第81話 38時間の眼球煮込み
38時間という、調理とも実験ともつかない長い時間が過ぎ去った。
マッコウクジラには、今、言葉を失うほどの濃厚な芳香が充満している。
醤油と砂糖が醸し出す甘辛い匂いに、生姜の爽やかな香りがアクセントとして加わる。そして何より、巨大生物のコラーゲンが熱で分解され、スープに溶け出した濃密な動物性の香りが、食欲を耐えがたく刺激してくる。
ピピピ、ピピピ……。
スチームコンベクションオーブンが、ミッションの完了を告げる電子音を鳴らした。
「……長かったな」
俺は大きく息を吐き、オーブンのハンドルに手を掛けた。
その時だ。
ウィィィン……。
低い駆動音と共に、整備用の小型ドローンがふらふらとキッチンに入ってきた。
普段ならカーゴルームで資材を運んでいる無骨な機体だが、今の動きはどこか生物的だ。カメラアイを赤く明滅させ、俺の足元にすり寄ってくる。
「……カボチャか?」
『――<<肯定>>……<<芳香>>……<<高エネルギー反応>>……』
ドローンのスピーカーから、ノイズ混じりの合成音声が漏れる。
機関室のバイオ・コアが、ドローンを依り代にして出張ってきたらしい。植物と機械の融合体であるこいつにとっても、この調理中に漏れ出した匂いは無視できない「栄養」の予感だったのだろう。
清掃ドローンのセンサーあたりが、空気中の特異な成分を拾ったのかもしれない。この船のドローンの管轄はルシアとバイオ・コアで分担されているからな。
「食い意地の張った野菜だ。……まあいい、特等席で見せてやるよ」
俺はドローンを軽く足で小突きつつ、オーブンの扉を開放した。
ボフッ!!
真っ白な蒸気が噴き出し、視界を覆う。
その向こうから現れたのは、黄金色に輝く「震える肉塊」だった。
直径80センチの眼球は、いくつかのブロックに切り分けられ、それぞれが自身の重みで形を保てないほどにトロトロに崩れている。硬かったはずの強靭な眼筋は繊維の一本一本まで解れ、分厚いゼラチン層は半透明の飴色に染まっていた。
「……すごい。見てよ社長、これ。現実のものとは思えないくらいプルプルしてる」
背後でミナが息を呑む。
俺は慎重にトングを伸ばした。少しでも力を込めすぎれば、肉が崩壊してしまう。そっと皿に移し、煮詰めて濃度を増した「煮汁」をたっぷりとかける。
「完成だ。『スター・ツナ眼球の真空長時間煮込み』」
テーブルに運ばれたそれは、もはや魚料理という概念を超越していた。
見た目は究極に煮込まれた豚の角煮や、牛テールの煮込みに近い。だが、その艶と透明感は、俺の知るどんな食材とも異なる「異世界の食べ物」としての存在感を放っている。
「い、いただきます……」
全員が席に着く。バイオ・コアのドローンも、ちゃっかりとテーブルの端に着陸し、カメラアイを皿に向けていた。
最初に動いたのはミナだった。
フォークを肉に突き刺そうとして――止まる。
「えっ……刺さらない。沈む……?」
フォークの重みだけで、肉が切れていく。彼女はそのまま肉片をすくい上げ、口へと運んだ。
「…………っ!!」
ミナの動きが止まった。大きく見開かれた瞳が小刻みに震え、ネズミ耳がピンと立つ。
「……なに、これ……」
彼女は口元を押さえ、信じられないものを見る目で皿を見た。
「噛んでないのに……消えた。口に入れた瞬間、お肉がスープになったよ!? 濃厚な旨味の塊が口の中で一気に弾けたみたい!」
「ふむ、そこまでかね?」
教授がナイフを使わずに肉を切り分け、口に運ぶ。
いや、舌と上顎で押し潰しただけだ。
「……なるほど。これは驚異的だ」
老教授が天井を仰ぎ、深く、重い溜息をついた。
「通常、これほどのゼラチン質は、加熱すればゴムのように硬くなるか、あるいは溶け出して消失するかの二択だ。だが、この料理はその『境界線』の上に奇跡的に留まっている。個体としての形状を保ちつつ、融点は口の中の温度とほぼ同一となっているのだ」
教授は恍惚とした表情で解説を続ける。
「舌に乗せた瞬間、ゼラチン質の網目構造が崩壊し、閉じ込められていたスター・ツナのエネルギー脂と、染み込んだ出汁の旨味が奔流となって味蕾を蹂躙する。……これは『食べる』のではない。『飲む』のでもない。口の中で『融合』しているとでも表現するのが相応しいだろう」
「……あぅ……んぅ……」
エマルガンドに至っては、食レポすら放棄していた。涙目で肉を口に運び、飲み込み、また運ぶ。その繰り返しだ。言葉にするリソースすら惜しいといった様子で、ひたすらに快楽物質を脳に送り続けている。
俺も自分の分を口にした。
――重い。味の質量が、桁違いだ。
煮汁の甘辛さ、生姜の香り、それらを全て包み込む圧倒的なコラーゲンの膜。眼筋の部分は、繊維がホロホロと解け、噛むたびに濃縮された肉汁が溢れ出す。そしてゼラチン部分は、舌にねっとりと絡みつき、妖艶な甘みを残して消えていく。
これを受け止められるのは、やはり酒か、米しかない。 俺は合成ライスを口に放り込んだ。パサついたデンプンが、濃厚な脂と混ざり合い、至高の炭水化物へと昇華される。
「……悪くない。いや、最高だ」
俺が唸ると、横で見ていたドローンが激しく明滅した。アームを振り回し、皿を指差している。
『――<<要求>>……<<サンプル>>……<<摂取>>……!』
「わかってるよ。ほら、お前にはこの『一番味が染みた端っこ』をやる」
俺は小皿に取り分けた肉をドローンの前に置いた。アームが器用に皿を掴むと、ドローンは即座に反転し、機敏な動きでキッチンの外へ消えていった。おそらく、本体のある機関室へ最短経路で運んでいったのだろう。
数秒後。ドローンのスピーカーから音声が流れた。
『――<<高効率>>……<<最適化>>……<<良好>>!!』
味についての言及はない。だが、エネルギー効率としてはこれ以上ない評価のようだ。喜んでいるならそれでいい。
「はは、植物にとってもうまいと感じるか」
ルシアもまた、静かに食事を進めている。彼女の場合、表情の変化は乏しいが、その周囲の空気が柔らかい。
「マスター。この食材の摂取により、私の感情エミュレータにおける『幸福』の定義が更新されました。……非常に、満ち足りた気分です」
「そいつは何よりだ」
38時間の苦労が報われた瞬間だった。
皿の上から、あれほど巨大だった眼球が消えていく。
残ったのは、満腹の吐息と、少しの寂しさだけだ。
煮付けの目の部分を食べるのって少数派だったりする……?
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