興味
大学へ入り直す話があった。
誰から持ちかけられた話かわからなかったが、私は打算的に、卒業後の自分について考えてみる。
4年経って、なにか得るものがあるだろうか。
現役で卒業した頃を振り返ってみても、何も得るものはなかったように思う。
ただ大卒という経歴がついただけ。
今の私の人生を4年費やして、何かを学びたいと思えるだろうか。
同じように話を持ちかけられた女性がいて、その人は、話があったその日のうちに、ライフプランを策定していた。
これを学びたい、こう生かしたい、そのための努力は惜しまない。
覚悟ある眼差しを見せていた。
ここで私は負い目を感じる。
打算的に年数や学費のことを考えている自分。
ものごとの本質から、自分へと繋がる最短距離の直線を歩めない癖がある。
回りくどく、逃げ回る。
恐れているから、突っ込む先がとんちんかんになる。
盾に隠れ、目を伏せ、どうにでもなれと自暴自棄。
ふとゾーンに入る。
自分の意識レベルが上がる。
何かに没頭し、万能感を得る。
達成感が自分を肯定する。
すると見えてくる。
不安や恐怖の類である感情と、自分の興味の偏りである。
蝸牛の渦を俯瞰で見下ろすような。
中心には本質がある。
私はその周りを、北斗七星よろしく飛び飛びに移動する。
次第に中心へ寄っていけば文句はないが、やはり北斗七星よろしく、あっちの方向へ行ったきり、そこを渦だと勘違い。
明後日の方向にある点を本質だと誤認する。
お金や時間という暴力的な概念が頭にふっと湧くたびに、金槌で頭蓋骨を殴られるような痛みが走る。
それはお堂の鐘のように鳴り響き、反響して、吐き気を催す。
ここに暴露療法を敷く。
つまりお金も時間も計算ができることを認める。
いくらまでなら許容であるかを考えることは恐怖に値しない。
漠然と、連綿と、死に概念を直結させているから恐ろしいのであって、単なる数字であり、目盛りを細かく割れば良いのだ。
そうして少しずつ近づいていくとわかることがある。
興味が持てないということだ。
考えるべきだと判断していたお金にも時間にもそうだし、何を学ぶか、どう学ぶかという本質についてもそうである。
まるで興味が持てない。
そこだけが黒塗りされたようだ。
マスクされた一部には触れることも観察することも理解することも思い及ぶことも叶わない。
私は生涯、本質を扱うことができないまま死にゆくのか。
これがわかったところで、私は私。
ゾーンのひととき。
自嘲する能力が一時的に秀でるのみ。
運命は変わらないことが、わかりきっている。
我が子の顔を思い出す。
気球のバルーンくらいに膨れて、私に満面の笑みを向ける。
そして勢いよく、私の膝下の蝸牛にのしかかる。
柔らかい殻がプチっと弾けた。
その瞬間に、私は何も思い出せなくなった。




