婚約破棄された最強女騎士、年下王子に拾われて亡命したら元婚約者の国が滅びました
「――だったら、僕がマリーさんと婚約します!」
大広間に響き渡ったのは、まだ声変わりも終わらぬ少年の声だった。震えと幼さが伝わって来るが、芯のある強さも同時に感じさせた。
その場にいた誰もが一斉にそちらを振り向く。
人々の視線を受け止めるように立っていたのは、まだ背丈も伸びきらない十三歳の少年――第三王子、ノエル・グランツフェルトである。
王族の衣をまとっていても、その体つきには幼さが残る。
年若い身体を精一杯に張りつめて、怯みそうになる足を踏みとどまらせている。
唐突に名を挙げられたマリーは、わずかに目を瞬かせる。
「ええと、ノエル様?状況わかってらっしゃいますか?」
思わず心配そうに視線を向け、声をかける。
割って入った少年ノエルは、マリーを庇うように、前に出る。
「わかっています。兄上が先ほど、一方的に婚約の解消を宣言されたんですよね」
澄んだ声が広間を満たし、一瞬の沈黙が走る。
その沈黙を破ったのは、第一王子――アルベルト・グランツフェルトであった。
「ノエル、口を慎め」
その顔には冷笑、声には侮蔑が滲んでいて、隠そうとする素振りすらない。
第一王子、つまりはノエルの兄に当たる人物だが、その態度は血を分けた弟に向ける情など、かけらも見えなかった。
「このような武功だけで成り上がった貴族もどきと婚約するだと? ……やはり平民の血が混ざると愚かになるものだな」
第一王子アルベルトの侮蔑には理由があった。
ノエルの母は、もともと王宮に仕えていたただの侍女である。王の寵愛を受けたことで王子を産んだが、その出自は覆らない。
正妃の子であるアルベルトからすれば、異母弟ノエルは「血統に瑕を持つ存在」にほかならなかった。
どれほど幼い王子であろうと、混じり物として容認できるものではなかったのだ。
だが、ノエルはアルベルトの言葉に怯むことなく立ち向かう。
「僕だって王族です。それなら僕が婚約したって問題ないはずですよね? それに、一方的な婚約破棄なんて、兄上の立場を悪くするだけではありませんか?」
「ふん……こんな平民上がりを捨てたところで、私の立場が揺らぐものか。低俗なもの同士、好きにすれば良い。目障りだ」
ノエルは一歩前へ進み、毅然と顔を上げた。
「……それでは、マリーさん。行きましょう」
「え、あ、ちょ、ちょっと!」
自分が話題なのに、自分を置き去りに話が勝手に進んでいく。口を挟む間もなく、ノエルは迷いのない仕草で彼女の手を取り、堂々と大広間を後にした。
大広間を後にし、離宮へと戻る道すがら。
広間を抜けて少し歩いたところで、ノエルは立ち止まった。人目がなくなったのを確認する。
そして、年齢に似つかわしくない真剣さで、深々と頭を下げた。
「兄が……本当に失礼なことをいたしました」
十三歳の少年が、必死に大人びた言葉を選んでいる。その姿にマリーは少し面食らい、同時に可笑しく思えた。
「いや、私は別に気にしてないけど……それよりノエル様こそいいの? こんな勝手なことをして」
ノエルは真っ直ぐに顔を上げる。
「あのままだと、マリーさんが晒し者になってしまったので…だから……勢いで婚約なんて言いましたけど、嫌だったら断っていただいて構いません!」
「別に嫌ってことはないけど……実際、アルベルト様の言った通りよ? 戦いしか能がないし、元は平民だし」
ノエルは即座に力強く首を横に振った。
「関係ないです! そんなこと!」
いや、関係ないことはないでしょ、とマリーは思う。
マリーは数々の武功によって爵位を得た、正しく成り上がりの貴族だった。剣を振るう技、軍を指揮する腕には誰よりも自信があるが、その分淑女教育や礼儀作法には疎い。幼少期から教育を施されてる生粋の貴族とは比べるまでもない。気を抜けば敬語すら外れてしまう程度の素養しか持ち合わせていなかった。
別にそれでも良いやと思っていた。爵位など後からついて来たもので大した興味もない。
だがそれでも、貴族としての振る舞いが重要であることぐらいはわかる。
もともとアルベルトとの婚約自体、国王陛下の決定によるものだった。
理由だって、自分を他国に流さないためだと言うことも想像はついている。
だがマリー自身、最初から自分とアルベルトが釣り合わないことはよくわかっていたし、彼にも、王妃という立場にも興味を抱いたこともない。戦場こそが自分の居場所、そう思っているマリーにとって、婚姻など取るに足らない問題に過ぎなかった。
「すみません、マリーさん。少々こちらでお待ちいただけますか?」
そう言うとノエルは、侍女たちに軽く指示を出しながら、慌ただしく廊下を駆けて行った。
しばらくして、マリーは離宮の一室に案内される。
室内はすでに整えられていて、窓辺のカーテンは清潔に掛け替えられ、暖炉には柔らかな炎が揺れている。香のほのかな香りまで漂い、客を迎える準備が万全だった。
侍女が恭しく茶を差し出す。湯気の立つカップを手に取りながらも、マリーは落ち着かない気持ちを拭えなかった。
「ノエル様って……いつもあんな感じなの?」
思わず問いかけると、給仕をしていた侍女が少し目を見開き、控えめに首を振った。
「いいえ。むしろ、あのようなお姿は初めて拝見いたしました」
「初めて?」
「はい。殿下は幼い頃からずっと離宮でお過ごしです。母君のご出自のこともあり、周囲には味方も少なく、どちらかと言えば、いつも静かで、陰のあるご様子でした。
第一王子殿下に向かってあのように声を上げられたのも、今日が初めてかと存じます」
マリーは侍女の返答に少し目を瞬かせ、湯気越しにカップの中を覗き込んだ。
一口お茶を含んだところで、軽快な足音が廊下の奥から駆け寄ってきた。
次の瞬間、勢いよく扉が開かれ、ノエルが息を弾ませながら飛び込んでくる。
「はぁ、はぁ……っ! お待たせしました!マリーさん!」
顔を赤らめ、目を輝かせて告げるノエルに、マリーは思わず瞬きをする。
「……はやくない? お城の中を走って大丈夫なの?」
問いかけに、ノエルは耳まで真っ赤にしながら視線を泳がせた。
「す、すみません……つい……。でも非公式ですが、婚約認めて貰えました!」
「……本当に? こんな突然のことなのに、よく許可なんて下りたわね」
ノエルは胸を張り、小さな顔いっぱいに笑みを浮かべる。
「はい! 兄上が勝手なことをしていたのもあって、むしろ『よくやった』と褒めてくださいました。『あとは任せなさい』って」
続けてノエルは胸を張って言う。
「それに、色々準備もありますので、しばらくはここで滞在してもらえ、とも仰ってました」
「……まあ、構わないけど」
準備のために滞在、とノエルは言ったが、本当のところは別だろう。
おそらく国王は、アルベルト派の人間とマリーを接触させないため、そして兄と正面から衝突してしまったノエルを、自分に守らせたいのだ。
当人がその裏を知っているのか、知らないのかは分からないが、ノエルは心から嬉しそうに笑った。
「よかった! これからよろしくお願いしますね、マリーさん!」
* * *
「マリーさん!寝室はちゃんと眠れましたか?枕が合わないとかないですか?」
「マリーさん!お食事、口に合いましたか?嫌いなものがあれば、僕が代わりに食べますから!」
「マリーさん、退屈してませんか?もしよければ、僕の蔵書をお貸しします!」
「マリーさん、離宮の庭を案内してもいいですか?薔薇がちょうど見頃なんです!」
……気づけば、ノエルは一日中こんな調子だった。
寝室の具合から食事の味まで、ことあるごとに気を配り、何かにつけていちいち声をかけてくる。
時には窓の開け閉めや、廊下の照明の明るさにまで気をまわすほどだ。
椅子を引いたり扉を開けたりと、本来なら侍女の役目で、決して王族がすることではないことまで率先してやろうとする。
そのたびに側仕えの侍女たちが血相を変えて制止するのだが、ノエルはまったく意に介さず、頑なに譲ろうとしない。
この子、何が目的なのかしら。
懐柔?警戒?
何か私にやらせたいことがあるの?
眉をひそめ、首をかしげる。
ノエルの意図がわからず、ずっと訝しんでいたが、次第に慣れてくるもので、甲斐甲斐しく世話を焼くノエルの姿が、次第に尻尾を振ってついてくる子犬のように見えてきた。
先日は着替えの最中にノエルがうっかり入ってきてしまい、ばったり鉢合わせたこともある。ノエルは顔を真っ赤にして慌てて退室したが、後から大量のお詫びの品が届けられた。
マリーは別に気にしてなかったのだが、気にされてなかったことに、しばらく落ち込んでいたらしい。
なんでのぞいた方が落ち込んでるのよ、と解せない気分になる。
そんなノエルを、なんだか可愛らしいなと思う気持ちと同時に、どうしてここまで良くしようとするのか、その理由だけがずっとマリーにはわからなかった。
しばらく経ったある日、ついにマリーはノエルに問いかけた。
「ねえ、ノエル様。どうして私に、こんなに良くしてくださるの?」
ノエルは即座に、迷いのない声で答える。
「だって、婚約者じゃないですか」
そうじゃない。
マリーは心の中で首を振る。少なくともアルベルトは、婚約者だからといって何かをしてくれたことなど一度もなかった。
「……じゃあ、なんで私と婚約したの?」
「そ、それは……」
ノエルは視線を落とし、口ごもった。小さな手が膝の上でぎゅっと握りしめられている。何か言いにくい理由でもあるのだろうか、とマリーは眉をひそめる。
やはり、自分を利用して何か企んでいることがあるのかもしれない。
「言いたくないなら別に良いわよ。どんな理由であれ、私は助かってるし、文句なんてないわ。護衛でも、暗殺でも、貰った分ぐらいはちゃんと働くから、安心して」
そう言って肩をすくめるマリーに、ノエルは顔を上げた。耳まで真っ赤に染め、息を詰めるようにして声を張り上げる。
「ひ、一目惚れです!」
「…………はい?」
思わず間の抜けた声が漏れた。自分でも妙な響きだと思う。
ノエルは顔を真っ赤にしたまま、耐えきれずに視線を落とした。
「……あなたの噂は、ずっと耳にしていました。ずっと気になっていたけれど、それだけの武勇を誇る方なら、やっぱり恐い人なんだろうなと思っていたんです。
でも、実際に目にした時、想像とはまるで違いました。こんなにも美しくて、大人の女性だったなんて。それからは、ずっとお話ししてみたいと願っていました」
まっすぐに告げられた言葉に、マリーは思わずまばたきをする。
「……私、そんなこと言われたの初めてよ?」
困惑まじりに返すと、ノエルは真っ赤になった顔のまま、ぐっと拳を握りしめて言い切った。
「周りの見る目がないだけです! 少なくとも僕には、誰よりも魅力的に見えます!」
その必死さを見て、マリーは肩の力がこれ以上ないぐらい抜けた。
何この子。
本気で言ってるの?
能天気というか…ずいぶん可愛いわね。
なんか色々とバカバカしくなってきちゃった。
心の中で小さく笑いながら、つい手を伸ばす。
「大人のお姉さんに憧れる歳なのかもね」
そう言いながら、ノエルの頭を撫で、指先でうりうりと頬をつつく。不敬罪だ。
「子供扱いしないでください!本気なんです!」
「はいはい、いい子いい子」
頬を膨らませ、文句を言いながらも、されるがまま黙って受け入れている。どう見ても、飼い主に甘える子犬そのものだった。
周りの侍女たちは青い顔をしているけど気にしない。
なんか礼儀とか立場とかどうでも良くなってしまった。
――数日後。
あの日のやり取りの余韻が、まだどこかに残っていた頃のこと。
マリーが部屋で報告書の作成をしていると、控えていた侍女が「殿下がお見えです」と告げた。
顔を上げると、ノエルが胸の前に小さな箱を抱え、そわそわと落ち着かない様子で立っている。
「マリーさんに……贈り物があります」
言葉と同じく、その仕草もぎこちなくて、見ているだけで少し可笑しい。
「そんなに気を遣わなくてもいいのよ、ノエル様」
軽く笑って受け流すと、ノエルはぶんぶんと首を振った。
「違います! 僕が、ただプレゼントしたいだけなんです!」
決意を込めたように箱の蓋を開ける。中には、光を受けて淡く輝く琥珀色のネックレスが収められていた。
「……マリーさんの瞳の色に、似ていると思ったんです。受け取っていただけますか?」
差し出された琥珀色の輝きに、マリーは思わず息を呑んだ。
「……綺麗ね。私が普段身につけるのは剣と鎧ばかりで、こういう飾りなんてほとんど縁がなかったわ」
指先でそっと宝石に触れながら、視線をノエルへ戻す。
「こんなに高価そうなもの、本当にいいの?」
「もちろんです。僕は……マリーさんだって着飾れば、誰よりも似合うと思います。だから、もし喜んでもらえたなら……嬉しいです」
プレゼントひとつ全力で行うノエルを見て、マリーの中にいたずら心が芽生える。口元に笑みを浮かべ、少し意地悪く首を傾げる。
「ありがとう、ノエル様。……せっかくだから、あなたにつけてほしいわ」
「ぼ、僕が……!?」
耳まで真っ赤に染めて、ノエルは声を裏返らせた。大人びた仕草で見下ろすマリーの微笑に、ますます混乱する。
「そう。ノエル様につけてもらえたら、もっと嬉しいわ」
ノエルは口を開きかけては閉じ、視線を彷徨わせた。侍女たちも思わず固唾を飲んで見守る中、彼は小さな拳を胸の前でぎゅっと握りしめる。
そしてようやく、迷いを断ち切るように瞳を上げ、意を決したように頷いた。
「……わ、わかりました」
マリーは片膝を折り、ノエルの手が届く高さに身をかがめた。
長身の彼女と、まだ幼い少年、並べば、その差は歴然である。ノエルの顔はちょうどマリーの胸元に近づき、わざと彼女が胸を張ると、ノエルは途端に体を硬直させた。必死に胸元から視線を逸らしながら、胸に触らないようにプルプルと震える手で首の後ろに回し、留め具をかける。
吹き出しそうになるのを堪えきれず、マリーの唇がわずかに震える。そのからかいの気配を敏感に察したのか、ノエルは悔しげに唇を噛み、ふくれっ面を浮かべた。
だがその時、何かを決意したように、真っ赤な顔のまま、ノエルの視線がぐっとこちらに向け直された。
小さく背伸びをして、マリーの額に、震えながらそっとキスをする。
予想もしなかった行動に、マリーは目を瞬かせた。額にかすかな温もりが残っている。
「す、すこしは……これで、男として見てもらえましたか……?」
自分でやったというのに、心臓の鼓動が聞こえそうなほど緊張している。必死に声を絞り出す様子が面白くて微笑ましい。
マリーは小さく笑い、額に手をやった。
「十年早いわよ」
軽くあしらうように告げながらも、マリーの指先は無意識にネックレスに埋め込まれた琥珀色の石を、そっとなぞっていた。
だがそんな平和な日々は、唐突に終わりを告げた。
王が急逝したのだ。
公には「長年の持病の悪化によるもの」と発表されたが、宮廷に仕える者の多くは誰一人としてそれを信じなかった。
第一王子アルベルト――彼が父王を手にかけたのだと、誰もが口には出さずとも確信していた。
アルベルトが即位すると、王宮の空気は異常なほど一変した。
王位継承を巡って対立していた派閥は徹底的に粛清された。
新王アルベルトは即位の翌日、まず王宮内にいた第二王子、つまりはノエルの兄の派閥の侍従や近衛を一斉に解任し、監禁した。
続いて「叛逆の兆しあり」との勅命を掲げて、大広間に将軍や貴族たちを呼び出すと、その場で衛兵に取り囲ませ、抵抗する間もなく拘束した。
反対の声を上げた将軍は鎧ごと鎖で縛られ、翌日には処刑台に並べられた。
有力な貴族は「反逆の協力者」として領地を没収され、家族ごと辺境へ追放される。
残された第二王子本人は、かつての学友や忠臣たちが血の泥に沈むのをただ見せつけられ、最終的には王宮の奥に閉じ込められた。
アルベルトの次の矛先は、第三王子であるノエルとその婚約者マリーに向けられた。
第二王子の壊滅からほどなくして、二人のもとへ正式な召集状が届く。差し出されたのは漆黒の封蝋――「王命」を意味する絶対の印だった。
そこには理由すら記されていない。ただ、謁見の間に出頭せよ、とだけ。
逃れる術はなかった。
こうして二人は、新王アルベルトの前に傅くことになる。
「さて、貴様らを呼んだのはだな。お前らに叛逆の疑いがかかっているからだ」
新王アルベルトの声は、広い謁見の間に冷たく響いた。玉座にふんぞり返ったまま、わざとらしい冷笑を浮かべ、視線をほんの一瞬だけ二人に投げかける。
マリーを庇うように、ノエルは一歩前へ進み出た。
ノエルは小さな体を精一杯に張り、声を震わせながらもはっきり言い返した。
「叛逆なんて、するはずがありません! 兄上は一体、何を根拠にそんなことをおっしゃるのですか!」
アルベルトは鼻で笑い、椅子の背に大きくもたれかかった。
「根拠?そんなものは不要だ。俺が疑えば、それだけで十分だろう。
まあ、平民の血が混じる出来損ないでも、一応は兄弟だ。信じてやりたいのは山々なんだがなぁ」
嘲りを含んだ声をわざと響かせ、言葉とは裏腹に、冷たい視線がノエルを刺す。
「忠誠を誓うというなら、証を立ててみせろ」
「……証、ですか?」
「口先だけなら誰でも言える。そうだな。例えば――」
アルベルトの目がゆっくりとマリーへと流れる。
「そこの貴族もどきの女を俺に差し出せるなら、信じて
やることもできるかもしれんな」
「なっ……!?」
「どうした? できないのか? 忠誠を誓っているというのは、やはり口先だけか」
「彼女は――私の婚約者です!」
「知っているとも。亡き父が認めた、な。私も認めてやりたいのだが……反逆者の婚姻など、到底許すわけにはいかんのでな」
アルベルトの声は冷たく響く。
「だが、忠誠の意思を示したいのなら、閨に来るぐらい、できるだろう?」
「……わかりましたわ」
「マリーさん!?」
ノエルの叫びが、謁見の間に鋭く響いた。アルベルトは唇を歪める。
「殊勝な心がけじゃないか。だが違うだろう?お前らがどうしても私に信じてほしいと頼むから、私が“仕方なく受け取ってやる”のだ」
「……どうすればよろしいのですか?」
「簡単なことだ。ちゃんと懇願するんだよ。どうか私を好きにしてくれ、と」
「……どうか、私をお好きにしてください。アルベルト様」
「全く、しょうがないな。俺は乗り気じゃないんだが…そこまで言うなら、相手をしてやるとしよう。……ノエル、お前よりも先にな」
「っ……!」
ノエルがさらに前に出ようとする。
だがその腕を、マリーの手が制した。
静かに視線だけを向ける。とりあえず今は引いて、と。
ノエルは血が滲みそうなほど拳を握りしめ、悔しさを噛み殺しながら深く頭を垂れた。
「ふん……まあ、その程度だろうな、お前は」
アルベルトは鼻で笑い、獲物を値踏みするような目でノエルを見る。
「安心しろ。飽きたら返してやるさ」
ノエルが睨みつけてくる視線を、鼻で笑うように言った。
謁見の間を退出し、離宮へと帰る。
玉座の間から続く石の回廊はひどく長く、足音だけが規則正しく反響する。ノエルの拳はまだ固く握られたままで、指先が白くなっている。マリーは横目でそれを見ていたが、あえて何も言わなかった。
やがて離宮に戻り、侍女が扉を開ける。中へ入ると、暖炉の火はまだ赤々と燃えている。ノエルが口を開こうとした瞬間、マリーの指先がそっとその唇に触れ、言葉を遮った。
ノエルは驚いて、目を瞬かせる。
その様子を見ながら、マリーは静かに、優しげに声をかけた。
「……ねえ、ノエル。この国に未練はある?」
ノエルは動きを止めた。問いの意味が、じわじわと胸に重く沈んでいく。
目を閉じると、これまでここで過ごした記憶が走馬灯のように浮かんでは消える。
少し深いため息をつきながら、首を横に振った。
「……ありません」
ノエルの声はかすかに震えていた。
「父はもう亡くなってしまいました。……未練があるとすれば、母と、仕えてくれている使用人たちくらいです」
マリーは短くうなずいた。
「そう」
少しの間、部屋に沈黙が落ちる。暖炉の火がぱちりと弾け、その音だけが耳に届いた。
そしてマリーは、まるで雑談でもしているような軽さで、口を開く。
「ねえ、ノエル。――亡命しない?」
* * *
月明かりの下、一台の馬車が城門を抜け、石畳から土の道へと車輪を響かせながら走り出す。
荷台には最低限の荷物と、ノエルの母や数名の使用人たちも同乗している。城を後にする彼らの顔には、安堵と不安とが入り混じっていた。
ノエルはずっと俯いたまま、窓の外に流れる闇を見ようともしなかった。握り締めた拳がかすかに震えている。
やがて、沈黙を破るように小さな声が漏れる
「マリーさんすいません。こんな事に巻き込んでしまって」
「別にノエルのせいじゃ無いでしょ?」
「僕が婚約とか言い出さなければ、マリーさんはこんなことしなくて済んだんです」
自分を責めるようにうつむく横顔を見て、マリーは深くため息をついた。
そして、ためらいもなくノエルの頭に手を伸ばし、髪をくしゃくしゃにかき回す。
「はいはい、子供なんだから余計なこと考えなくていいのよ」
「……子供扱いしないでください」
振り払うこともせず、力なく返すノエル。
先行きの不確かさに、気分はどうしても重くなる。
やがて夜も更け、荷台の隅にいた使用人や母は次々と眠りについた。
しかしノエルだけは、まぶたを閉じる気になれず、ただ流れていく景色をじっと眺めていた。
窓の外から差し込む月明かりが、マリーの首元に輝く琥珀の石を照らし出す。
そのきらめきにふと目を留めたノエルは、しばし視線を逸らせずにいた。
「……そのネックレス、つけてくれてるんですね」
「ん? これ?」
マリーは胸元に手を伸ばし、琥珀の石を指先でつまみ上げる。軽く揺らすと、月明かりが透けて淡い光を返した。
「うん………思ってたより嬉しかったのかも」
石の感触を確かめるように親指でそっとなぞりながら、マリーはぽつりと続ける。
「もし私ひとりだったら、まあいっか、って思ったと思う。……でも、あのままなら、ノエルはきっと殺されてたでしょ。それは嫌だなって」
マリーは目を伏せ、胸元の光を見つめたまま静かに言葉を落とす。
「国が滅ぶより、ノエルに生きていてほしいわ」
思わず息を呑んだノエルが、か細い声で問い返す。
「……それって、どういう意味ですか?」
マリーは少し肩をすくめ、唇に苦笑を浮かべた。
「私は戦うことしかできないけどね。でもその分戦いに関しては自信があるわ。武功だけで王妃の座の手前まで行った女よ?」
その言葉が示す通り、二人の亡命は驚くほどあっさりと受け入れられた。
理由は明白だった。マリーの名は、むしろ祖国よりも敵国で広く知られていたからだ。
マリーはこれまで幾度となく戦場に立ち、連戦連勝――無敗の将軍として名を轟かせてきた。どんな絶望的な状況でも軍を率いて勝利を掴み取る姿は、兵たちの間で「伝説」として語られている。先陣を切って駆け、百人を超える盗賊すら単独で退けるその武勇は、諸国の将軍たちにとって畏怖の対象であった。
「マリーを敵に回すなら、十倍の兵を揃えろ。さもなくば戦わずに退け」それが、各国で常識のように言われる警句だった。
亡命先に選んだ帝国の皇帝もまた、かつての戦役でマリーの武勇を間近に見ていた人物である。そのため散々苦渋を舐めさせられたマリーの価値を否が応でも理解しているし、さらに王族であるノエルを保護できるのならば、亡命を断るという選択肢など最初から存在しなかった。
一方で、マリーが離脱したグランツフェルト王国は大幅な戦力、軍事力の低下に見舞われた。
帝国は意図的に「マリーはもうこの国にはいない」と周辺諸国に触れ回り、隣国たちはそれを好機とばかりに一斉に侵攻を開始。国境の砦は次々と陥落し、領土は瞬く間に削られていった。
止めを刺したのは、帝国軍だった。
「第三王子ノエルの迫害」という大義名分を掲げて堂々と進軍し、戦に次ぐ戦で疲弊していた王国はろくに抵抗することもできず、王都を完全に包囲されてしまう。
程なくして王族たちは捕らえられ、領地も国名も地図から消え、ついにグランツフェルト王国は滅亡した。
「マリーさん、こうなることわかってたんですか?」
「まあね。」
マリーはまるで天気の話でもしているかのように、あっさりと答えた。
「別に謁見の間で暴れてもよかったんだけどね。あの程度の近衛兵なんかじゃ私を止めるの無理だし。
でもそしたらノエルが王様になっちゃうかもしれないじゃない?色々大変でしょ?」
とんでもないことを当たり前のように言い放つが、実際マリーは別に変なことを言っているつもりはないらしい。
「それだったら、待遇良さそうなところに行った方がいいかなって思ったのよ」
実際に二人に与えられたのは、亡命者という立場からは考えられないほどの破格の待遇だった。
マリーもノエルも正式に貴族としての身分を保証され、帝都の離宮での生活を許されている。広い庭園や専属の使用人まで備えられたその環境は、亡命者というよりまるで賓客として迎えいれられたようにも見える。
さらに、同行したノエルの母や侍女たちに至るまで国民としての地位を与えられ、それぞれが安堵の表情を見せていた。ここまで手厚く迎え入れられること自体、異例のことであった。
グランツフェルト王国が滅び、帝都はしばらくその戦果に沸き立っていた。祝宴や凱旋の声が続き、街中が熱気に包まれていたが、やがて喧騒も落ち着きを取り戻していく。
そんなある日、王宮の回廊を並んで歩いていたとき、ノエルはふいに足を緩め、隣のマリーへと視線を向けた。
そして、静かな声音で口を開いた。
「……マリーさんは、ここで待っていてくれませんか?」
「どうしたの?」
ノエルは一瞬だけ視線を伏せ、そして小さく首を振る。
「少し……会わなければならない人がいるんです。でも、なるべくなら、マリーさんを合わせたくはないんです」
その様子を見て、マリーはそれ以上は問いたださなかった。
ノエルは一人で歩を進める。石造りの階段を下り、冷たい空気の漂う地下牢へ向かって行った。
そこには、鉄格子に縋りついた一人の奴隷――かつて「新王」を名乗った第一王子、アルベルトの姿があった。
「お……おお、ノエルじゃないか!」
低く掠れた声が、石造りの牢の奥から響いた。
鉄格子にすがりついているのは、痩せ衰えた第一王子アルベルトだった。骨ばった指が鉄を握りしめ、爪は割れて黒ずんでいる。頬はこけ、唇はひび割れ、乾ききっていた。血走った目だけが異様な執念を宿して、ノエルを見上げている。
「……久しぶりですね、兄上」
ノエルが淡々と応じると、アルベルトは鉄格子に顔を押しつけるようにして縋り、かすれた声を必死に張り上げた。
「ノエル……弟よ。お前ならわかってくれるはずだ。俺をここから出してくれ。血を分けた兄弟じゃないか!俺はこんなところにいて良いはずの人間じゃないんだ!」
「僕はあなたに、父上を殺されました」
ノエルの声音は冷え切っていた。
アルベルトの顔が引きつる。必死に笑みを作りながら、鉄格子越しに手を伸ばす。
「お、お前までそんな言い方をするな! 弟だろう? 子供の頃、私がどれだけ面倒を見てやったか覚えているだろう!? 頼む、ここを開けろ! 一緒に王国を……」
「あなたに面倒見てもらった記憶なんて一つとしてありませんよ」
嫌悪を隠そうともせず、ノエルは吐き捨てる。
その後、少しためらうように息を呑み目を瞑った。
「それに……王国はもうありません。あなたが壊したんです」
短く告げるノエルの声に、アルベルトの目が見開かれる。
その瞬間、縋りが砕け、憎悪が燃え上がった。
「この出来損ないがァッ!」
獣のような叫びとともに鉄格子へ体当たりし、腕を差し入れてノエルに掴みかかろうとする。
爪の割れた手が必死に届こうとし、ノエルの頬にかすかに風を感じさせた。
「貴様があの女を連れて亡命などするから!貴様のせいだ全て!俺から奪ったものを返せぇッ!」
「マリーさんを捨てたことで立場など揺らがないとか言ってた人は誰でしたか?」
「黙れぇ! 俺が、俺こそが王だ! 王が思うがままに振る舞って何が悪い!貴様のような出来損ないに何がわかる!」
「僕のことなんてどうでも良いんです。僕が許せないのは、兄上がマリーさんにした仕打ちです。」
「……仕打ちだと? ははっ、笑わせるな!」
アルベルトは鉄格子を叩きつけ、薄笑いを歪ませた。
「所詮は戦しか能のない平民上がりだ! 俺の言うことだけ聞いていれば良かったものを……! これだから穢れた血は碌なことをしない!」
ガシャンと大きな音を立てて鉄格子が軋むが、ノエルは一歩も引かず瞬き一つせず、静かに告げる。
「あなたは、マリーさんに愛想を尽かされたんですよ。国が滅んでも構わないと、そう思われるほどに。……それに身分の事なら、今のあなたはただの囚われた奴隷です。少しは口を慎んだらどうですか?」
「黙れぇッ! 俺が奴隷だと!? ふざけるな! 俺は王だ! 王なんだ! お前のような出来損のせいで!」
鉄格子に血が飛び散るほど体当たりし、絶叫を上げるアルベルト。
ノエルは冷ややかにその様を見つめ、最後に言葉を落とした。
「……せいぜい、マリーさんに詫びながら地獄に堕ちてください」
それだけ告げると、踵を返し、地下牢を後にした。
「もう、いいの?」
階段を上がったところで、待っていたマリーが静かに問いかけてきた。
「はい。……まだ、マリーさんにしたことは許せませんけど」
ノエルはわずかに視線を落とし、固い声で答える。
「別に気にしなくていいのに」
「僕が気にするんです」
少し怒ったような、拗ねたような声音で返す。
マリーは小さく笑みを浮かべ、手を伸ばしてノエルの頭を撫でる。
「はいはい、ありがとね」
柔らかな仕草に、ノエルはむっと頬を膨らませた。また子供扱いされたことに納得できず、眉を寄せている。
「マリーさん、王国が無くなったので……婚約は白紙になりました。それに、僕はもう王族でもありません。マリーさんはここでもきっと武功を立てて、また出世していくでしょう。僕と婚約するメリットなんて、もう何もありません」
ノエルは言い終えると、ぎゅっと両手を握りしめ、視線を落とした。沈黙ののち、息を吸い込み、決意を押し出すように顔を上げる。
「でも、それでも。僕はマリーさんが好きです。どうか、もう一度……婚約していただけませんか?」
マリーは思わず肩をすくめ、小さな笑いをもらした。指を伸ばし、ノエルの頬を軽くつつく。
「まだまだ子供なのに、言うことだけは一人前ね。二年早いわよ。そういうセリフはもっと大人になってから言いなさい」
そう言って頭をポンポンと叩き、軽くあしらう。首元のネックレスの石をなぞりながら、マリーは先に歩みを進めた。
取り残されたノエルは、その場で肩を落とし、大きなため息を吐いてしょんぼりとうなだれた。
あからさまに落胆の色を浮かべる姿を見て、控えていた侍女が少し迷ったようにノエルに耳打ちする。
亡命の折、マリーは皇帝陛下に直々に願い出たらしい。淑女教育を受けさせてほしい、と。どうしても二年後、ノエルが成人を迎えるまでに間に合わせたいのだと。
以来、彼女は不慣れな作法の稽古を日々欠かさず続けているという。
「それって……」と呟いて、ノエルもその意味を理解する。気づいた時には、もう足が勝手に動き、マリーの背中に向かって声を上げていた。
「マリーさん! 二年後まで……絶対待っててくださいね!」