第86話 深夜の出汁茶漬けと『賢人』の告白
船内時計は深夜二時を回っていた。
『庭師』という異物を抱えたマッコウクジラは、静寂の海を滑るように進んでいる。
俺は一人、キッチンに立っていた。
眠れないわけではない。ただ、昼間の騒がしさが引いた後のこの時間が、妙に腹を空かせるのだ。
「……さて、やるか」
俺は冷蔵庫から、ラップに包んでおいた皿を取り出した。
昼間の作業で出た、『スター・ツナ』の切り落としだ。
これを、特製のタレ――合成醤油に『みりん風調味料風』と少量の酒を煮切ったもの――に、漬け込んでおいたのだ。
鮮度維持されるフリーザーではなく、手製の小型冷蔵庫にしまうことも忘れていない。そうしないと味が染みないからな。
表面が飴色に染まり、ねっとりとした艶を帯びた「づけ」の状態だ。
丼に、熱々の合成米をよそう。
その上に、ルビー色に輝くマグロのづけを並べる。一切れ、二切れ、三切れ……贅沢に、白飯が見えなくなるまで敷き詰める。
海苔もワサビもない。
だが、これだけで十分すぎるご馳走だ。
パサパサの合成米を単に丼で食うには、俺には工夫がいる。
今夜はもう一手間加える。
コンロの小鍋では、黄金色の液体がふつふつと沸いていた。
スター・ツナのアラを焼き、じっくりと煮出した、特製の「魚介出汁」だ。
「……いい香りだ」
湯気と共に立ち上る、磯の香りと焦げた骨の香ばしさ。
俺が鍋を持ち上げた、その時だった。
「……ふむ。夜陰に乗じてまた何か美味いものを作っているな?」
背後からかけられた声に、俺は鍋を持ったまま振り返った。
そこには、寝間着のラフなシャツを着たシュタイン教授が立っていた。
まるで忍者のような足音のなさだ。
「……鼻が利きますね、教授」
「研究者の性分でね。未知の現象と美味いものの気配には敏感なのだよ」
教授は悪びれもせず、カウンターの席に腰を下ろした。
拒否権はないらしい。
俺は無言で溜息をつき、もう一つ丼を取り出した。
◇
二つの丼がカウンターに並ぶ。
俺は熱々の出汁を、丼の縁から静かに注ぎ入れた。
ジュゥ……。
微かな音と共に、飴色のマグロの表面が白く変化していく。
熱湯のような出汁を浴びた表面はキュッと締まり、内側はレアなまま。
出汁の熱で脂が溶け出し、透明だったスープにエネルギッシュな金色の膜が広がっていく。
「ほほう……野趣溢れる、しかし繊細な香りだ」
「どうぞ。熱いうちに」
教授はスプーンを手に取り、まずはスープを一口啜った。
「……ふぅむ」
老賢人は深く息を吐き、眼鏡を曇らせた。
「染みるな。五臓六腑に直接流れ込んでくるようだ」
続いて、白く変色したマグロと飯を一緒に掬い上げる。
ハフハフと熱い息を吐きながら口へ。
教授の目がカッと見開かれる。
「表面はホロリと崩れ、中はねっとりと舌に絡みつく。この温度差! そして出汁を吸った飯の甘み! これは……背徳の味だ」
俺も自分の丼を掻き込む。
熱い出汁と、冷たい刺身のコントラスト。
半生の身を噛みしめると、温められた脂がジュワリと溢れ出す。
深夜の胃袋に、優しくも力強い旨味が落ちていく快感。
しばらくの間、キッチンにはズルズルと茶漬けをすする音だけが響いた。
◇
丼が空になり、教授が満足げに茶もどきを啜った頃合い。
彼は不意に、真剣な眼差しを俺に向けた。
「……アキト君。君は何者だね?」
直球の問いかけに、俺は茶碗を置く手を止めた。
「この船のスペック。この銀河の常識から外れた『食』への執着と知識……。君は、まるで『外』から来た人間のように振る舞う」
室内の空気が張り詰める。
俺は教授の目を見返した。探るような色はない。ただ純粋な知的好奇心と、ある種の確信めいた光が宿っている。
「……さあな。ただの食い意地の張った輸送屋ですよ」
俺はとぼけた。
だが、教授はふっと笑みをこぼした。
「ふふ、まあいい。君が話さないのなら、私はこれを誰かに告げるつもりはないよ」
彼はシャツの襟を正した。
「一宿一飯の恩義、と言ったかね。君の料理の腕は、君自身が思っている以上に価値がある。……少なくとも私にとっては、どんな機密情報よりも得難いものだ」
「そいつはどうも。……買いかぶりすぎですよ」
「謙遜は美徳ではないよ。……宇宙には、単一の惑星上の常識では考えられないようなことがよくあるものだ。このマグロのようにね」
教授は空になった丼を指先でなぞった。
「あの『蜘蛛』……ザイドが、私のことを重鎮と呼んだのは覚えているかね?」
「ええ。顔なじみのようでしたが」
「相違ない。……私は帝国の知識の殿堂、『賢人会』にその名を連ねているからな」
賢人会。
俺は眉をひそめた。ゲーム時代に直接と行かずとも関わりを持ったこともある。帝国の技術や歴史といった知識を管理する、最高諮問機関だ。
「多少の無茶や無法が許されるのは、何も監査がザルという訳では無いのだよ。……賢人会には、通常では触れられないような知識が集まる。それこそ、異なる宇宙、異なる次元からの来訪者についての情報もあるのだ。……どうかね?」
教授の目が、鋭く細められた。
それは冗談を言っている目ではなかった。
『プレイヤー』とまではいかずとも、俺がその『外からの来訪者』である可能性に勘付いている。
「……先生。あんた、何を知ってる?」
「何も。ただの仮説だ。……だがね」
教授は立ち上がり、去り際に俺の肩をポンと叩いた。
「君自身の正体よりも……私から見れば、ルシア君の方が危ういと言える」
「ルシアが?」
「彼女の設計思想、そしてあの異常なまでの自律学習能力。……あれは単なる高級モデルではない。私の目が確かならば、彼女は……」
教授は言葉を切り、意味深に笑った。
「おっと、これ以上は野暮というものか。……ご馳走だったよ、アキト君。素晴らしい夜食だった」
教授はヒラヒラと手を振り、闇の中へと消えていった。
残された俺は、冷めかけたお茶を見つめる。
(……ルシアが、危うい、か)
教授の言葉を反芻する。
確かに、ルシアはこの『マッコウクジラ』と同様に、俺がプレイしていたゲーム世界からそのまま出力された存在だ。
記憶が確かなら、彼女の入手クエストは帝国関連……それもかなり中枢に食い込む内容だったはずだ。
もし、この宇宙がゲームの世界とパラレルな関係にあるのなら。
彼女が単なるメイドであるはずがない。
教授の言う通り、彼女こそが最も「危うい」存在なのかもしれない。
深夜のキッチンに残った出汁の香りは、火の通った肉の香りとして、どこか謎めいた余韻を含んでいるように感じられた。
なんと、ちゃんと物語もやります。
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