第2話:放課後の「再定義」と、教育委員会の壁
午後三時。
校内に鳴り響く下校のチャイムは、いつもと変わらぬ暢気な音色だった。
校門からは、部活動に向かう生徒たちの声や、笑いながら帰路につく足音が聞こえてくる。しかし、二年二組の教室だけは、物理的にも社会的にも「存在しない場所」へと作り変えられようとしていた。
「……よし、これでいい」
職員室のモニターを見つめながら、教育委員会の役員が低く呟いた。
彼が作成した内部文書のタイトルは、『二年二組における特殊学外活動への移行について』。
「『消失』ではありません。『移行』です。彼らは現在、本委員会の認可した特別なカリキュラムに基づいて、一時的に連絡の取れない状況下での自立型研修に入った。……文面上は、これで瑕疵はありません」
「研修だと……? 教室の椅子からいきなり消える研修がどこにある!」
警部補がデスクを叩く。震える手には、新しい胃薬のシートが握られていた。
役員は、無機質な眼鏡の奥の目を動かしもしなかった。
「刑事さん、言葉には『定義』が必要です。警察が『事件』と定義すれば捜査が始まりますが、我々が『教育課程の一部』と定義すれば、それは単なる『学校運営』です。……三時十五分。そろそろ、最初の問い合わせが来る頃ですね」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、職員室の電話が鳴った。
消えた生徒の親からだ。
「……はい、学校です。ああ、〇〇さんの保護者様ですね。ええ、ええ。……いえ、ご心配には及びません」
電話を取ったのは、顔色一つ変えない学年主任だった。彼は、手元に配られた『想定問答集』をなぞるように、滑らかな口調で嘘を吐き始めた。
「実は今日から、二組の生徒さんたちには、事前の通知なしで行う『緊急避難・自立型キャンプ』を実施しておりまして。……はい、機密保持と自立心育成のため、スマートフォンは学校でお預かりしております。……ええ、数日はお帰りになれませんが、教育委員会指導のもと、安全は確保されておりますので」
横で聞いていた佐藤は、あまりの寒気に吐き気を覚えた。
キャンプ。自立心。
友達が魔法陣に呑まれて消えたという恐怖の事態が、主任の口を通るたびに「意識の高い教育活動」へと変換されていく。
「ふざけるな……。そんな嘘、明日になればバレるに決まってるだろ!」
佐藤が叫んだが、教育委員会の役員は冷ややかに笑った。
「明日までに、彼らが戻ってくれば万々歳。戻ってこなければ……その時は『移動中の不慮の事故』あるいは『集団失踪』として、改めて『再定義』すればいい。……我々の仕事は、今この瞬間のパニックを防ぎ、学校の、ひいては市のブランドを守ることです。……校長、判を押してください」
「あ、ああ……」
校長が、震える手で認印を書類に押し当てる。
その瞬間、三十一人の人間が消えたという事実は、書類上から完全に抹消された。
「……警部補」
佐藤が警部補の袖を引いた。警部補は、やり場のない怒りで拳を握りしめ、血が滲むほど唇を噛んでいた。
「……佐藤、これ以上は無駄だ。こいつら、魔法陣よりタチが悪え。自分たちの作法に合わない現実は、存在そのものを『無かったこと』にしやがる」
警部補は、かつて自分がトラックの運転手に「イノシシ」と書かせた時のことを思い出していた。
あの時は一人だった。だが今度は、組織全体が、都市一つを丸ごと騙そうとしている。
「おい、教育委員会の先生よ。……あんたらの言う『自立型キャンプ』とやらに、魔法陣の映像はどう説明するんだ?」
「映像、ですか?」
役員は、首を傾げた。
「ああ、あれなら先ほど、ネットワークの保守点検を装って『クリーニング』を済ませました。……機材のバグ、あるいはハッキング。それが本市の公式見解です。……刑事さん、あなたのスマホに入っているバックアップも、今ごろは遠隔操作で消去されているはずですよ」
「……ッ!!」
警部補が慌ててスマホを取り出す。画面には『データが破損しています』という無慈悲なメッセージが表示されていた。
完璧だった。
学校という閉鎖空間、教育委員会という強固な城壁。
その中で、異世界へと旅立った少年たちの痕跡は、一分、一秒ごとに、丁寧な「大人の手」によって消されていく。
夕暮れの校庭。
佐藤は、誰もいない二年二組の教室を見上げた。
窓ガラスには「耐震補強工事中」のシートが貼られ始め、中を覗くことすらできなくなっている。
「……みんな、あっちで楽しくやってるのかよ」
佐藤は、ポケットの中で震え続けているスマホを見つめた。
クラスのグループLINE。自分が送った「どうした?」というメッセージには、今も『既読』がつかない。
この世界では、彼らは「キャンプ中」ということにされ、教育委員会の書類の中で、少しずつ「退学」や「除籍」という事務的な処理に向かって進んでいくのだろう。
佐藤は、校門の向こうで中指を立てた。
自分たちを捨てていった友人たちへ。そして、彼らを「いなかったこと」にする大人たちへ。
「……キャンプ、楽しんでこいよ、クソ野郎ども」
その目からは、熱によるものか、怒りによるものか分からない涙が、一筋だけこぼれ落ちた。




