交わる縁
流はその日、暗くなった帰り道を急いでいた。
部活に入らない代わりに、学校帰りに古武術の道場へ通っている。
幼いころから通っている道場の師範は彼の親代わりでもあるのだが、決して甘やかしてはくれない。
今日だって自分が引きとめて遅くまで稽古させたくせに、帰るときにはさっさと出てけと言わんばかりに追い出された。
道楽でやっている道場主の他に職を持つ彼の師範は、誰もが知っているような高級車を乗り回すくせに、流を送るのには使いたくないというのだ。
「カワイイ女子高生を送るならまだしも、図体のデカイ男を乗せるなんて寒気がする」というのが、いい年して独身の彼の口癖だ。
そんなわけでずいぶん遅くなったにも関わらず、一人で帰らされる流は先を急いでいた。
暴漢に襲われたら返り討ちにしてやれ、などと師範には笑って追い出されたが、彼が怖いのはむしろ警察だ。
補導でもされたらたまったものではない。
天涯孤独の身で、高校を卒業したら働くつもりの彼にとって補導歴がつくなんてもっての外だ。
警察に見つからないよう、なるべく大通りからは離れた小路を進んでいた。
彼の前方にはぽつんと電灯があり、その下にやたらと派手な色の服を着た人間がいた。
ぼうっと突っ立っているようだが、顔はよく見えず、男女の判断もつかない。
夏空のように鮮やかな青色だけが目につく。
たらんとした青色はワンピースに見えなくもない。
しかしこんな時間に人通りの少ない道で一人突っ立っているというのもおかしな話だ。
もしかしたら薬物中毒者かもしれないと、流は足早に歩を進めた。
ずいぶん前に曲がり角を過ぎてからは、ずっと家々の塀に囲まれた直線的な道だ。
いまさら引き返すのもめんどくさいし、もし彼のことが視界に入っていれば変に刺激することになるかもしれない。
とにかくさっさと過ぎてしまえばいいだろうと思っていたのだが、流は眉間にしわを寄せた。
謎の人物に目と鼻の先まで近づいたにも関わらず、なぜかその人物の人相がよくわからない。
顔がはっきりとしないのだ。
相手を見てないふりをして気配だけはよく配っているのだが、なんだか妙な感じがして腕をさすった。
皮膚の下がチリチリするような、背筋がぞわりとするような感じだ。
なるべく気を尖らせて、体からは力を抜く。
体が緊張していてはとっさの時に動けない。
青色の人物の前を通り、後ろに過ぎた時だった。
「う、あ……あぁ゛---!!」
重低音と金切り声が混じった不快な声がソレから発せられた。
流は素早く振り返りながら後ろに飛び退き、驚愕に目を見開いた。
今やチリチリとした感触は冷や汗と寒気となって彼を襲っていた。
彼に襲いかかろうとしているソレは人ではなかった。
全身が鮮やかな青色の、かろうじて人の形をした粘着質な化物だった。
流を襲おうと持ちあげた腕らしきところから青い皮膚のようなものが糸を引き、顔だと思っていた場所も真っ青で目も鼻もなかった。
口のように横長の孔がぱっくり開いているだけ。
暴漢なら返り討ちにできても、何かもわからない化物に勝てると思えるほど流は楽観的ではなかった。
それでも習い性として身構え、ソレから目をそらすことはしなかった。
化物は、流が離した距離を粘着質にしては俊敏な動きで詰め寄り、再び彼に襲いかかった。
バチッと静電気のような、しかしそれよりももっと大きい衝撃音とともに光が弾けて、流は思わず目を瞑った。
しかしあの粘っこいモノが体に当たった感触はなかった。
「――――っ?」
ゆっくりと瞼を上げて、化物を見れば、離した距離以上に離れたところでうずくまっていた。
「なん……なんだ」
「……うぐぁあっ!」
突如化物が仰け反る。
そしてまるで何かに首を絞められているように、腕が首のあたりをさまよっていた。
「絞って」
青い化物を挟んで反対側の闇の中から、若い女の声が聞こえた。
同時にコツコツと二人分の足音もする。
足音はだんだんとこちらに近づいていた。
次は何が起こるのか、と流は辟易しながら闇に目を凝らす。
シュッと音がして白い布が闇の中から飛んできた。
それはまるで生きているように化物に巻き付く。
すると化物の苦しみ方が一層ひどくなった。
じわりと化物の青さが白い布に染み出しているように見えた。
闇から足音の主が現れた。
黒い長い髪をポニーテールにした少女。
流はその少女に見覚えがあった。
その少女の背後に付き従うように紅い髪の青年を現れた。
「染めて」
少女の口から声が発せられ、同時にパンッと両手を合わせる。
そのとたんに布の中の化物がぎゅっとつぶれて、一瞬後にはじけた――ように布が伸縮した。
化物をひとかけらも逃さないというように布がクシュクシュとひとりでに縮まる。
それはあの鮮やかな青色に染まっていた。
パサッとまさしく布がたてる音をもって、青くなった布は地面に落ちる。
化物はどこにも見当たらなかった。
合わせていた両手を離し、腕を下ろした少女が布に近寄り、それを無造作に拾いあげる。
くるくると布から細い糸のようなものを手に巻き取りながら、解く。
「解いて、伸ばす」
糸をほどき終わった少女は、自分で言ったように布をピンっと伸ばす。
少女が広げたのは手ぬぐいサイズの鮮やかな青い布だった。
あの夏空のような化物の色の。
中心に白いもやもやとした輪と、その周囲に点々と白い模様がある美しい布だった。
「染付完了」
少女は片側の口角だけ上げて、ニヤリと笑った。
流は付いていけない展開に立ち尽くしてしまった。
――――
どれほどの時間が経ったのか、それほど過ぎていないのか、流が我を取り戻した時には、少女の後ろに控えていた青年が布をくるくると筒に巻いているところだった。
「菊理だよな?」
恐る恐る訪ねた流に、少女は首だけ振り返って彼を見た。
「あぁ、千秋だったの」
なんてことないように答えた少女にやっぱりというか、がっかりというか感情の整理がつかないまま流はうなだれた。
彼女は菊理 紅姫-―彼のクラスメイトだった。
こんな自分の頭を疑うような非日常に、日常の存在が持ち込まれると人間は混乱することを、流は初めて知った。
知りたくはなかった。
「紅姫、彼はアヤカシの攻撃を弾きましたよ」
青年の声につられて流は彼を見た。
日本人離れした紅髪に、同じような色の紅い瞳。
日本人の顔立ちだが、ハーフなのかもしれない。
顔には特にこれといった表情は浮かんでいなかった。
「えぇそうね。
せっかく人喰い直後で箔付けたついでに、血の色が混じんないかなーとか思ってたのに。
まあいいわ」
流はひやりと背筋に寒気が走った。
仕方ないとでも言いたげな口調だが、紅姫の言っていることはおかしい。
まだ危機は去っていないのだろうか。
「アレはアレで収穫よ。彼はカンナギね」
「カンナギですか?」
紅姫の言葉に青年が驚き、流を見る。
さっきから謎の言葉が飛び交っているが、今のカンナギは明らかに流のことを指さしながら言われた言葉だ。
自分も非日常の一部なのか、と悲観的な思いに駆られた。
「千秋、来なさい。
私が飼ってあげる」
極上の笑みとともに言われた言葉に、流は気を失いたくなった。
確実に普通のクラスメイトに言われる言葉じゃない。
彼の日常が非日常に変わった瞬間は、ここだったかもしれない――――。