第9話 夏の約束
季節は8月。
パソコン教室が始まって、気づけばもう1ヶ月が経った。
月に2回のペースで、7月からすでに3回開催。
最初の頃は、HTMLって聞いただけで硬直してた三谷が、今じゃブラインドタッチとまではいかないけど、キーボードを打つ手にリズムが出てきた。
たぶん、本人は気づいてない。けど、見てるとわかる。
「タグの意味って、もっと知った方がいいですか?」
この前、三谷がそんなことを聞いてきた。
……あのときの三谷は、本気で“知りたい”って顔をしてた。
誰かに強制されたわけでもなく、自分でそう思ってる顔だった。
佐伯部長も、ずっと“自己紹介ページ”を更新し続けている。
たまに猫の画像が増えてたり、BGMが変わってたりするのは、たぶんユウの仕業だけど。
まさか、自分がこんなふうに人に何かを教えて、
「楽しかったです」とか「次も来たいです」とか言われる日が来るなんて。
やってみなきゃ、わからないもんだなって、しみじみ思う。
──ただ、パソコン教室のゴールって、どこに置けばいいんだろう。
教える側の自分が、答えを決めてしまっていいものなのか……正直、まだわかっていない。
そんなある日だった。8月19日。
今日は会社の創立記念日で、ぽっかりと空いた平日の休日。
何の予定もなくて、外は暑くて、家にいても何もする気が起きなかった。
最近はめっきり立ち飲み屋にも行かなくなったし。
かといって、誰かと遊ぶようなタイプでもない。
なんとなく冷蔵庫を開けて、冷やしすぎた麦茶を取り出す。
窓の外では、セミがやかましく鳴いている。
……こんな日は、寝て過ごすのが正解かもしれない。
そう思ってソファに沈みかけた、そのときだった。
「まっしー」
突然、部屋に声が響いた。
──ユウがいた。
おいおい、なんでお前がいるんだよ!? ここ会社じゃないぞ!?
「みんなが休んでるのに僕だけ会社なんて退屈じゃん」
「お前なあ...」
まるで当然のような顔で言うな。
こいつは“会社にしか現れない存在”なんじゃなかったのか?
いや、そもそも“存在”ってなんだ。
「ねえ、まっしー。行きたいところがあるんだ」
「……は?」
「どうせ暇でしょ。ついてきてよ」
返事を待たずに、ユウは歩き出す。
いつものように勝手で、少し強引で、でも──放っておけないやつ。
結局、電車に揺られ、フェリーに乗って、辿り着いたのは香川県の女木島だった。
白い砂浜。青い空。小さな港町の向こうに、鬼の洞窟と名付けられた岩場。
「ここ、“鬼ヶ島”って呼ばれてるんだよ」
「……知ってる」
ユウは満足そうにうなずいた。
「ほんとはね、鬼なんていなかったんだって。
でも、“いたことにした”ら、都合がよかったんだよね、たぶん」
「……お前、急に哲学みたいなこと言うな」
「そうかな?」
島の奥、観光用に整備された洞窟を歩きながら、ユウは言った。
「この場所、誰かを閉じ込めるために作られたんだよ。
でも、いまは観光地になって、忘れられたようで、忘れられてない」
「……」
ぽつりとこぼすような声だった。
「まっしーは、何を閉じ込めてるの?」
歩みが止まる。
問いかけに即答できなかったのは、図星を突かれたからか、それとも──
洞窟を出ると、潮風が吹いていた。
ベンチに腰かけたユウが、空を見上げながら言う。
「ほんとはね、桜の季節に来たかったんだ」
俺は無言でユウの顔を見ていた。
「春。ここ、桜がすっごくきれいなんだよ」
ユウが、どこか遠い目をしている気がした。
「来たいなら……くればいいじゃんか」
俺がそう返すと、ユウは何も言わずに──少しだけ、困ったように笑った。
「……うん、そうだね」
その笑顔が、どうしようもなく儚く見えて、なぜか胸の奥がざわついた。
──なぜだろう。
ほんの冗談みたいな会話のはずだ。
「……ねえ、まっしー」
「ん?」
船を待つ桟橋で、ユウがぽつりと呟いた。
「……仕事、頑張ろうね」
その声は、波の音に紛れて、小さく消えていった。
夏の日差しが、静かに海面を照らしていた。