栞 (1)
初投稿です。感想やご意見などを頂けたらうれしいです。
「わたし、三十歳の誕生日を迎える前に死のうと思っていたの。でもその前に、このお薬を持ってきて頂いてよかったわ」
栞は、僕が持ってきた白い錠剤入りの小瓶をしげしげと見ていた。
飲むと一時的に若返ることができるそれは販売禁止薬で、インターネット上では時々噂になっていたが、実際に手に入れるのには、ちょっとしたコネとまとまった金が必要だった。
見た目には何の変哲もない錠剤だ。栞は瓶をそこに置き、僕にコーヒーをすすめてくれた。
「あら、お砂糖とミルクを忘れちゃった」
栞は立ち上がり台所へ向かった。小花柄のスカートの裾とウェーブのかかった長い髪が揺れる。別に不細工ってわけではないし、むしろ美人だと僕は思うのに、どうして死にたいなんて思うのだろう。それにまだ二十九歳なら、人生これから先があるじゃないか。彼女より年下の僕が言うのもおかしな話だけれど。
栞がシュガーポットとポーションミルクを持ってきてくれたので、僕はミルクのほうだけ頂いてコーヒーに入れた。ほんとうはブラックコーヒーが好きなのだ。
さて、いつ切り出そうかと、僕は話のきっかけを探しつつ部屋の中を眺めていた。明るいグリーン地に野ばらの模様が入ったカーテン、恋愛小説が並んだ本棚、ブラシやドライヤーが置かれた小さなドレッサー。ごく普通の女の子の部屋だ。
しかし、部屋の一角には、マニアックなコミックとか心理学関係の本とか、おまじないに使う人形なんかが雑に積み上げられていた。たたみかけの洗濯物もある。たぶん、僕が来るというので、とりあえずすみっこに寄せたのだろう。片付けは苦手らしい。
僕の考えがちょっと横道にそれているうちに、栞のほうから口を開いた。
「それで、代金のことだけれど、ワタルさんに半分出して頂くなんて、やっぱりご迷惑だわ。いまは無理だけど、十二月まで待ってもらえたら……」
「迷惑だなんてとんでもない。先に僕が言い出したことです」
うつむく栞の言葉を僕は両手を振って遮った。
「でもわたしに、ワタルさんに言われたような――撮影のモデルなんてできるかしら」
「心配いりません」
被写体としてはじゅうぶん合格ですし、と僕は思ったが口には出さなかった。
カフェ・ペンデュラムは、駅の西口方面、さびれた旧商店街通りのビルの二階にある。看板は異常に目立たないけれども、ほぼ毎日、午前十一時になると人知れず営業を始めている。色白で眼鏡のマスターがひとりいて、いつも客は少ない。
その日の午後、僕と小夜子はカウンター席に並んで座っていた。
「若返りの薬?」
小夜子が呆れた顔で僕を見た。
「本当だって。ほらこれだよ」
僕が小瓶を取り出すと、小夜子は栞とおなじように白い錠剤を見つめ、その次には説明書なる紙を取り上げて読み始めた。
「『飲むと数時間の間だけ、肉体が若返ります』ですって」
「だからそう言ったろ」
僕はスパゲッティナポリタンをフォークに巻き付けながら答えた。
「『医師による厳重な管理の下で、使用法を厳守の上服用して下さい』だって。確かに、みんながビタミン剤みたいに勝手に飲んでたら大変だけど。でも、数時間だけ若返ったからって、なんの役に立つのかしら」
小夜子が説明書を指で挟んで、カウンターの中に向けてひらひらとかざした。
「マスターみて。冗談にしてはなかなかよく出来てるわ」
ちょっと待ってね小夜子ちゃん、と、奥のほうからマスターの声がした。ちょうど茄子のミートドリアが焼きあがったところで、マスターは両手にミトンをはめてオーブンから取り出しにかかっていた。
運ばれてきたミートドリアに、小夜子は粉チーズをたっぷりと乗せ、少しのタバスコを振りかけた。
「あたしこれが一番好きなの」
彼女はうれしそうに、焦げ目をちょっぴりずつ崩しにかかっている。猫舌なのに、小夜子はいつもそればかり食べている。カウンターに置き去りにされた説明書を僕はそっと回収した。
「これ、極秘に開発されて一般に出回ってない薬なんだよ。試験段階でいろいろ問題があったらしくてさ」
「ふーん、それで?」
明らかにいい加減な相づちだ。
「これの噂を知って、欲しいっていう知り合いがいてさ。僕があるルートで入手に成功した。それに、代金は僕が半分出した」
「本当? あんたが人のためにお金を払ったなんて!」
小夜子は今日のうちで一番驚いて、僕はがっかりしたが、話が逸れてはいけない。
「いったん置いておこう。そのかわり、僕は彼女が若返るところから、また元の年齢に戻るであろうところまでを、動画で撮影させてもらうことにした」
「知り合いってやっぱり女だったのね」
小夜子がため息をついた。それにしても反応するポイントがいちいち違う。これでは僕が守銭奴で女癖が悪いみたいじゃないか。
「ともかく。撮影した映像はネットで公開してもいいということまで話がついたんだ。それで、小夜子には撮影助手として立ち会いをお願いしたいんだ」
「いやよ」
ドリアをスプーンで口に運びながら小夜子は即答した。「そのひと女性なんでしょ。あたしなんてお邪魔に決まっているじゃない」
「別にそういう関係じゃないって」
「あんた、女がたくさんいるくせに、ほんと鈍いわよね。あーあ、彼女たちがお気の毒」
「たくさんじゃないし、それに小夜子に言われる筋合いなんてないぞ」
僕はすました顔をしてシーザーサラダをつついている小悪魔に向かって言った。
「僕は、さみしい女の人とデートして、ちょっとだけお小遣いをもらっているだけだ」
小夜子がふっとため息をつき、下品な落書きでも見るような目で僕を見た。空になったナポリタンの皿をマスターが黙って下げていった。
「とにかく、一緒に来てくれよ。他に頼めそうな奴もいないんだ」
「でも、撮影は一人でもできるでしょう?」
「小夜子が撮影とモニター確認をしていてくれれば、僕は彼女――栞さんの話し相手ができる」
「うーん……」
「それに、目の前で人間がみるみる若返るんだぞ! 興味ないのか?」
「そう言われれば……」
ようやく小夜子は悩み始めた。カウンターの奥でコーヒーミルを回す音がして、香ばしい香りがした。どうやってもう一押ししようかと考えていると、小夜子の携帯電話が鳴った。
「ごめん、もう行くわ」
小夜子はいかにもビジネスバッグらしい黒の鞄から財布を取り出した。
「今日もオシゴトか?」
「そ。公務員のおじさんとこ。この格好、デキるOLっぽくていいでしょ」
そう言って立ち上がった小夜子は、グレーのスーツの上にライトベージュの薄いコートを羽織った。会社勤めをしているようにしか見えないが、本当のところは失業中で、中年男性を相手に売春して稼いでいる。
「よくも僕のことをどうこう言えるもんだ」
「あたしは双方了解のもと、ビジネスでやってるの。あんたとは違うわ」
悔しいが反論が思いつかない。
会計を済ませて出ていこうとする小夜子に僕は念を押した。
「撮影、来るよな?」
「いちおう考えておく」
振り向きながら小夜子はバイバイと手を振って微笑み、扉の向こうへ去っていった。けしからんことだとは思うけれど、僕だって小夜子に偉そうに説教できる立場ではない。
つれない返事だったが小夜子はきっと来てくれる。人間が若返る動画の撮影に成功すれば、ネットユーザーの注目を浴びること間違いなしだ。世間が信じなくても、嘘なのか本当なのか、どんな撮影技術を使ったのかと話題になるだろう。どちらにしろ僕に損はない。
それになんといっても見てみたいじゃないか。お蔵入りになった、いわくつきの薬の効果を。
大きな振り子時計が十五時の鐘を打った。
マスターが僕に一杯のコーヒーを差し出してくれた。窓の外はよく晴れていて、郵便配達のバイクが砂埃をあげて走り去っていった。
僕がインターネットを通じて栞と知り合ったのは、半年ほど前だ。
栞が悩みを抱えている女性だということはすぐにわかった。インターネットで僕に寄って来る女性は大抵そういう感じで、少し時間をかければ実際に会えることが多い。僕にとっては別にどっちでもいいことだったけれど、栞ともやっぱり会えた。
初めてデートしたのは、海沿いの公園だった。
池の水鳥たちを眺めながら、彼女は生い立ちと半生を語ってくれた。子供のころから親子関係がうまくいかず、学校にもなじめず、社会に出てからもうまく世の中を渡れなかった。男にも裏切られ、気づいたら二十九歳になっていた、と。
「初めて死にたいと思ったのは、たしか中学二年のころよ。男の子にいじめられていて、女の子の友達もうまくつくれなかった。
でも、あのころは、我慢すればそのぶん幸せがやってくるものだと思っていたの。シンデレラとか、みにくいアヒルの子の物語みたいに。でも、大人になってから気づいたの。あのおとぎ話は、ただあとから幸運がやってきたっていうだけの話で、不幸を我慢すればしあわせがやってくるという保証はないんだってね。
結局、いまこの歳になっても、あのとき我慢して生きてきて良かったなんて、一度も思えたことがないのよ」
栞はそう言って、世の中の全てを妬むような暗いまなざしを足元に向けていた。
僕はお決まりの、やまない雨はないとか、明けない夜はないよ、とかいう台詞を完全に封じられて困惑していた。彼女からみて僕が若造なのも悪かったと思う。肩を抱き寄せるには、まだ周囲が明るすぎた。
僕も仕方なく足元を歩く黒蟻を見ていると、視界の端に一羽の鳩が入ってきた。沈み切った気分に水を差されたように、栞も目で鳩を追い始めた。鳩は首を振りながら歩き回り、なにもない地面をつついている。
「そうだ、待っていて」
僕は近くの売店に走り、ポップコーンを買って戻ってきた。
鳩の目の前に一粒を放り投げてやると、ちょんちょんとつつき始めた。すると、どこからともなく、数羽の鳩が飛び降りてきて、ポップコーンの取り合いになってしまった。
「おい、けんかするな。まだあるから」
僕はポップコーンをひとつかみ取ってばら撒いた。鳩たちは驚いて舞い上がり、再び着地すると、いつのまにか十数羽に増えていた。
「まあ、どこから見ていたのかしらね」
栞はその様子を見て面白がっていた。僕はポップコーンの容器を栞に渡し、栞もやってみなよ、と言った。栞は鳩の群れにポップコーンを投げ、そのたびに興奮して飛び回る鳩たちを見ては、子供のようにはしゃいでいた。
その後、僕と栞が男女の関係になることはなかった。
栞は、デートのたびに僕に食事をおごってくれたり、ガソリン代と称して少しお金をくれたりした。そのうちに、栞の口から、もう一度昔に戻れたら、噂の若返りの薬があればやりたいことがあるのに、という言葉を聞くようになった。
僕が若返りの薬を探すようになったのはそういう理由だった。
約束の時間より一時間早く、カフェ・ペンデュラムの扉を開くと、どこかで嗅いだことがあるようなスパイスの香りがした。客はカウンターに小夜子が一人だけで、マスターとなにやら盛り上がっているところだった。マスターは僕に気づいて挨拶をしてくれたが、何かよそよそしい気がした。
「僕はお邪魔かな?」
「なに言ってるのよ」
かすかな違和感は、小夜子が微笑むと吹き飛んだように思えた。今日はニットとジーンズというラフな格好で、化粧も薄目だ。オシゴトの予定がないのだろう。
「むしろわたしのほうが邪魔だよ」
マスターがにやにやしながら言う。
「もう、マスターったら。でも」小夜子が少し小声で僕に言う。「例の薬の話。よく考えたらあれ、やばい薬なんじゃない? あっちのボックス席に移ろうか?」
「いや、ここでいいんじゃないか?」
小夜子はマスターの側をちらりと見る。
「言ってもいいよ、ワタルくん」
マスターがウインクして言った。
「実は、あの薬はマスターに取り寄せてもらったんだ」
「そうだったの? もう、先に言ってよ」
拍子抜けしたのか、小夜子は大きく息を吐いてだらりと椅子にもたれかかった。
「まあまあ。コーヒーはわたしのおごりにするから、ここでゆっくりお話してね」
そう言いながら、色白眼鏡のマスターは、コーヒーミルのハンドルをうれしそうにごりごりと回していた。
若返りの薬(リブニールと名付けられていた)は、服用者の肉体の時間経過を急激に遡行させ、過去の状態へ戻す効果がある。若返った状態は数時間継続したのち、時間が急速に反転してもとの状態に戻る。
主な使用目的は、予防医療であった。
患者が致死率の高いウイルスなどに感染していて、事前のワクチン接種以外に効果的な治療方法がないと思われる場合、または、悪性腫瘍の発見が遅れるなどして、過去における治療が非常に有効であっただろうと推測される場合に、効果を発揮すると考えられていた。
事実、既に人体による臨床試験段階を終了し、認可を待って実用にこぎつけるものと思われていた。
ところが、実験関係者の周辺で妙なことが起こり始めた。一番多く報告されたのは、記憶の重複問題である。
ある二十代の被験者男性の場合を例にする。
リブニールの服用効果中にワクチンを接種したのち、抗体ができているかという実験だった。実験そのものは成功で、ワクチンの効果はしっかり現れた。
問題はその後で、男性に昨日の夕食に何を食べたかと質問すると、彼は家で両親と兄とで一緒に寄せ鍋を食べた昨晩と、ガールフレンドの部屋で宅配ピザを食べた昨晩との、二通りの記憶があると答えた。
最初は単なる記憶の混乱と思われていた。
そこで、彼の家族に確認をとったところ、家族の回答も曖昧であった。
彼は普段は自宅で家族と一緒に食事をとるのがふつうであり、その日も食卓にいたようでもあるが、いないようでもあった、というのだ。
彼のガールフレンドにも確認をとった。彼女もまた記憶がはっきりしなかった。
ピザの宅配業者にまで問い合わせたが、なぜかその夜に限って伝票の表記や社有車の走行記録などがいいかげんで、誰が配達したのかもはっきりしなかった。
一週間ののち、被験者の彼にふたたび同じ質問をした。
すると、実験の前の日は確かに、ガールフレンドの部屋で宅配ピザを食べたと言った。
その時になると、ガールフレンドも確かに一緒にピザを食べたとはっきり答えた。彼の家族は、その日食卓に彼はいなかったと答えた。ピザ屋では住所入りの宅配伝票が発見された。
被験者自身の記憶の重複以外にも、実験の直後には小さな異変がよく起こった。
例えば、医師が報告書を万年筆で記入していたと思ったら、いつのまにか手にはボールペンを握っており、筆跡も途中からボールペンのものに変わっていた。妙だと思いつつもボールペンで続きを書き、終わってみたらやっぱり万年筆を手に持っていて、ボールペンが消えてしまった、といった具合だ。
当初はそれぞれが勘違いだろうと考えていたので、問題は表面化しなかった。しかし宅配ピザの一件をきっかけに再調査したところ、実験関係者のほとんどは何かしら妙な体験をしていた。
よく調べてみると、人体実験以前のネズミを用いた実験中から、そのようなことは時々起こっていたようだ。
主にマスターによる説明がなされている間、小夜子はときどき眉間にしわを寄せて、うーんと唸ったり額を押さえたりしていた。僕も詳しく聞くのは初めてだった。
その間に、香りの良いモカコーヒーは少し冷めて、猫舌の小夜子にとっては飲み頃となっていた。
「どうしてそんな不思議なことが起きたのかしら」
「それがはっきりしないので、薬は発売中止になったんだ。それに、実験が必ず成功したわけではなく、ワクチンの効果がまったく現れないこともあったそうだ」
医療関係者に知り合いがいるというマスターも、それ以上のことは知らないようだった。二人とも考え込んでしまったので、僕の仮説を披露してみることにした。
「そもそも、単なる若返りの薬っていう宣伝文句には納得できないな。個人的タイムスリップと考えるべきなんだよ」
僕が言うと、マスターがにやりと笑った。きっとなんとなく感づいているんだろう。僕は話を続けた。
「――それを踏まえると、病気になったけど過去にワクチンを打ったことにしよう、なんてやり方は、因果律に逆らうことになる」
「インガリツ?」
「簡単に言うと、原因と結果の順序は覆せないという考え方だよ。たとえば、親殺しのパラドックスって知ってるかい? タイムマシンが発明されたとしよう。小夜子が自分が産まれる前の過去にタイムスリップして、自分の親を殺害したらどうなると思う?」
これは古くからSF小説愛好家の間でも意見の分かれる問題で、この矛盾がある限り、タイムマシンは永久に開発されないであろうとまで言われている。
小夜子はこの難題に、しばし考えたのち答えた。
「親を殺したらあたしも消滅すると思うわ」
「では、親を殺したのは誰?」
「あれ? えーっと……その時点ではあたしは産まれてもいないわね」
「マスターは? どう思う?」
「わたしは、そもそも親殺しなんて不可能だと思うな」
色白眼鏡のマスターは相変わらずにこにこ笑みを浮かべている。
「さすがマスター、正解」
「そうなの?」
小夜子は納得のいかない表情で、僕とマスターの顔を交互に見た。
「正解っていうか、僕には本当のことはわからないけど、少なくとも僕の見解とマスターの考え方は近いと思う。僕の考えでは、過去の親を殺した時点で、世界は枝分かれする。並行世界、いわゆるパラレルワールドだ。親が生きている世界Aと、殺されてしまった世界B。そうしないと、因果律が成り立たないから」
小夜子もすかさず反論する。
「でもおかしいじゃない。親も自分も生きている世界Aはいいけど、親を殺した世界Bでは、誰がどうやって殺したのかという問題が解決しないわ」
「そう、そこでだ。因果律の神様は、どちらの世界が理にかなっているかを審査して、都合の悪い世界は削除してしまう。何度試しても同じさ。きみは、今度こそ親を殺してやろうと決心しても、いざというときに心が揺らいだり、機械がトラブルを起こしたりと、何かと邪魔が入ってしまう。つまり、親殺しの世界Bは、発生させようとしてもシャボン玉みたいにすぐ消えてしまって、決して実現しないのさ」
小夜子は頬杖をつき、眉間にしわを寄せていた。
「ふーん。……まあ、百歩譲って、そうだとしましょう。それで、例の宅配ピザの一件はどう説明するの?」
「うん。被験者の男性は、実験中に――仮に半年としよう、時間を遡った上でワクチンを投与された。そこで、男性の運命は半年前からAとBに枝分かれした。
蝶の羽ばたきくらいの微かな風でも、時間が経てば大きな影響を及ぼすことはあり得る。後々の世界Aでは、男性は家族と一緒に鍋を食べる運命にあり、世界Bではガールフレンドの部屋で宅配ピザを注文することになる。結局、選択されたのは宅配ピザをとった世界Bのほうで、家族と一緒に鍋を食べる世界Aは破棄されたというわけ。
実験直後の証言がみんなあいまいなのは、世界AとBがまだ並行して存在していて、選別中だったからというわけだ」
「いまいちよく分からないけど……パラレルワールドって、現れてもすぐに消えてしまうってこと? マスターもそう思う?」
カウンターに肘をついて話を聞いているマスターに、小夜子が意見を乞う。
「まあ異論はないよ。ただ、わたしが考えるのはもっと単純で、子が歴史を遡って親を殺すなんてことが実現してはいけないと思うんだ。世界が並行して発生しようがどうなろうが、知ったことではないね」
「インガリツの神様なんてのが本当にいたら、多分こういう性格なのかもね。で、ややこしい話はこれで終わりかしら? 頭痛くなりそう」
小夜子は心底うんざりといった顔で言った。
マスターは笑って、じゃあ、もう一杯、カフェモカをおごるよ、と言った。
そこからは、撮影の日にちの段取りを話し合い、たわいもない雑談をしてから店を出た。既に陽が落ちていて、薄手のコートひとつでは肌寒かった。
帰りにATMに立ち寄って記帳した。時々デートをしている女性の一人である夏希から、五万円が振り込まれていて、残高がそのぶん増えていた。
貸すだけだと夏希はいつも言っているが、いままで返済を催促されたことがない。実際にはくれるようなものだろう。
僕は携帯電話からお礼のメールを送信した。