第61話 黄金色のフレンチトーストと、最初の「美味しい」
シュタイン教授と助手のエマルガンド、そして大量の実験機材が運び込まれたマッコウクジラの機関室は、無数の測定装置と解析機材が詰め込まれ、足の踏み場もないほどの即席ラボへと変貌していた。
「よし、接続完了。循環ポンプ、出力安定」
教授が満足げに頷く。
予備コンソールに直結されていた『バイオ・コア』――電気を食うカボチャは、今は教授が持ち込んだ透明な円筒形のタンク『循環式培養液槽』に収められていた。
緑色の液体の中で、コアが心地よさそうに明滅している。
ただの剥き出し配線だった以前と比べれば、随分と豪華な「寝床」だ。
「うう、暑いです……。湿度も高くて、なんだか煤の匂いがします……」
一方、助手のエマルガンドは早くもグロッキー気味だ。
彼女がいるのは、コアのすぐ近くにある『船内農園』の区画。
ヘパイストス原産の『耐熱ツタ』を育てるため、エンジンの排熱と排気を循環させているこの場所は、高温多湿で煤っぽい環境になっている。
「あの、教授……なんで艦内で植物が? しかもこんな過酷な環境で……」
「文句を言うな。この環境こそが、彼らにとっての楽園なのだよ。それに、この耐熱ツタの新芽は食べられるそうだ」
「た、食べられるんですか……?」
エマルガンドは汗を拭いながら、青々と茂るツタを困惑と驚愕の入り混じった眼差しで見つめている。
こいつ、絶対にフィールドワークに向いてないタイプだろ。なんで連れてこられたんだ。
その時、俺の携帯端末が振動した。
『手術完了よ。とびきりのを奢ってやりなさい』
ヴァーナからの通信だ。
俺は安堵の息を吐きつつ、苦笑いで答えた。
「無茶言うなよ。この街に『とびきりの食材』なんて売ってないだろ? あるのはテイスティキューブか、あの奇妙な科学料理だけだ」
「あら、そう? ま、精々腕を振るうことね。彼女、ずいぶん楽しみそうにしていたわよ」
通信が切れる。
やれやれ、難題を出されたものだ。
だが、その会話を聞いていたシュタイン教授が、何やら思わしげに口元を歪めた。
「……ふむ。とびきりの食材、か」
◇
数十分後、ルシアが船に戻ってきた。
外見に変化はない。いつもの無表情で、いつものメイド服だ。
だが、その挙動が少しだけおかしい。
タラップを登る足取りが慎重で、時折、何もない空間を見回すように首を動かしている。
「おかえり、ルシア。調子はどうだ?」
「……ただいま戻りました、マスター。……奇妙です」
ルシアは自身の鼻――新たに追加されたセンサーユニット――に手を当てた。
「大気の組成データが、これほど膨大な『質感』を伴って処理領域を圧迫するとは予想外でした。オイルの揮発成分、オゾン、微細な塵埃、そして……人間の代謝に伴う有機的な匂い。これが『嗅覚』というものでしょうか」
どうやら、今まで数値でしかなかった情報が、感覚として流れ込んできているらしい。
「慣れるまではフィルターを絞っておけ。……さて、退院祝いと行きたいところだが」
俺はキッチンを見渡した。
冷蔵庫もDIYの産物だし、保管設備も最低限だ。次の改修目標は、キッチンそのものより先にこれらだな。
手元にあるのは、先日買ったパンの残りくらい。時間が経ってカチカチになりかけている。
これじゃあ祝宴どころか、侘しい朝食だ。
「エマルガンドくん。例の『サンプルケース・No.4』を開けたまえ」
教授が突然、助手に指示を出した。
エマルガンドが慌てて持ち込んだ機材の中から、厳重にロックされた銀色のコンテナを取り出す。生体認証をパスして蓋が開くと、プシュッという音と共に白い冷気が漏れ出した。
「……卵? それに、ミルクか?」
ケース内部の衝撃吸収フィールドに固定されていたのは、殻付きの卵が半ダース。そして隣には、完全密封されたクリスタル・シリンダーに封入された白い液体が鎮座していた。
「研究用バイオ鶏の卵と、培養プラントで精製された特濃ミルクだ。あくまで生物資源の品質チェック用サンプルだがね」
教授はニヤリと笑った。
「心して使いたまえよ? これの生成コストだけで、君の借金がもう一度できるくらいだ。次はいつ手に入るかわからん、今回限りの役得だ」
「マジかよ……なんで研究素材としてこんなもの持ってるんだ?」
「言ったろう、質の高い食事は私の研究領域だと。これを庶民の手に届くようにしたいのだよ。……まあ、まだコストダウンの道はあまりにも遠いがな」
俺は震える手でそれを受け取った。
超高級食材、ゲットだ。これがあれば、あの硬いパンも極上のスイーツに化ける。
「よし、メニューは決まりだ。ルシア、最初の食事は『フレンチトースト』だ」
俺はマッコウクジラ自慢の設備、高火力コンロの上に、巨大な中華鍋もどきをセットした。
調理器具がこれだけなのも大いなる課題だな。まだモヤシ炒めにしか用途がなかったから作っていなかったんだ。
まずは卵液作りだ。
ボウルに貴重な卵を割り入れ、特濃ミルクを加える。
砂糖は入れない。安物の合成砂糖特有のケミカルな後味が、せっかくの高級食材を台無しにしてしまうからだ。
代わりに取り出したのは、冷蔵庫の無骨な耐圧保存容器だ。
『電脳カボチャのペースト』。
極めて糖度が高いため、ジャムのように腐敗しにくい。こいつを甘味料としてたっぷりと加える。
濃厚な黄金色の液体ができあがった。
「ここに、硬くなったパンを浸す」
一口大に切ったパンを液に沈める。乾燥してスポンジ状になったパンが、貪欲に卵液を吸い込んでいく。
十分に重くなったところで、加熱開始だ。
中華鍋を熱し、合成バター――つまりマーガリン――を落とす。現代のものより品質が落ちて価格が上がっているのは謎だが、香料によるバターの風味付けだけは強烈だ。
生食や繊細なソースには向かないが、こうやって焼き上げる料理にはうってつけだ。この人工的で強烈な香りが、加熱することで「焦げ」と結びつき、食欲を暴力的に刺激するジャンクな魅力へと化ける。
繊細な甘みはカボチャで、ガツンとくる香りは合成バターで。適材適所というやつだ。
ジュワァァ……!
いい音がして、香ばしい香りが立ち上る。
そこへ、パンを投入。
ジューッ!!
強烈な火力で、表面を一気に焼き固める。
こんがりとキツネ色がついたところで、弱火にして蓋をする。蒸し焼きだ。
中でカボチャペーストと卵が熱され、パンの中で膨らんでいく。
次第に、隙間から甘く濃厚な香りが漏れ出してきた。
バターの塩気を含んだ香り、焦げたパンの香ばしさ、そしてカボチャとミルクのまろやかな芳香。
それは、オイルと煤の匂いしかなかった船内を、一瞬で「幸せな食卓」の色に塗り替えていく。
「……警告。嗅覚センサーへの入力信号が、閾値を超えて増大中。ですが……不快ではありません」
ルシアが鍋の方をじっと見つめている。
エマルガンドも、ゴクリと喉を鳴らした。
「よし、完成だ」
蓋を開けると、黄金色に輝く山が現れた。
皿に盛り付け、仕上げにあの高級ハチミツをたっぷりと回しかける。
『特製・黄金パンプキン・フレンチトースト』。
「さあ、ルシア。食べてみてくれ」
フォークを手渡す。
ルシアはぎこちない手付きで一切れを刺し、口へと運んだ。
ハムッ。
カリッとした表面の歯ごたえ。
その直後、中から熱々のカスタードのような中身がトロリと溢れ出した。
カボチャのコク、ミルクの優しさ、ハチミツの強烈な甘み。
それらが混然一体となって、舌の上で踊る。
「…………」
ルシアの動きが止まった。
数秒の沈黙。
やがて、彼女はゆっくりと口を動かし、飲み込んだ。
「……熱量を確認。糖分、脂質、タンパク質……生命活動には過剰なほどのエネルギーです」
相変わらずの分析レポート。
だが、その声色はいつもより少しだけ弾んでいるように聞こえた。
「ですが……理解しました。ヴァーナ様の言っていた『構造』とは違う、温度と、記憶と、色が混ざり合った情報。……これが、マスターが求めていた『美味しい』という情動なのですね」
ルシアは自身の胸に手を当て、それから俺を見た。
無表情なはずのその顔が、ふわりと綻んだように見えた。
「処理系が、この感覚を『肯定』しています。……もっと、いただけますか?」
「ははっ、いくらでも食え! 材料はある!」
成功だ。技術の粋を集めた料理もいいが、やはり「美味い」と言わせるのは、こういう茶色くて甘いヤツに限る。
「んーっ! 社長、これ最高!」
横から手が伸びてきたかと思うと、ミナがすでに一切れを口に放り込み、頬をパンパンに膨らませていた。
「表面カリカリで中トロトロ! カボチャの甘みがすっごく濃厚!」
ミナは目を細め、至福の表情で咀嚼している。
「ふむ……。実に見事だ。残り物のパンを、これほどの品に昇華させるとはな」
教授も一切れ頬張り、満足げに頷いた。
「君の料理への造詣の深さ、やはり本物だ。私の目に狂いはなかったようだな」
「そりゃどうも。さ、エマルガンドさんもどうぞ」
「あ、あのっ! いただきます……!」
マッコウクジラの機関室で、奇妙な晩餐会が始まる。
皿が空になる頃には、ルシアの表情も随分と柔らかくなっていた。
「さて、腹ごしらえも済んだところで」
教授がナプキンで口を拭い、居住まいを正した。
「仕事の話をしようか、船長君」
カボチャ風味のフレンチトーストは現実にもありそう。
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