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第2話:存在しない『被害者』と運行管理者への報告

 氷のように冷たい雨が、アスファルトにへたり込んだ男の作業着を容赦なく濡らしていく。

 男は震える手で作業着のポケットから自分のスマートフォンを取り出した。画面には雨の雫がこびりつき、指先が小刻みに痙攣しているせいで、パスコードがうまく入力できない。生体認証も、泥と雨水にまみれた指では弾かれてしまう。

 焦燥感で息を荒げながら、作業着の袖で乱暴に画面を拭い、ようやくロックを解除した。

 一一〇番。その三桁を押そうとした指が、空中でピタリと止まる。

 警察よりも先に、絶対に連絡しなければならない相手がいる。下請けの運送会社で働くドライバーにとって、それは血の掟のようなものだった。

 男は連絡先の『運行管理者・所長』のアイコンをタップした。

 プルルル、という無機質なコール音が、耳元で雨音に混じって響く。一回のコールが、永遠のように長く感じられた。

『……はい、配車』

 三コール目。不機嫌そうな、しかし事務的な中年の男の声が耳に飛び込んできた。暖かい事務所のデスクで、コーヒーでも飲みながらモニターを眺めているのだろう。現場の凄惨な空気とは対極にある、ひどく平和な声だった。

「しょ、所長……! オレです、〇〇です……!」

『おお、お疲れ。どうした? もうセンター着く頃だろ。今日で上がりだからって気ィ抜くなよ』

「ちが、違います! 事故です! 事故りました……!」

『……はぁ?』

 電話口の空気が、一瞬で凍りついたのがわかった。

『おい、ふざけんなよ。相手は!? オカマ掘ったのか!?』

「人です……高校生を、横断歩道で……」

『なっ――! お前、バカ野郎!! 救急車は呼んだか!? 意識はあるのか!?』

 所長の怒鳴り声がスピーカーを震わせる。男は泣きそうな声で、目の前の信じがたい光景を報告した。

「それが……いないんです。ブレーキが間に合わなくて、ドカンって思いっきり轢いた確かな感触があって、トラックのバンパーも大破してるのに……人間だけが、どこにもいないんです。血も、肉片も、何もないんです!」

『はぁ? お前、寝ぼけてんのか!? 疲労で幻覚でも見たんだろ!』

「幻覚じゃありません! トラックの目の前に、あいつが持ってたスマホとカバンだけが落ちてるんです!!」

 電話の向こうで、所長が息を呑む気配がした。数秒の、重苦しい沈黙。

 男は「どうすればいいですか、すぐ警察を」と言いかけたが、所長の口から発せられたのは、耳を疑うような言葉だった。

『……おい。マジで人間がいねえんだな? 血の一滴も出てねえんだな?』

「は、はい……」

『……いいか、よく聞け。お前がぶつかったのは、ガードレールだ』

「……え?」

『ガードレールか、電柱か、あるいは飛び出してきたイノシシだ! いいな!?』

 男の思考が停止した。所長の声は、パニックを通り越して、冷酷な『保身』のトーンへと変わっていた。

『ウチはな、先月の労働基準局の監査で目ェつけられてんだよ。ここで人身、しかも歩行者を撥ねたなんて報告が上がってみろ。元請けの〇〇運輸から即刻取引停止だ。ウチみたいな零細の下請けはな、看板に傷がついたら一発で倒産なんだよ!!』

「な、なに言ってるんですか! でもカバンとスマホが――」

『そんなもん、たまたまそこに落ちてたゴミだろ! 蹴り飛ばして側溝にでも捨てとけ! いいか、絶対に警察に人身事故だなんて言うな! 物損事故で通せ! じゃないとお前の人生も、ウチの社員全員の生活も終わりだぞ!!』

 会社の存続。元請けの顔色。同僚たちの生活。

 所長から叩きつけられた『大人の責任』の連鎖が、男の喉を締め付ける。

 しかし、そんな無茶苦茶な隠蔽工作が通用するわけがない。十トンの質量で撥ねたのだ。人間がいようがいまいが、警察が現場を見れば一目で異常事態だと気づく。

「無茶です! バンパーもヘッドライトもベコベコで、どう見ても――」

 男が反論しようとした、まさにその時だった。

 ウゥゥゥゥゥッ!

 雨の闇を切り裂くように、けたたましいサイレンの音が急接近してきた。赤色灯の強烈な光が、雨粒を乱反射させながら周囲を赤く染め上げる。

 対向車線のドライバーか、近隣の住民が、大破して停まっている不審な十トントラックを見て通報したのだろう。警察の到着は、最悪のタイミングだった。

「……あ、あ……」

『おい、どうした!? 今のサイレン、もうサツが来たのか!?』

「き、来ました、警察が……」

『チッ! いいか、絶対余計なこと言うな! ドライブレコーダーのSDカード抜け! 今すぐだ!!』

 ブチッ、と一方的に通話が切られた。

 男は雨の中に立ち尽くしたまま、画面の暗くなったスマートフォンを握りしめていた。逃げ場など、どこにもなかった。

 二台のパトカーから、雨合羽を着た四人の警察官が降りてくる。

 強力なフラッシュライトの光が、立ち尽くす男の顔面を射抜いた。眩しさに男が顔をしかめると、ライトの光はゆっくりと男から逸れ、トラックのフロント部分へと向けられた。

「運転手さんですね。通報があって来ました。お怪我は?」

 最初は、単なる事故対応の事務的な声だった。

 しかし、ライトがひしゃげた巨大なフロントバンパーを照らし出し、アスファルトに黒々と残る猛烈なスキッドマーク(ブレーキ痕)を捉えた瞬間、警察官たちの動きがピタリと止まった。

「……おい、なんだこの凹み方は」

 年配の警察官の呟きに、現場の空気が一変した。

 さらに別の若い警察官のライトが、トラックの真正面、雨だまりの中に落ちている『画面の割れたスマホ』と『手提げバッグ』を照らし出した。

「警部補、これ……被害者の所持品じゃありませんか?」

「…………」

 年配の警官――警部補と呼ばれた男の目が、すっと細められた。

 彼は無言で男に歩み寄ってきた。先ほどまでの「事故当事者を気遣う警察官」の顔はそこにはない。相手の嘘を見透かそうとする、獲物を狙う猟犬のような冷酷な目だった。

「……交番〇〇から本部。現場到着。大型トラックと歩行者の接触事故と推測されるが……現場に被害者の姿が見当たらない。至急、応援と鑑識班を要請する。容疑はひき逃げ、あるいは――」

 無線のマイクに向かって低い声で告げる警部補の言葉に、男はヒッと喉を鳴らした。

 死体遺棄。

 言葉には出さなかったが、警部補の目は明確にそう告げていた。

「運転手さん」

「ち、違います……っ! おれは隠してなんかいません!」

「まだ何も聞いていませんよ」

 男がパニックになって叫ぶと、警部補は氷のような冷たい声で遮った。

「これだけ激しい衝突の痕跡があって、被害者の持ち物も落ちている。だが、人間だけが煙のように消えるわけがない。……ですよね?」

「ほ、本当なんです! 轢いた瞬間に、誰もいなくなって――」

「ふざけるなッ!!」

 突然の怒号が、雨の夜に響き渡った。警部補が男の胸倉を掴み上げる。

「どこにやった! トラックの荷台か!? それともどこかの茂みに投げ捨てたか! 被害者をどこに隠したって聞いてるんだよ!!」

 男の顔に、警部補の唾と雨水が飛ぶ。

 完全に『殺人犯』としてロックオンされたのだ。論理的な説明など一切できない。会社からは見捨てられ、警察からは犯罪者として追い詰められる。

 男の心は、冷たい雨の中で完全にへし折られていた。

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