第113話 巨体を捌く記憶の刃
作業台に横たわる一メートル超の巨体を前にして、俺の意識はふと、遠い記憶の彼方へと飛んでいた。
俺には、無類の釣り好きの友人がいた。
そいつはまだ夜も明けぬ早朝、こちらが寝静まっている時間から「今日はこいつを狙う」と狙いの獲物を写した画像付きのメッセージを一方的に送りつけ、俺が一日分の仕事を終えてようやく一息つこうとしている夜更けに、潮風と磯の匂いを全身に纏ったまま、パンパンに膨らんだクーラーボックスを抱えて自宅へ突撃してくるような、無茶苦茶な男だった。
「おい、いいのが上がったぞ! 今夜は宴会だ!」
そう言って、そいつがドカッと流しに放り出すのは、まだエラを弱々しく動かしている真鯛や、銀色に輝く太刀魚、あるいは捌くのがひたすら面倒な小アジの山。
疲労で霞む目をこすりながら、深夜のキッチンで鱗塗れになり、クーラーボックスの氷が溶ける音を聞きながら包丁を握るのが、当時の俺の日常の一部だった。
料理ができることと、魚が捌けることは、決してイコールではない。
最初は鱗をキッチン中に飛ばし、内臓の処理に手こずっては、貴重な身をボロボロにして、そいつと苦笑いしながら「なめろう」や「あら汁」なんかにして誤魔化したものだ。
だが、数え切れないほどの「突撃」を繰り返され、あらゆる魚種の骨格を指先に叩き込まれるうちに、俺の腕は次第にその構造を、骨の走り方を、触れるだけで理解するようになっていった。
いつしか、そいつがどんな獲物を持ってこようとも、俺の包丁が迷うことはなくなっていた。
「……懐かしいな」
俺は小さく独り言を漏らし、目の前の『アズライト・スナッパー』に左手を添えた。
鯛だとすれば、これほどまでに見事な魚体にはついぞお目にかかったことはない。碧い鱗は鋼のような輝きを放ち、その質量は圧倒的だ。
だが、どんなに大きかろうと、魚は魚。やることは同じだ。
「ミナ、悪いが用意してたモノを出してくれ」
ミナが、俺の船のキッチンから持ってきた重厚なアタッシュケースを差し出す。
中には、用途に合わせて使い分けられるよう、この時のために磨き上げてきた数振りの包丁が、それぞれの鞘に収められて鎮座していた。
極限まで研ぎ上げたその刃が、市場の青い光を鋭く反射している。
俺はその中から、まずは分厚い峰を持つ出刃包丁を手に取り、掌に馴染むその重みを確かめた。
「――始めるぞ」
まずは鱗落としだ。
俺は作業台の蛇口を捻り、勢いよく溢れ出す冷水で魚体を包み込んだ。
包丁の背を使い、水で洗い流しながら、尾から頭に向けて碧い鱗を弾いていく。バチバチと火花のような音を立てて鱗が舞うが、水流がそれを即座に押さえ込み、作業台を汚すことはない。
硬く巨大な鱗が剥がれ、その下から美しい銀白色の肌が露出していく。
続いて、エラ蓋の付け根から刃を入れ、斜めに包丁を落とす。
ジャリ、という骨を断つ感触。巨体に合わせて骨も太いが、関節の隙間を的確に突けば力は要らない。頭を切り離し、一気に内臓を掻き出す。
溢れ出す赤い血を、冷たい水がすぐさま薄め、排水溝へと押し流していく。俺は指先を腹の中に入れ、中骨に沿った血合いを水で丁寧に、磨き上げるように洗い落とした。
水に晒しすぎるのは禁物だが、汚れを残すのは論外だ。
清潔になった腹腔内を確認し、俺は一度布巾で魚体とまな板の水分を完全に拭き取った。
「……おい、見てみろ。あの包丁の動かし方……」
「迷いがねぇ。水の使い方まで心得てやがる。初めての動きには見えねぇな」
職人たちの囁き声が聞こえるが、俺の耳には届かない。
俺が聞いているのは、刃先が骨に触れる僅かな振動だけだ。
腹側から刃を入れ、中骨に当たるまで滑らせる。次に背側。碧い皮を切り裂き、身と骨の間に刃を潜り込ませる。
ザリ、ザリリッ――。
鋼の刃が脊椎を叩く、心地よい振動が右手に伝わる。一メートルを超える巨体であっても、構造を理解していれば、包丁は自然と「道」を見つける。
最後に尾の付け根から刃を通し、一気に引き抜く。
巨大な碧い半身が、一切の身崩れもなく、真珠のような光沢を放つ断面を晒して台の上に踊った。
「三枚、おろし……。それも、この短時間で……」
カイが、驚愕に目を見開き、腰掛けていた台から思わず立ち上がった。
俺が捌いた断面には、一筋の血も、一箇所の傷もない。
俺は包丁の汚れを水で流し、清潔な布で一拭きして、静かにカイを見据えた。
「……これでいいか?」
「……ああ。文句のつけようがねぇよ」
カイは呆然としながら、俺の捌いた身を指先で軽く押した。押し返してくる強靭な弾力、それから一切の臭みがない海の香り。
職人たちの沈黙は、今や最大の敬意へと変わっていた。
「あんた、ただの料理人じゃねぇな。……わかった、契約通りだ。この市場にある最高の獲物を、あんたの注文通りに積み込んでやる」
アキトの掌に残る、水の冷たさと確かな手応え。
かつての友人が無理やり叩き込んでくれたあの技術が、数万光年離れたこの星で、俺たちの食卓を支えてくれた。
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