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第5話:調書の捏造と、雨の中の男泣き

 警察署の取調室。

 先ほどまでの殺気立った空気は消え失せ、そこには言葉にできないほど濃厚な「徒労感」だけが漂っていた。

 パイプ椅子の背もたれに深く体を預けた警部補は、天井の蛍光灯を死んだような目で見つめている。その手元には、空になった胃薬の瓶が転がっていた。

「……いいか、運転手。もう一度だけ言うぞ」

 警部補は、ひどく掠れた声で口を開いた。

「お前のトラックのフロントガラスに映っていたアレ。……あの光る幾何学模様。あれは、何かの電波干渉による映像のノイズだ。あるいは、雨粒がヘッドライトを反射して偶然そう見えただけの、光学的なバグだ。……そうだな?」

 男は、必死に頷いた。

「は、はい! 間違いありません! ノイズです! どっからどう見ても、デジタル特有のバグでした!」

「よし」

 警部補は重々しく頷くと、キーボードを叩き始めた。カチャカチャという乾いた音が、静かな取調室に響く。

「……衝突の直前、路上に大型の野生動物が飛び出してきた。運転手はこれを回避しようと急ブレーキを踏んだが、路面が濡れていたためスリップし、そのまま対物衝突。……衝突の衝撃により、車両前部が大破。……現場にいたはずの歩行者らしき影については、衝突直前に歩道側へ退避した、あるいは最初から存在しなかった可能性が高い」

 警部補の手が止まる。彼はモニターを睨みつけながら、自分自身に言い聞かせるように言葉を続けた。

「……路上に残されたスマートフォンおよび手提げバッグは、以前から現場に投棄されていた遺失物と判断。被害届が出ていない以上、事件性なし。……本件は、運転手の不注意による単独の『自損事故』として処理する。……これでいいな?」

 それは、警察官としてのプライドを捨て、己の平穏と事務処理の整合性を守るための、完膚なきまでの「捏造」だった。

 だが、そうするしかなかったのだ。始末書に「魔法陣」や「異世界」などという単語を一つでも入れれば、翌朝には本庁から精神鑑定を勧められ、キャリアは文字通り終了する。

「ありがとうございます……ありがとうございます……!」

 男は机に額を擦りつけるようにして、何度も何度も頭を下げた。

 人殺しではない。ひき逃げ犯でもない。自分はただ、雨の夜にイノシシか何かを避けようとしてトラックをぶつけた、運の悪い運転手になったのだ。

「勘違いするなよ。お前が赤信号を見落とした事実は消えん。点数は引かれるし、会社にはこってり絞られるだろう。……だがな、少なくとも『被害者のいない殺人』で俺の胃に穴を空けるのだけはやめてくれ」

 警部補は吐き捨てるように言うと、数枚の書類を男の前に差し出した。

「ここに署名しろ。交通事故証明書は『自損事故』で発行してやる。……さっさと行け。二度と俺の前に現れるな」

 解放されたのは、深夜を過ぎた頃だった。

 警察署の重い玄関扉を開けると、外はまだ冷たい雨が降り続いていた。

 アスファルトに反射する街灯の光。遠くを走る車の走行音。

 つい数時間前まで、自分はこの世界から永遠に隔離されるのだと思っていた。冷たい独房の中で、一生消えない罪悪感に苛まれ、家族との絆を断ち切られ、絶望の中で朽ちていくのだと。

 男は雨の中に立ち尽くし、天を仰いだ。

 雨粒が顔を打ち、涙と混ざり合って頬を伝う。

「ああ……あああああ……ッ!!」

 声にならない叫びが、喉の奥から溢れ出した。

 男は、警察署の前の歩道に崩れ落ちるように膝をついた。泥水が作業着を汚すが、そんなことはどうでもよかった。

 俺は、人殺しじゃなかった。

 俺の手は、誰の血でも汚れていない。

 明日、あいつが消えたあのアスファルトを、俺はもう一度自分の足で歩くことができる。

「結衣……パパ、行けるぞ……! 明日、お前の運動会に、ちゃんと行けるんだ……ッ!」

 雨に打たれながら、男は子供のように声を上げて泣いた。

 情けなくて、泥臭くて、けれどこの上なく真実な、安堵の男泣きだった。

 胸の中にあった巨大な岩が取り除かれたような、不思議な軽やかさ。

 男は震える手でスマートフォンを取り出し、妻への短いメッセージを送った。

『仕事でトラブルがあったけど、今終わった。明日の朝には帰る。運動会、絶対に行くから』

 送信ボタンを押すと、画面の向こうで結衣の笑顔の写真が光った。

 この日常を守るためなら、トラックの修理代がいくらかかろうが、所長にどれだけ怒鳴られようが、そんなものは安い代償だと思えた。

 ……しかし、この時の男はまだ知らなかった。

 ファンタジーがもたらした不条理の後始末が、現実の世界においてどれほど「地味で、執拗で、理不尽な苦労」となって自分に襲いかかってくるのかを。

 男は、濡れた顔を拭い、一歩を踏み出した。

 その足元には、数時間前に『彼』が消えていったあの横断歩道へと続く道が、どこまでも黒く光りながら伸びていた。

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