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栞 (2)

 正直なところ、僕が小夜子に撮影助手を頼んだのは、僕一人では撮影ができないからというわけではない。リブニールに僕は興味と同時に不安も感じていた。試験段階からいろいろあったと言うし、実際には何が起こるかわからない。

 もしかしたら、薬を服用した途端に栞がワームホールに飲み込まれ、僕も巻き込まれてしまうのではないかという馬鹿げた想像が頭を離れなかった。小夜子がいれば、僕の手を引っ張ってこっちの世界に戻してくれるかもしれない。いや、たかが小瓶の薬がそんなエネルギーを内包しているわけがないし、本当にワームホールなるものが発生してしまったら、手を引いて戻すという次元の話ではないだろう。

 が、とにかく一人よりは二人のほうが安心だ。小夜子にそのへんを説明しなかったのは悪いと思うけれど。

 親父から借りた車にパソコンとカメラを二台ずつ、それに延長ケーブルなどを積み込んだ。車を借りに行ったとき、就職活動はどうしたんだとか色々な小言を言われたが、なんとかごまかした。ナビゲーションシステムに走行ログが残らないよう設定し、車を発進させた。

 空は灰色の雲に隙間なく覆われていた。風が街路樹の落ち葉を巻き上げている。道ゆく人々はみなコートやブルゾンを羽織り、マフラーを首に巻いたりしている。あとひと月もしないうちに、この北の街には初雪が降るだろう。

 待ち合わせ場所のコンビニで小夜子を車に乗せた。秋物のショートパンツに模様編みのタイツという行動的な恰好が似合っている。待ち時間に買ったという温かいブラックコーヒーの缶を僕にくれ、自分はペットボトルの紅茶を飲んでいた。

 栞のアパートまでは十五分とかからずに到着し、約束の時間よりは早かったので、近くに車を止めて時間稼ぎをすることにした。小夜子とはペンデュラムのカウンターでよく隣に座るが、車の中で二人きりとなると少し落ち着かない気持ちがした。僕は機材のチェックをするふりをしようと、ビデオカメラを手に取った。

「ねえ」

 小夜子が神妙な顔で言う。

「考えてたんだけど、寄せ鍋と宅配ピザの話あったじゃない? あれってどうして、寄せ鍋の世界じゃなくて、宅配ビザの世界が生き残ったのかしらね?」

 確かに僕も少し気になっていた。

 親殺しが倫理的にも因果律的にもまずいというのはわかる話だが、寄せ鍋と宅配ピザはどういう基準で比較され審査されたのだろうか。そのへんは確率的にも五分五分で、たまたまピザが残ったというだけのことか。

 だとしたら、僕たちが悩んだって仕方のない話だ。きっと神はサイコロを振るのだ。僕はそれ以上考えるのをやめていた。無意識に避けていたというべきか。でもいま小夜子が口に出してしまったことで、僕は自覚してしまった。

 この問題を考えるたび、頭の中に警告信号がちらつく。

 不安げに小夜子が言う。

「もしも、あたしたちの前に並行世界が現れたら?」

「世界は選択されて、すぐひとつになるさ」

 約束の時間の五分前になった。

 あらかじめ栞に確認してあった駐車場に車を停め、僕たちは機材を持って車を出た。

 延長コードやアダプターが入った袋を抱えて、小夜子が言った。

「ワタル、昨日の夜、なに食べた?」

「僕はカルボナーラ。冷凍食品の」

「おぼえとく。あたしはペンデュラムの茄子ミートドリアだからね」

 またそれかよ、と僕は笑った。不安が少し薄らいだような気がした。


 事前に話してあったこととはいえ、栞は初対面の小夜子の前で少しぎくしゃくしていた。小夜子に比べて人見知りなのだ。僕たちにお茶を出す手がすこし震えていた。

 小夜子は、いつもの調子であっけらかんとしていた。その明るさのおかげか、僕が機材のセッティングをしている間に、女同士で世間話などをしていて、すぐに打ち解けたように見えた。

「栞さんは、昔に戻れたら何がしたいんですか?」

「これを」

 小夜子が訊ねると、栞は透明の液体が入った瓶とスポイトをテーブルの上に置いた。僕はモニターをチェックしながら横目で見ていた。

「これは、最近出たばかりのアトピー性皮膚炎の治療薬なの。一か月ごとに二、三回に分けてなめるだけで効くそうよ。今回は一回ぶんしかチャンスがないだろうから、どれだけ効果があるか分からないけれどね。わたし、中学の頃、アトピーがひどくて男の子にいじめられていたの。そのことが今でも忘れられない。もしその過去が少しでも変われば、いまのわたしもちょっぴりは変わるかしら、と思うのよ。おかしいかしら」

「おかしくないです。こんな美人になる女の子をいじめるなんてひどいわ。薬が効くといいですね」

 小夜子の励ましに栞も笑顔で応えていた。

 いままで栞は、若返りたい理由は内緒だと言って明かしてくれなかったが、そういうことなら言ってくれても良かったのにと思った。僕は知らなかったが、ずいぶんいい薬が出来ていたものだ。同じ女性の小夜子には話しやすかったのかもしれない。

 リブニールには睡眠薬も含まれているため、服用した本人は、若返っている間眠りっぱなしになる。栞は小夜子に、自分が若返っている間の投薬をお願いしていた。スポイトで口の中に数滴垂らせばよいだけだったが、僕よりは女性の小夜子がしたほうがよいだろう。

 小夜子に来てもらって良かったと思った。

 機材を置く場所を確保するのに悩んでいると、栞がやってきて、邪魔をしている小物や洗濯物などをブルドーザーのように押しのけ始めた。カメラに映りそうな範囲の邪魔なものも、片っ端から放り投げて部屋の隅に積み上げた。見た目によらず雑な片付け方である。

 そうこうしているうちに、機材の準備が整った。

 こんなめったにないチャンスを逃してはいけないので、カメラとモニターは二台ずつ準備してある。それぞれをパソコンのモニターで確認できるようにした。

 いよいよ撮影するだけになった。

 僕は栞を呼んで、カメラの後方に引き下がった。

 二台のカメラに録画を開始させる。モニターで確認すると、二台ともちゃんと、ソファーに座る栞の姿を映している。小夜子が栞にコップの水を差し出した。

 栞はリブニールの瓶を開けて、二、三錠を取り出して口に入れ水で流しこんだ。

 二度、三度……。多量に飲むほど遡行できる年月は長くなる。

 栞は瓶のふたを閉めて、サイドテーブルに置いた。そして、袖口から何かを取り出して、それを残った水で一気に飲み干した。栞はソファに体をあずけ、コップを床に転がした。

 栞は微笑んで、赤い蓋の小瓶をつまみ上げて見せた。

 あれはリブニールの瓶ではない。

 何かおかしい。僕は硬直した。ざわっと鳥肌が立つ。

「ごめんね。本当の目的は、過去ごとわたしは消えたかったということなの。いまのわたしのまま死んだって、苦しくて悲しかった事実は消えないわ。なんか人生大損した気分よ。子供のころに死んでおけばよかった、って何度思ったことか――」

 僕より小夜子が一瞬早く反応した。赤い蓋の小瓶を奪い取る。

「毒よ!」

 小夜子は振り向いて叫んだ。

「吐かせろ!」

 僕は携帯電話を取り出した。「いま救急車を――」言いかけて言葉が止まる。僕が見たのは、目の前の空っぽのソファー。栞はいなかった。

「そんな!」

 小夜子の悲痛な声が響く。

 僕の頭は真っ白になり、呼吸は速くなった。

「どういうことだ、どういう――」僕はただ繰り返した。

 栞は、若返る薬――実際には過去にタイムスリップする薬、を飲み、次に毒薬を飲んだ。

 次の瞬間、栞は消えた。

 何が起こったのか、答えはひとつしかない。

「ちくしょう! どこだ!」

 手遅れだと、どこかで思っていた。でも、僕はソファをひっくり返し、バスルームやトイレやクローゼットの扉を手あたり次第に開けまくった。栞はどこにもいない。

「ワタル、来て!」

 僕は小夜子の声でリビングに戻った。

「これ見て……」

 小夜子が指していたのは録画中の映像を映したパソコンのモニターだった。「こっちも」もう一台のパソコンの画面と見比べて、僕は立ちすくんだ。

「どういうことだ!?」

 一台目のモニターには、転がった空っぽのソファーだけが映っている。

 二台目のモニターには、ソファーの上で横たわり静かに眠る少女が映っている。

 僕と小夜子は同時に顔を見合わせた。

「並行世界だ……」

 僕は無意識に口にしていた。

「一体どうなるの?」

 小夜子が真っ青な顔で聞く。

「運命のどちらかは破棄される」

 僕は奥歯を噛みしめた。

 まだわずかに望みはある。少女の栞が生きている世界が残れば、毒薬は効かなかったことになって現在に戻ってくるかもしれない。

 しかし状況は厳しい。僕たちがいるこの部屋に栞の姿はないからだ。優勢なのは栞が消えた世界。栞が生きている世界はそれよりも"薄い"。

――栞、教えてくれ、どうすれば君をこっちに連れてこられるんだ?

 僕はモニターの中の眠れる少女に向かって問いかけた。僕の手は汗だらけだ。少女はうわごとにつぶやいた。かすかな声だけれど妙にはっきり聞き取れた。

『おかあさん、許して』

 僕は閃光のようにひらめいた。

 助かるかもしれない。僕の直感が正しければ。


――わたし、子供のころ、一度死のうとしたことがあるの。あのころは手首を切れば簡単に死ねるって思ってた。同じクラスの、わたしをいじめてくる男の子たちの名前を全員書いてから、剃刀を使って。

 でも、遺書を書いているのが母さんに見つかってしまって、すごく怒られたわ。こんな悪いいたずらをする子は大きらいだ、ってね。

 わたしは見捨てられたと思って大泣きしたわ。

 母さんは、あとから悪いことをしたって思ったみたいで、時々言っていたわ。もしかしたら、栞があのとき本当に死んでいたかも、って考えて、夜中に怖くなることがあるんだって。


 僕は、いつか栞がそう話していたことを思い出していた。自転車を全速力でこぎながら。


 並行世界が淘汰されるまで、どれほどの猶予があるというのか。一週間かもしれないし、一時間もないかもしれない。目下のところ、それは考えてもどうしようもない疑問だ。僕たちはできる限り急ぐことしかできなかった。

 僕は栞の自転車を無断で借用し、飛ばせるだけ飛ばして、住宅地の真っただ中のとある小さな食品店に転がり込んだ。以前に一度聞いたことがある、栞の実家だ。僕は息を切らしながら、店番をしている婦人にぶしつけに訊ねた。

「栞さんのお母さんですか」

 婦人は驚いた様子で、次には悲しそうな顔をした。

「栞の昔のお友達の方? 栞はもうずっと前に死ん――」

「もう言わないで! お母さんですね」

 僕は、戸惑っている栞の母さんの手を引っ張り、むりやり店の外へ連れ出した。

「とにかく一緒に来てください! 栞さんは助かるかもしれません」

 僕は、乗ってきた栞の自転車に二人乗りでアパートに戻るつもりだったが、その自転車がどこにもない。

 栞が生きている痕跡が消えていく。

 勝算が急速に薄らいでいくことを意味していた。僕はもう栞の顔をうまく思い出すことができない。記憶がなくなったら完全に終わりだ。

 時間がない。タクシーを呼ぼうと思ったその時、白いセダンが目の前に停まった。

「やっぱりこっちに来ていたのね!」

 運転していたのは小夜子。僕の親父の車を運転してペンデュラムへ行って、たった今戻ってきたのだ。僕は栞の母さんを車に押し込んで自分も後部座席に乗り込んだ。

「マスターに聞いてきたわ、鍋とピザの件。被験者だった男性は、その後ガールフレンドと婚約したらしいわ。もちろん家族の公認で」

「よし!」

 僕は拳を握りしめた。まだ終わっていない。小夜子は車を発進させた。僕が忘れかけているアパートへの道のりは、小夜子がまだ覚えているようだ。

「まあ、そちらのお嬢さんも、栞のお友達?」

 状況を把握できない栞の母さんは、一人で語り始めた。

「栞も生きていれば、あなたたちよりも少し年上になっていたのかしら。今頃はきっと結婚していて、孫の顔も見られたかもしれないのにね……」

 突然ブーンと低い耳鳴りがして、体が小刻みな地震のように揺さぶられた。栞の母さんがいる左腕の感覚がざわついている。

「まずい、あっちに引き込まれる!」

「しっかりして!」

 小夜子は右手でハンドルを握りながら左手で僕の手を取った。

 妙な揺れが収まり、痺れていた感覚が元に戻った。


 僕たちが大急ぎで部屋に戻ってくると、二台のパソコンのモニターは、まだ異なる二つの世界を映し出していた。しかし、少女の栞の姿は、ノイズが多くなって、前に見たときよりも薄くぼやけていた。

 部屋中が細かく震え、低いうなり声のような音が響いていた。ところどころ物が二重に見え、僕はあるはずのない何かで時々つまずいた。

 僕は栞の母さんを招き、モニターを見せた。

「栞、間違いないわ、栞だわ――」

 泣き崩れる栞の母さんに僕は話しかける。

「栞さんは、二十九歳のいまも生きています。僕たちは会って話しました。でも、お母さんが言うように、結婚をしたり子供を授かってはいません。まだ独身で、過去の傷を抱えて一人で苦しみながら生きています。そんな人生を歩んでいたらどう思いますか」

 祈るように小夜子は手を組み、目を閉じている。

「どんな人生でも、栞が生きているほうがいいに決まっているでしょう」

 栞の母さんは立ち上がって、部屋を見渡しながら呪文を唱えるように話し出した。

「そう――この部屋に栞は暮らしているのね。花柄の服、昔から好きだったわ」

 僕は栞の母さんに賭けるしかなかった。

「お母さん。ここで思い出しませんか? ほら、部屋を片付けに来たこととか!」

 そんな事実があるかどうか僕は知らない。緊急事態だ。鎌をかけさせてもらう。

「そうね、あの子お掃除が苦手で――、先月もここに来たような気がするわ、わたし、ここを片付けにね」

 よし、頼むからその方向で行ってくれ――僕は祈った。

「こんなに散らかってるから、相変わらず男っ気が全然なさそう。困った子ね。きっと昔いじめられたから、男の子が苦手なのよね。それでもあの子、一度も学校をずる休みしなかったの。根性のある子なの。だから、苦しくても一人でも、頑張って生きているのに違いないわ」

 次の瞬間、部屋ごと落下するような感覚に陥った。反射的に僕たちは頭を抱えてうずくまった。

 閃光で視界が真っ白になった、ような気がした。

 ぴったりした箱に、すとんと収まったかのように、すべての輪郭がくっきりになった。

 振動が止まっていた。

 僕は恐る恐る顔を上げた。

 ソファーには栞が倒れていた。

 僕らは栞に駆け寄った。反応がないが、呼吸はしている。よく眠っているだけのようにも見えた。栞の母さんは頬をさすって呼びかけていた。小夜子は救急車を呼んだ。

 僕は、赤い毒薬だった瓶を拾い上げた。それは赤いキャップの睡眠導入剤に変わっていた。


 カフェ・ペンデュラムのラストオーダーは、だいたい二十時過ぎくらいだ。マスターがその日の気分で決めている。僕は車を返しに行っていたせいで遅れたけれど、ぎりぎり間に合った。僕と小夜子の他に客はいなかった。

 マスターは看板の照明を消し、営業中の札を準備中に変えた。きょうはゆっくりしていっていいよ、と僕たちに言ってくれた。

「栞さんの容体は落ち着いたよ。病院には、睡眠薬を少し飲みすぎたって説明した。まだ眠っているけど、命に別状はないし、お母さんも付き添ってる」

 僕は、今日一日の出来事をマスターに説明し、そう締めくくった。ちなみに、マスターに聞いたところ、アトピー性皮膚炎の特効薬の話はでたらめだった。

「マスターが店の電話番号を公開してくれていたら、わざわざ車を飛ばさなくても済んだのに」

 頬杖をつき、ぐったりと疲れた様子の小夜子が言う。

「そうそう、ワタル君。どうしてわざわざあんなことを聞きによこしたんだい?」

「あー、もういいじゃないか」

 僕は面倒くさいのでごまかそうとしたたが、小夜子とマスターにしつこく問い詰められて説明する羽目になった。


 僕が小夜子に車を走らせてマスターに聞きに行かせたのは「被験者男性とガールフレンドの交際は、彼の家族から歓迎されていたのか?」ということだった。答えは「大賛成」。

 世界Aと世界Bが並行して発生している場合、どういう基準で取捨選択されるのか。僕はある仮説を立てていた。

 まず、出来事に関わった人数の多寡は関係がない。被験者男性が寄せ鍋を一緒に食べたのは両親と兄の三人。一方、宅配ピザを一緒に食べたのはガールフレンドただ一人。

 もし僕が因果律の神だったら、宅配ピザを食べた世界を消すほうが楽だ。被験者の彼は普段は自宅で食事をとるのが普通であったようだし、女友達の部屋でピザを食べるなんてことのほうがイレギュラーであるはずだ。関係者も少ないだろうから、消した場合の矛盾も少なくて済む。

 あるいは、突発性そのものが逆に強いエネルギーを持っているのかとも考えた。しかし、それも変な話だ。稀な出来事ほど生き残りやすいとすれば、並行世界が発生すればするほど未来は偏ったものとなっていく。確率の理論からいってそれはない。

 では誰が世界を選んだのか。

 因果律の神などいない。それは「本人と関係者たち」だ。

 被験者の彼の家族は、彼が昨日の食卓にいたかいないかについて、ざっくり言うと「どちらでもよかった」のだ。彼はガールフレンドと出かけていたのではないか、と調査員から聞かれた家族は、「むしろそちらのほうが良かった」と思った。息子は奥手で、彼女のひとりもできないというのを心配されていたそうだ。

 一方、当の本人は、昨夜の記憶が二通りあるので困惑していた。清水の舞台から飛び降りる覚悟でガールフレンドとの約束をとりつけたのに、「それが間違いだったなんてとんでもない」と思った。

 ガールフレンドのほうも、煮え切らない彼からのやっとのお誘いに喜んでいた。彼女もまた、「彼の誘いがなかったことになったら困る」と思った。

 ピザ屋だって、注文が一枚でも多いほうが良いに決まっている。

 これで満場一致だ。誰からも必要とされない世界は破棄された。


 栞の死を取り消すには、それに対する反対票を多く集めなくてはならない。僕と小夜子の二票だけではだめだった。もしかしたら、栞の死を受け入れている誰かがいるのではないか。それが彼女の母親だったとしたら?

 僕は栞の母さんをこっちに引き込んで、大きな一票を獲得することに賭けた。


「でも、マスターの答えが想像と違ってたらどうしてたの? マスターだって詳しい話を知らなかったかもしれないわ」

「直ちに別の仮説を考えなきゃいけなかった。どっちにしても、栞の母さんには来てもらうつもりだったけどね」

 僕の目の前に、マスターがほかほかと湯気のたつどんぶりを出してくれた。どうもさっきから香辛料の香りがすると思っていた。

「あれ、メニューにカレーうどんなんてなかったぞ」

 僕が不思議がっていると、マスターと小夜子がにやにや笑みを浮かべている。

「少し前から、小夜子ちゃんに試作品を食べてもらっていたんだ。内緒にしていて悪かったよ。男性の君よりは女性のほうが味に敏感かと思ってね。それに、たくさんは用意できなかったんだ」

 猫舌の小夜子よりは僕のほうが適任だったかもしれないのに、と不満はあったが、麺に絡むとろりとしたカレー味の出し汁の魅力には抗えなかった。思えば昼食抜きでずっと走り回っていたんだっけ。急に空腹感が襲ってきた。

「いただきます!」

 僕は熱々のうどんを勢いよくすすった。

「マスター、あたしもこれがいい」

「小夜子ちゃんにはホットサンドでも出そうかと思ってたんだ。昨夜もカレーうどん食べてもらったから、続いちゃうでしょ」

「え」

 僕は思わず小夜子を見た。

「ミートドリア食べたって言ってたくせに」

「そうだった?」

 小夜子はくすくす笑っていた。

 マスターが小夜子にも温かいどんぶりを出した。小夜子はうどんを一本ずつ箸でつまみ上げて食べている。やっぱりな、そんなんで味がわかるもんかい、と思ったら、なんだかおかしくて笑ってしまった。ひとが食べるところを見て笑うなんてひどい、と小夜子はふてくされた。

 あの二台のパソコンのうち、空のソファーを映していたほうの映像データは破損して再生できなくなっていた。もう一台のほうには映像が残っていたが、栞が無事退院してしばらく経ったら消去しようと思う。

 振り子時計が二十一時の鐘を打った。

 僕たちは三人してたわいもない雑談をして笑い合った。柔らかな灯りの下で、コーヒーカップが空になってからも話はまだ続いた。窓の外は青白い月とフォーマルハウトだけが光る静かな夜だった。 

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