんだという方。
周囲の友人が突然去って行ってしまったという方。
恋人と別れてしまったという方もいらっしゃいましたね。
責任はすべて僕にあります。もう取り返せないこともあったでしょう。
申し訳ありません。
せめてもの償いとして、エミューからお借りした絵の中でも希望に満ちたものを、この後の放送でいくつかご紹介するつもりです。
今日とおなじ内容の放送を来週にも行います。そのあとは、長いお休みをいただくつもりでおります。皆さま、たいへんご迷惑をおかけいたしました。そして、ありがとうございました」
僕はふたたび深く頭を下げた。
そのあとは静かな音楽を流して、エミューの絵をゆっくり時間をかけて、順番に映し出した。いずれも、エミューと一緒に選んだ、明るく清らかな絵ばかりだった。
結局、実質的な苦情は皆無だった。
三日間悪夢が続いた人は、四日目に美しい夜明けの夢をみて、行き詰っていた仕事がうまくいくようになったという。
周囲の友人が去ったという人は、友人だと思っていた仲間たちが、都合のよいときだけ金を貸してくれとか名前を貸してくれとかと言い寄ってきていたのだと気づいた。
恋人と別れたという若い女性は、悪い男とやっと別れることができたのだ、と晴れ晴れとした気分になったという。
エミューの絵をあらためてきちんと紹介したこともあり、僕のところにはむしろ感謝のメールが殺到していた。放送をやめないでくれという激励もたくさんもらった。でも、僕はもう放送を再開するつもりはなかった。
僕と小夜子がいくらすすめても、エミューがその正体をカメラの前で明かすことはなかった。夢枕のエミューは再び伝説となった。
今日はクリスマスイブだ。
世間の波になど乗らないよ、と普段は言っているマスターでさえも、カウンターに小さなクリスマスツリーを飾っていた。これは北欧の長い冬を越すための風習なんだから、北国のわたしたちが真似してもバチは当たらないのだ、とマスターは言い訳していた。そもそも、誰も冷やかしたりしていないのに。
僕はペンデュラムのカウンターにいた。小夜子もいた。
「エミュー最近来ないな」
「このあいだメールしたら、喫茶店への立ち入りは校則で禁止されているから、しばらく行かないようにするんですって」
「そっか。そんな校則、僕の高校時代にあったかなあ?」
「あたしの学校ではあったわよ。生徒手帳に書いてあったわ。どこもそうじゃないの? ねえマスター」
僕の時代にはそれが普通だったよ、と言いながら、マスターは僕らにコーヒーを運んできてくれた。僕はろくに校則なんて読んだことがなかった。
明後日の朝には、街はクリスマスの飾りつけから一転して、年越しムード一色になることだろう。それでも、このペンデュラムの雰囲気は、いつ来ても変わらないなと僕は思っていた。
手のひらに乗るような、申し訳程度のツリーが置いてあるけれど、これがミニ門松に換わっているかどうかを、年が明けたらまた確かめに来よう。コーヒーを飲みながら僕はそう思った。