第8話 サシミの時間
航行中の暇つぶしと言えば、相場は食事と決まっている。
俺はブリッジの片隅で、やはり例の銀色のパウチと対峙していた。
今回のメニューは『サシミ』だ。
前回のカツ丼は失敗だった。
敗因は明確。
まず、温かさの欠如。カツ丼の魂は湯気にある。ハフハフと言いながら掻き込むのが最高、わかるな?
だが奴は常温だった。ぬるいカツ丼など、冷めたピザ以上に悲しい物質だ。
次に、要素の複雑さ。「衣のサクサク」「肉の弾力」「卵のトロトロ」「米の粒感」。これら異なる要素を、単一の食感の中に押し込めているのがダメだ。
そして何より落差。
限界まで膨れ上がった期待。脳内で美化された黄金色の記憶。それらが、「カツ丼の味がする消しゴム」という現実と衝突した瞬間、俺の精神は致命的なダメージを負ったのだ。
だが、刺身は違う。
単一の生魚の切り身。構造は極めてシンプルだ。
均一な身の質、ねっとりとした食感。冷たくても美味しい。これは、キューブのデフォルトである「冷たい粘土感」と親和性が高いのではないか?
魚の切り身だと言い張れば、脳が錯覚を起こしてくれる可能性が……ある。あるのだ。あるったらある。
「よし、開けるぞ」
俺は汎用合成食品『サシミ』を厳かに開封した。
出てきたのは、鮮やかな赤色の立方体だった。
赤いサシミ。つまりマグロだ。サシミと言えばマグロ、マグロと言えばサシミなのだ。
ちなみにこのゲーム、なぜか『サーモン』だけは単独のメニューとして存在していた。それ以外にはなかった。ここじゃあるのかもしれんが。
「……うーん、不味そうじゃ」
しげしげと眺める。
完全な立方体。六面のうち一面だけが薄く黒く塗られている。
「……皮か? いや、マグロのサクに皮はついてないだろ」
俺は鼻を近づけ、匂いを嗅いだ。
……間違いない。この香ばしくも塩辛い独特の香り。
これは醤油だ。疑う余地もなく醤油だ。もちろん粘土醤油だから、これだけ取り出して調味料にするのは難しそうだな。
そして、今宵の俺は一味違う。
そのままかじりつけば、また「巨大な消しゴム」の二の舞いだ。
俺は腰に差してあるサバイバルナイフを取り出した。
「料理とは、一手間である」
俺は慎重に刃を入れる。
ヌッ……という、食品を切る音にしては鈍重すぎる手応えが返ってくる。
やはり硬い。だが、俺はめげずに、ブロックを切り分けていく。
厚すぎず、薄すぎず。
箸で持ち上げた時に適度な重量感を感じられる、一般的な刺身の厚さ。
これだ。この厚みこそが、魚の旨味を感じさせる黄金比なのだ。
一枚、また一枚。
不揃いながらも切り分けられた赤い物体を、パッケージの上に並べていく。皿はないので、これが精一杯の盛り付けだ。
「……ほう」
並べてみると、意外と悪くない。
赤身の短冊。醤油レイヤーが縁に彩りを添え、まるで熟成された上質な刺身のような風格すら醸し出している。
……いや、光沢が全くないのにそんな訳がない。
「よし。これなら、刺身と言って差し支えない。……差し支え……いや、ないな」
俺は自分に強く言い聞かせ、その一切れをナイフの先で突き刺し、持ち上げた。
ずしりとした重み。
よし、シミュレーションは完璧だ。これは、新鮮なマグロの赤身だ。
「……いただきます」
俺は目を閉じ、それを舌の上に乗せた。
ひやりとした温度。
表面に塗られた醤油層から溶け出す、強烈な塩気と化学調味料の旨味。
そして、噛み締めた瞬間。
「…………」
食感は、粘土だ。
いや、切り分けた分前回よりもマシではある。
しかし「分厚いゴム」を噛むような絶望的な弾力が、歯を押し返してくる。
噛み切ろうとしても、ムニッ、ムニッ、と逃げるだけで、繊維がほぐれる感覚が一切ない。
まるで、文房具の消しゴムをそのまま口に放り込んだようだ。
咀嚼する。
もきゅもきゅという情けない音が脳に響く。
味は……うん、マグロだ。
パラメータ上はマグロの味がするように調整されている。
だが、それは高級寿司店のトロではない。
「スーパーの閉店間際に半額シールが貼られ、さらに冷蔵庫の奥で二日ほど忘れ去られ、解凍に失敗してドリップが出まくった赤身」の味だ。
生臭さと、鉄分と、そして奥底に潜む化学薬品のケミカルな後味。
「……不味いッ!!」
切りわけようが何だろうが、粘土は粘土だ。
口の中に広がるのは、魚の豊潤な脂ではなく、魚の匂いがする工業用ペーストだ。
しかも、切り分けたせいで見た目の物量が増加し、不快感が倍増している。
「はぁ……はぁ……」
またしても敗北した。
この宇宙には、俺の舌を満足させる食い物は存在しないのか。
いや、そもそもこの「テイスティキューブ」という概念が間違っているんだ。料理への冒涜だ。
絶望と空腹、そして行き場のない怒りで、殺意すら湧いてくる。
誰でもいい。何かを壊したい。
その時だ。
ブリッジに、けたたましいアラート音が鳴り響いた。
『警告。敵対的反応を検知。距離3000、急速接近中』
ルシアの冷静な声が、俺の怒りを現実に引き戻す。
「マスター。お食事中(笑)のところ失礼しますが、海賊です」
「笑ったろ今!!! ……チッ、だが丁度いい」
スクリーンを見ると、レーダーに赤い光点が無数に映し出されている。
コルベット艇が12機、中型艦が1隻。
意外と戦力が整っているな?
『おい、そこのデカブツ。聞こえてんだろ? カーゴを一つ投棄してくれりゃ、見逃してやるぜぇ!』
通信機から、あまりにテンプレ通りの汚い声が響く。このとおり輸送船に対する略奪は、戦闘というよりは「集り」に近い。
全貨物を要求すれば、被害者は死に物狂いで抵抗する。戦闘になれば海賊側も被害が出るし、弾薬費も馬鹿にならない。
だが「コンテナ一つ」ならどうだ?
輸送業者にとって、その被害額は保険でカバーできる範囲内で、場合によっちゃ外部の傭兵を雇うより安い場合もある。今回の輸送依頼にもそういう免責契約が含まれているしな。
だから、船団を組まない輸送艦は「通行料」として荷物を差し出す。海賊もそれを拾って帰る。
互いに血を流さない、実にエコノミカルでクソったれなシステムだ。
本来なら、この『マッコウクジラ』の巨体とルシアの存在による「ハッタリ作戦」で、手出しさせない予定だったが……。
ああ、こいつら数が多すぎて強気なのか。
いや、違うな。
こいつらは、俺たちがハッタリだろうが本物だろうが関係ないんだ。
『コンテナ一つ』という要求は、輸送船が抵抗して戦闘になるコストよりも安い、絶妙なラインだ。
戦って被害を出すより、払って済ませる方が合理的だと思わせる。
そういう、手慣れた小狡い『相場』なんだろう。
普段なら「面倒くさい」と思って、このシステムに従ったかもしれない。
だが、今の俺は違った。
不味いサシミのせいで、虫の居所が最悪だからだ。お前達の船もサシミにしてやろうか。
「ルシア」
「はい」
「あの馬鹿どもを沈めるぞ」
「承知いたしました」
俺は口に残るケミカルな後味を吐き捨てるように、操縦桿を強く握りしめた。
ちょうどいい。このやり場のない食への怒りをぶつけるサンドバッグが欲しかったところだ。
面白かった、続きが楽しみ、と思っていただけたら「★」をポチッと!
アキトの明日の夕飯が少しグレードアップするかもしれません。よろしくお願いします!




