第6話 最終話:下請けの地獄と、異世界への殺意
翌朝。
徹夜の事情聴取を終えて警察署を出た時の、あの神聖なまでの感動は、数時間の泥のような眠りの後に雲散霧消していた。
男は重い足取りで、勤務先である零細運送会社の事務所へと向かった。
車庫の隅には、昨夜レッカーで運ばれた十トンの愛車が鎮座していた。朝の光の下で見れば、その無惨さは際立っている。中央がV字にひしゃげたバンパー、砕けたフロントグリル、剥き出しになったラジエーター。
人を殺さなかった証拠。そして、自分が赤信号を見落としたという、消しようのない過失の証拠だ。
「……おはようございます」
事務所のドアを開けると、中には一睡もしていないのであろう所長が、般若のような顔で待ち構えていた。
デスクの上には、男が昨夜提出させられたドライブレコーダーのSDカードが、忌々しげに置かれている。
「……おう。戻ったか。一応、おめでとうと言っといてやるよ。人殺しにならなくて済んだんだからな」
所長の声は、氷点下まで冷え切っていた。
男は力なく頭を下げる。
「すみませんでした。おれの不注意で、車をあんなに……」
「不注意? ほう、不注意か」
所長は、ノートパソコンの画面を男の方へ向けた。
そこには、警察署で何度も見た、あの『魔法陣』が一時停止されていた。
「これ、なんだ? 映像のノイズか? それともバグか? 警察にはそう言って通したらしいな。警部補からわざわざ電話が来たよ。『これはイノシシだ、いいね?』って、あいつ震え声で言ってたぞ」
所長はモニターを指先で強く叩いた。
「だがな、俺の目は節穴じゃねえ。……これ、どう見てもファンタジーの魔法陣だろ。あのガキ、異世界に行きやがったな?」
男は沈黙した。現場の当事者同士にしかわからない、異様な連帯感。
所長は深くため息をつき、背もたれにのけぞった。
「警察が自損事故で処理してくれたのは、不幸中の幸いだ。人身事故ならウチは今頃、元請けから契約解除を食らって全員路頭に迷ってた。……だがな、現実はそう甘くねえぞ」
所長が差し出したのは、数枚の書類だった。
「まず、無事故手当。当然今月からカットだ。それから、今回の自損事故でウチの保険の等級が下がる。会社全体の保険料が爆上がりだ。……さらに、あのトラック、修理に一ヶ月はかかる。その間の休車損害、お前どう落とし前つけるつもりだ?」
突きつけられた数字は、男の月給の数倍に膨れ上がっていた。
借金地獄とまではいかない。だが、これから数年間、ボーナスや手当は一切期待できない。結衣に約束した遊園地も、少し先延ばしにするしかないだろう。
「……それからな、これが一番重要だ」
所長が突き出したのは、一枚の真っ白な報告書だった。
「元請けの〇〇運輸に提出する事故報告書だ。……ここに書け。『赤信号を見落とし、パニックになってハンドルを切り損ね、電柱に激突した』とな」
「えっ……でも、警察にはイノシシって……」
「イノシシなんて報告してみろ! 『そんなもんが跳ねて走ってるような危険なルートを通らせるな』って元請けからクレームが来るだろうが! 電柱だ! 電柱を避けようとして自爆した。お前の百パーセントの不注意だ。いいな?」
男の喉の奥から、苦いものがせり上がってきた。
真実――魔法陣で消えた高校生――など、この世界の誰一人として望んでいない。
警察は己のキャリアのためにバグと言い、会社は信用を守るために自損だと言う。
結局、残されたのは、泥にまみれて報告書を捏造し、全責任を背負い、ひたすら謝罪を繰り返す、しがないトラック運転手の姿だけだった。
その日の午後。
男はフラフラの体を引きずり、約束通り娘の運動会へと向かった。
園庭では、子供たちの元気な声が響いている。
青空の下、結衣が一生懸命に走る姿を、男はビデオカメラで追った。
『パパ! ちゃんと撮ってる!?』
結衣が笑顔で手を振る。
男は笑い返そうとした。だが、ファインダー越しに見える自分の顔は、疲労と寝不足で幽霊のように青白い。
昨夜、あの横断歩道で一人の少年が消えた。
彼は今頃、どこか別の世界で、聖剣でも手に取っているのだろうか。
絶世の美女に囲まれ、チート能力とやらで魔王を倒し、英雄として称えられているのだろうか。
「……ふざけんなよ」
ビデオカメラを回しながら、男の口からボソリと独り言が漏れた。
「こっちはよ……。泥水啜って、嘘の報告書書いて、お前のカバンを側溝から拾って……。お前のせいで、来年の手当まで吹き飛んだんだぞ」
あいつはいい。
面倒な書類仕事も、保険の等級ダウンも、元請けへの謝罪も、上司のネチネチした説教もない世界へ行ったのだ。
何もかもをこの世界に放り投げて、自分一人だけ『主人公』になりやがって。
「……おい、異世界のガキ」
男は、ファインダーの向こうの青空を睨みつけた。
その視線は、この空のずっと先、次元の壁を越えたどこかにいるであろう『被害者』に向けられていた。
「魔王くらい、秒で倒してこいよな。……あと、あっちにトラックがあったら、絶対に飛び出すんじゃねえぞ。ブレーキは、そう簡単には利かねえんだからな……ッ!」
結衣がゴールテープを切る。
拍手喝采の中、男は一人、カメラを握りしめたまま、やり場のない殺意を込めて、高く、高く中指を立てた。
それが、ファンタジーという理不尽に人生をかき乱された、一人の労働者の、精一杯の反撃だった。
(完)




