第3話 そんなに高価だとは思わなかったんだ
マナー・一般常識講座を担当してくれたのは、シリアス・ウイテールという黒目黒髪の書記官であった。まだ20代前半と思える見かけとは裏腹に、その内容は一通りの作法に始まり、法律体系、国内の地勢にまで及んだ。これを一人でしっかり説明するのだからこの兄ちゃんも相当なものである。しかも戦闘能力もそれなりにあるらしく機会があればパーティの陣形や魔法の効率の良い使い方も教えてくれるという。
「もうシリアスさんが勇者やれば?」
「いえいえ、とんでもないことです。それに、支援魔法・回復魔法は使えますが、攻撃魔法が少々苦手でして。ワイバーンと1対1だと、大分手こずるかと思います。」
なお、この世界のワイバーンは最大級のイリエワニが空を飛んでいると考えていただければ良いだろう。咬まれればもちろん手足は吹っ飛ぶし、のしかかられただけで致命傷である。また、家にあるような刃物ではワイバーンの皮膚に傷をつけることすらできない。
「その『少々苦手』でワイバーン落とすのに苦労するレベルとか、『得意』な人に会ってみたいよ。」
「それでしたら、来週会えると思いますよ。勇者パーティにセンテラさんと言う魔術師がいらっしゃる予定なのですが、ラスボスごと迷宮の階層を1つ消したことがあるはずです。」
「マジかよ、もう俺が召喚された必要性がわかんねぇ。」
チート能力には”完全記憶”かそれに類するものがあったらしく、午後に受けたマナー講座のおかげで夕食は無事に済んだ。
夕食後、部屋に戻ったところでフェンリィがウーロン茶とお茶うけを持ってきてくれた。耳をいじられるものの、ちゃんとした会話ができるのはやはり楽しいらしい。
お茶うけがまたラスクだった(昼食・夕食のデザートはフルーツだった)ので、チートは「もっとこう、フワッとしたお菓子はないのか。」と聞いてみた。
「えーっと、メレンゲを使ったような感じのはありますが。」
「うーん、そういえば食事に生クリームとか使ったっぽいのなかったわ。この世界には牛乳とかないの?」
しばらく王宮生活らしいから、その間に知っているデザートを披露してお料理チートだぜ。とか思っているようだ。
「ミルク、ですか?あの赤ちゃんが飲む?」
「(言葉で返ってこないから”牛乳”はないようだな)うん、そうミルク。なんとかならない?」
「はい、他の人に聞いてみます。」
そう言って、フェンリィは恥ずかしそうに部屋を辞していった。
2時間ほど経ったころ、ミルクが半分ほど入ったコップを持ったフェンリィが戻ってきた。
なお2時間と言うのは携帯で計ったものである。いつもは鞄に入れているのだが、たまたまズボンのポケットに入れていたので持ってくることができたのだ。当然圏外だが、当面時刻を知ることぐらいはできる。シロに聞いたところでは、時間は秒から年まで完全に地球時間と同じらしい。
「うーん、牛乳に比べるとちょっと甘味が強いかな。料理を見るとゼラチンはありそうだったし、ババロアなんかは作れそうだな。あと、ホワイトクリームも。」
飲み終わって使えそうだと判断し、さらにフェンリィにリクエストする。
「これを、鍋に1杯くらい欲しいんだけど。」
「えっ、えっ、お鍋に1杯ですか。……はいっ。では明後日位に用意できると思います。」
「うん、よろしくね。」
フェンリィが出て行ってから、もう少し一緒に話をしてからでもよかったのではないかと思ったが、しばらく滞在するのだからと思い直し、本棚から本を出してきた。時刻は午後9時くらいなのでまだ寝るような時間ではないし、電灯がついていない王宮内は散歩には向いていない。部屋にはランプがあるので手元だけは見えるが、それだけである。本は博物学関係のものらしく、植物の解説が並んでいる。
「ふーん、植物の種類や性質は地球とそんなに変わらないっぽいなぁ。」と、パラパラとページをめくっていたが、午後のマナー講座で予想以上に疲れていたらしく、チートは本を読みながらいつのまにか眠ってしまった。
「なにやってんのよ、さっさと起きなさい!」
チートが気付くと、誰かがベッドの横で怒鳴っていた。王女カマセーヌ・ツンデレである。
「あんたねぇ、フェンリィに妙なこと頼んで、どうして私が起こしに寄越されなくちゃならないのよ。おまけに来てみれば本を枕にして寝てるだなんて、ふざけんじゃないわよ。だいたいねえ、……」
カマセーヌの剣幕は簡単には収まらない。王国側としては神に頼んで召喚した相手であり、無理を押しつけているという自覚があるのと、魔王を倒せば将来が約束されている勇者であるから王女とコンタクトさせておくことにデメリットはない。しかしカマセーヌ本人にしてみれば妙なことばかりする得体の知れない男であるうえ、王国の財産である書籍をいい加減に扱っているのを見て怒ったのである。
印刷技術が発達し、1冊の本を数百円で入手できる現代人である我々にはピンとこないが、それ以前の書籍と言うのは実は大変金のかかるものである。まずパルプ由来の紙でない場合、羊皮紙(要は動物の皮だが)1枚作るのに動物が1頭必要で、皮を剝いで薄く引き伸ばして鞣し、漂白・乾燥するのに何十日もかかる。それでいて、採れるのはせいぜいA4用紙10枚くらいのものである。しかも、字は基本手書き。字が書けるというのは大変なエリートであり、例えば1ページ書くのに1時間かかるとして、1日に8ページ、200ページの書を書くのにざっと1ヶ月このエリートを拘束することになるのだ。この材料費と人件費を考えると、本1冊作るのに高級な装飾品と同じくらいの金額がかかるのがわかるだろう。
カマセーヌは王女としてそういった感覚を仕込まれており、書籍は大事にすべきものと教わっている。なのにチートを起こしに来てみれば、その書籍に皺を付け、頭を乗せて寝ているではないか。おまけに、よだれすらついているようにも見える。
激怒して当然である。
「何だよう。」
しかし、深刻さは全く伝わっていないようだ。このときまぶしさから手を目の前まで持って行ったチートは、手に触れたシロのしっぽを思わずつかんでしまい、引っ掻き傷が増えたのだがそれはカマセーヌからは見えない。
カマセーヌはチートを完全に起こそうとしたのだが、水をかけると本が傷みそうだし、頭をつかんで起こすわけにもいかない(未婚の女性が男に触れるなんてとんでもない)。シーツを捲るなんてもってのほかである。
「あ・さ・ご・は・ん・よ。」
これ以上相手をすると精神衛生上良くないと判断したのか、それだけ言うとカマセーヌは部屋を出て行った。
「なんだあいつは?」
いや、そういう行動させた犯人はチート君、自分だからね。