11(知らぬ存ぜぬ)
年の頃は自分より上だろうと岸辺は思った。好意に甘えて電話を使わせてもらった。番号をプッシュしながら、女の裸足の足下に自然と目が吸い寄せられた。白くて細い足首にくりっとしたくるぶし。触れたらどんな感じだろう。視線を剥がすのに苦労した。ケーブルの長さが許す限り背を向け、呼び出し音を聞いた。コール六回で相手が出た。「ウッド・プロダクション」
「山田です、アンゴラ生地の件ですが」
間。符丁を忘れたに違いない。咳払いのあと、電話の向こうで課長は声音を切り替えた。「なんだ、どうした」
一瞬考え、しかし素直に答えた。「本物です」
「はははは」
「冗談でないです」
「いや冗談でしょ? まさかあるわけないじゃん。ホントなら横田のサムおじさんはもちろん、市ヶ谷も三沢も、筑波も動いてるって。だから間違い」
岸辺は口元を手で覆い、声をひそめた。「シグナルがあったのは確かでしょう?」
「年に何度あると思ってんの。砂漠のお椀はより分けに難儀してることくらい知っているでしょ」
気付かぬうちに受話器を握りしめていた。「上に持って行ってください、自分だけじゃ手が足りません」
「証拠あるの?」
「九課はオモチャを作るのが仕事ですか?」
「ふうん。あれ、動いたんだ」
「課長ォ」
すると課長は電話の向こうで、芝居ががかった太く長い溜息をついた。「岸辺くんさぁ、七課の信条、忘れてないよね?」
「波風立てるな、頭を上げるな、知らぬ存ぜぬやり過ごせ」
課長が息を吸い込むのが分かった。岸辺は受話器から耳を離して備えた。「分かってるなら実践しろ、面倒起こすな! 何も見つけるな!」
「でも伯父さん、」
「ばかっ」
「すいません、課長」
「いいかァ?」含めるように語を継いだ。「見つけても埋め戻す、それがお前の仕事!」
頭ごなしに云われてカチンときた。面白くないと思った。そっちは冷房ガンガンの部屋で新聞読み読み、ネットサーフィンに興じているだろうが、こちとら電車を乗り継ぎ、タクシーに揺られて、炎天下を延々と歩いて電波圏外、さよなら文明、ようこそ木星。
岸辺は唇をきゅっと噛んだ。七課の役目は分かっているつもりだ。今から戻っても定時は越える。予算の消化? マイナスイオン? 試作機器の実験? 本当だったらどうするんだ。埋めてどうにかなるものであるまいに。知らぬ存ぜぬで済む筈がなかろうに。何かあったから、ここへ来たのだ。手ぶらなら手ぶらなりの報告書の書き方もある。だが、ハナからペラい報告書を望まれているとなると、これはやはりどこかおかしい。歪んだお役所体質にほかならない。岸辺はここにきて腹の奥で燻っていたものが煙り、赤くなるのを感じた。
課長が訊いた。「この番号、何? どこからかけているの?」
「民家です」ちらっと振り返り、女がまだそこにいるのを視線の端に捉えた。「圏外でして、」
「十円、いや五十……違う、百円渡すんだぞ」
「なんでですか」袖の下にしてはセコい。
「電話の! 使用料!」
「はぁ、」財布の中の小銭を思い浮かべ、「そんな必要あるんですか」
「当たり前だ!」
ならそうだろう。すでに云い争う気力は失せている。「分かりました」
「じゃ、いいね?」
「断られたらどうしましょうか」
「ばかっ」電話の向こうで課長はもっと適切な語を探そうとしたが結局見つけられなかったようで、「ばかっ」電話を切られた。
二度も云わなくても。憤然とした思いで岸辺は手にした受話器を見つめた。ぎゃふん、と云う擬音は誰が初めに使ったのだろう。課長にそれを云わせる術はあるかもしれない。
「終わりまして?」
慌てて受話器を戻した。「助かりました」
「まぁ、こんな辺鄙な場所ですからね」
女はおどけた風に肩をすくめてみせた。子供みたいな無邪気さで、なんだか妙に可愛らしく、思わず口元がほころんだ。思った以上に若いのかもしれない。岸辺は女の表情の中にあどけない少女の面影を見いだした。プラスチックのアクセサリで無造作に束ねた髪。全く普通の銀縁メガネ。化粧っ気のない顔。Tシャツにハーフパンツ。裸足。無防備な私生活をのぞき見たようで、少しの気恥ずかしさと些かの不健全さを憶えたが、どうしてか胸の内がざわめいた。ああそうか。岸辺は理解した。これは家族でないければ見ることの出来ない姿。ちょうど小学校の時分、友だちの家に遊びに行ったら高校生のお姉さんが出て来たみたいな──。
突然、目の前が現実感を伴って岸辺を包み込んだ。家庭独特の匂いを無意識に吸い込んでいた。洗濯洗剤の清潔な匂いと、木造家屋の懐かしい匂い。そして──。




