第3話:疑念と取り調べの冷たい雨
黄色い規制線(KEEP OUT)のテープが雨風に煽られ、バタバタと耳障りな音を立てていた。
現場の県道はすでに完全に封鎖されている。数台のパトカーが放つ赤色灯の光に加え、後から到着した鑑識班が展開した強力なハロゲン投光器が、雨の夜の交差点を真昼のように白々と照らし出していた。
男はパトカーの後部座席に押し込まれていた。
暖房は効いているはずなのに、濡れた作業着から体温が奪われ、奥歯がカチカチと鳴り止まない。ドアの外には若い警察官が立ち、逃亡や自殺を防ぐために男から片時も目を離さなかった。
窓ガラス越しに見えるのは、自分が乗ってきた十トントラックの無惨な姿だ。そしてその周囲を、青い雨合羽を着た大勢の鑑識課員たちが、這いつくばるようにして調べている。
「……おい、鑑識。どうだ」
パトカーのドアが開き、先ほど男の胸倉を掴み上げた初老の警部補が顔を出した。男に向かってではない。トラックの下から這い出てきた、鑑識班の主任に向けた言葉だった。
「警部補。……それが、妙なんです」
「妙? なにがだ。これだけ派手にフロントがひしゃげてるんだ。バンパーの裏か、車軸のあたりに肉片か衣服の繊維がこびりついてるだろう。ルミノール反応は出たか?」
警部補は苛立たしげに煙草に火をつけようとしたが、雨ですぐに消えてしまい、舌打ちをしてそれをアスファルトに捨てた。
鑑識の主任は、困惑したように首を横に振った。
「いえ、それが……『何もない』んです」
「あ?」
「フロントバンパー、ヘッドライトの破片、プロペラシャフト、後輪のダブルタイヤの間まで徹底的に調べました。ですが、血液はおろか、皮膚片一つ、衣服の繊維一本、毛髪すら検出されません。ただの雨水と、泥だけです」
警部補の眉間に出現した深いシワが、さらに険しくなった。
「馬鹿な。この凹み方を見ろ。十トンのトラックだぞ? 生身の人間とこの速度で衝突して、物理的な痕跡が一切残らないなんてあり得るのか?」
「あり得ません。……普通なら」
鑑識の主任は、投光器に照らされた水たまり――被害者のスマートフォンと手提げバッグが落ちていた場所を指さした。
「被害者の所持品には、タイヤで轢かれた痕跡もなければ、血の一滴も飛沫していません。まるで、トラックが衝突する直前に、持ち主の人間だけがその場から『蒸発』したかのようです」
「オカルト雑誌の読みすぎだぞ、主任。人間が蒸発してたまるか」
警部補は吐き捨てるように言うと、パトカーの中でガタガタと震えている男を鋭く睨みつけた。
「おい、運転手。お前、衝突してから我々が到着するまでの間、どこかへ行ってないだろうな? 近くの側溝や、あの雑木林の中に死体を投げ捨てたんじゃないのか?」
「ち、違いますっ! おれはずっとここに……っ! 轢いた直後に車を降りたら、もう誰もいなかったんです! 本当です!」
「嘘をつけ!!」
警部補の怒声がパトカーの中に響き渡る。
だが、その確信に満ちた怒りは、直後に到着した「増援」によって根底から揺さぶられることになった。
「警部補! 警察犬、到着しました!」
ワンボックスカーから降りてきたのは、鑑識課の警察犬係だった。雨合羽を着せられた屈強なシェパードが、訓練された静かな足取りで現場へと入ってくる。
「よし、ちょうどいい。被害者のカバンから匂いを取らせろ。遠くへは運べていないはずだ。絶対にこの近くの茂みか、どこかに隠してある」
警部補の指示を受け、ハンドラーの警察官が、証拠品袋に入れられた被害者の手提げバッグをシェパードの鼻先に近づけた。
フン、フン、と鋭く匂いを嗅いだシェパードは、すぐに鼻先をアスファルトに近づけ、リードを引っ張り始めた。
「よし、追え! カール!」
ハンドラーの掛け声とともに、シェパードは迷いのない足取りで横断歩道へと歩き出す。パトカーの中からそれを見ていた男は、「やめてくれ、そこには何もないんだ」と絶望的な祈りを捧げていた。
シェパードは、横断歩道の中央――まさにトラックが衝突した地点、被害者のスマホが落ちていた場所まで一直線に進むと、そこでピタリと足を止めた。
そして。
「……クゥン?」
シェパードは突然、困惑したように鼻先を高く上げ、虚空の匂いを嗅ぎ始めた。右へ、左へ、ぐるぐるとその場を回り、何度も何度も雨粒の降ってくる中空を見上げる。
やがて、完全に途方に暮れたように「キャン、クゥーン」と情けない声を上げ、冷たい水たまりの中にペタンと座り込んでしまったのだ。
「ど、どうしたカール! 追え! 匂いはどこへ行った!」
「ダメです、警部補! カールが完全に混乱しています。まるで……」
ハンドラーの警察官が、信じられないものを見るような顔で警部補を振り返った。
「まるで、匂いが『空に向かって消滅している』ような反応です。足取りが、ここから一歩も続いていません……!」
現場を、異様な静寂が包み込んだ。
雨音とアイドリング音だけが響く中、大勢の警察官たちが、座り込んで首を傾げるシェパードと、大破したトラックのバンパーを交互に見つめていた。
「……馬鹿な」
警部補の口から、無意識のうちにその言葉が漏れた。
長年、殺人やひき逃げ現場を歩いてきたベテランの勘が、強烈な警告音を鳴らしている。
『この現場は、何かが根本的におかしい』と。
血の一滴もない車体。蒸発した人間。空中で途切れた匂い。
すべての物理法則と警察のロジックが、横断歩道の真ん中で完全に破綻していた。
「……くそっ」
警部補は胃の腑のあたりを強く押さえた。昨日から痛んでいた胃潰瘍の気配が、急激に悪化してキリキリと自己主張を始めている。
彼は忌々しげにパトカーのドアを開け、後部座席で青ざめている男に向かって、ひどく疲れた声で言った。
「……おい、運転手」
「は、はい……っ」
「お前のトラックのフロントガラスについてるアレ。ドライブレコーダーだな?」
警部補の指差す先には、トラックのルームミラーの裏で、小さな赤いLEDランプを点滅させている黒い機械があった。
「SDカードを出せ。署に戻って、映像を確認する」
その言葉を聞いた瞬間、男の脳裏に『ドライブレコーダーのSDカード抜け! 今すぐだ!!』という所長の怒鳴り声がフラッシュバックした。
だが、そんなことができるはずもなかった。すでに十人以上の警察官に囲まれ、隠蔽工作など不可能だ。
男は力なく頷いた。
あの時、自分のトラックの前で何が起きたのか。
その真実が、いよいよ白日の下に晒されようとしていた。




