17(それ、なんですか)
梅酒をちょびっと舐めさせてもらったけれども、ちっともおいしいものでないと美香子は思った。そのうち分かるよ、としーちゃんは云った。のんべぇと一緒にするのはどうなんでしょうねと増田さんは笑った。けれども、お父さんのビールを舐めたときもやっぱり同じで、しーちゃんの云う〝そのうち〟が自分にも来るとは思えない。ソーダ水に入れた氷砂糖は溶けずに小さな泡をくっつけ、グラスの底に沈んでいた。「星のかけら」
「ん?」
「氷砂糖。星のかけらみたい」
ほんのり頬を赤くした叔母はグラスから口を放し、ふぅと息をついた。「聞いたかい、増の字。あたしらは大人になるのに何を捨ててしまったんだろうな」
「何も捨ててませんよ」増田さんの顔も少し赤い。「ただ忘れてしまっただけか、忘れようとしているだけで」
「ふぅん」叔母は身を乗り出すと、びしッと増田さんのおでこを指ではじいた。
「何するんですか」
「なんも」座り直し、グラスを傾け、ひと息つく。「なんかそんな気分になっただけ」
「大人になりたくなかったの?」
美香子の問いに、ウーン、と叔母は唸った。「なりたかったよ。さっさとね。でも、なっちゃったって感じかな」
「他人事みたいですね」増田さんが云った。
「時間が勝手にそうするんだから他人事ってのもそう間違いとは云い切れまい?」
グラスを畳の上に置くと、座布団を折り曲げ枕にし、叔母はその場で横になる。曲げた足をぼりぼり掻いて、もう、みっともないなぁ。「大人にならなくて良かったならそうしてた?」
*
酔いが廻ってきたようだ。意識がほわほわする。「さてねぇ」姪の問いはナンセンスだと思った。けれども自分が彼女と同じ年の頃だったらやはり同じ疑問を抱いただろう。しかしなってしまった以上──良子は肘を突き、グラスの中身を舐めた。「大人はいいよ? 自由でワガママで、好き勝手できるから」おどけてみせた。
しかし姪は「そう」視線を窓の外にやった。
見なくても音で分かる。雨足はちっとも変わっていない。目を閉じグラスを傾ける。今年の梅酒は心なし、まろやかさが足りない。
三時とは云ったが。やはり無理だろうな、と思った。
「それ、なんですか」
増田の声に片目を開けると、カナミがちゃぶ台の上に乗っかっていた。振り返った美香子がアッと云う顔をした。跳ね起きた自分もたぶんアッと云う顔をしているに違いない。カナミはころころと上手に梅酒の瓶だのソーダ水、グラスをよけ、氷砂糖の皿の前でぴたりと止まった。
「食べたいんですかねぇ」増田がひとつ氷砂糖を手にして「口はどこかな」ひょいとてっぺんに乗せる。するとそれは、溶けるように中へと消えてしまった。
「へぇ」増田はにこにこ。「おもしろいなぁ」ひょいひょいと氷砂糖を次々乗せて、すっかり皿を空にした。「なんですかこれ。もしかしてぼく、酔ってます?」
ふいにカナミはその場でぐるぐる廻り始めた。ぽわぽわっと色とりどりの光が泡のように次から次へと生まれて消えた。
「ミラーボールですか」増田が笑った。
「カナミ?」美香子が手を伸ばすと、ひょいとカナミはちゃぶ台の上から降りて、ぽわぽわ光りながら畳の上を行きつ戻りつ転がった。
「へぇ」増田は感じ入ったように云った。「良くできてますね。生きているみたいだ」
「しゃーないなぁ」良子はシュシュを取ると、頭を軽く振って髪を手櫛で梳いた。「長い話でもないけどさぁ、聞く?」
*
九時を過ぎたところで美香子は自分の部屋に引っ込んだ。明かりを消して床につく。枕元にはカナミ。今は大人しくしている。
ケータイの目覚ましを三時にセットした。ぽたぽたと雨どいを伝い落ちる規則正しい雨音と、壁に掛かった時計の秒針。こんな時間では眠れるはずもない。一方、居間には酔っぱらって気持ち良さげにくうくう寝息を立てる大人ふたり。そのお腹にタオルケットをかけておいた。小さな明かりは残しておいた。
流星。春先に新聞片隅でその記事をみつけた。流星を見に行く。その約束は父とした。
視界の隅でころっとカナミが動くのを見た。
「おいで」手を伸ばすと、カナミは腕の中に転がってきた。きゅっと抱きしめるとひんやりとして、なぜか気持ちが穏やかにならされる。不思議。この子は本当にどこから来たのだろう──。




