表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/22

第7話 梅雨の終わりと──

──定時を過ぎた帰り道。


 空はうっすらと茜色に染まり、会社の灯りが背後に遠ざかっていく。

 鞄の重みが、いつもより少しだけ軽く感じられたのは、きっと──あのメールのおかげだ。


(パソコン教室……内容、どうするかな)


 興味を持って、来てくれる人がいる。

 だったら、ただの自己満足じゃなくて、ちゃんと意味のある時間にしたい。


 でも──関数の使い方? ショートカットキー?

 そんなの、ネットを探せばいくらでも出てくる。


(……本当に、それでいいのか?)


 立ち止まり、ため息をついたそのときだった。


「……真嶋さん」


 振り返ると、少し離れた歩道の端に、制服姿の三谷が立っていた。


「……三谷さん?」


 彼女は、どこか迷うような目で、少しだけこちらに歩み寄ってきた。

 けれどすぐには口を開かず、何かを押し殺すように視線を落とす。


「今日は……すみませんでした」


「いや、俺の方こそ。いきなり声かけて、ごめん」


 そう返すと、彼女は小さく首を振った。


「……本当は、行きたかったんです。教室」


 その言葉に、胸が締めつけられる。


「でも、課長にダメだって言われて……自信がなくなって。

 それに、私が行ったら、また迷惑かけるんじゃないかって思ってしまって……」


 その目は、どこかで諦めようとしているように見えた。


「迷惑なんかじゃないよ」


 俺の声は、自分でも驚くほど自然に出た。


「“変わりたい”って気持ちは、誰にも否定できないし、俺は──

 そう思ってくれた人のこと、応援したいって思う」


 彼女の瞳が、ほんの少し揺れた。


「……わたし」


 一瞬、言葉を飲み込んでから、三谷は顔を上げた。


「私、まだ何にもできないけど──変わりたいです」


「うん」


 俺は、ゆっくり微笑んだ。


「一緒に、できることから始めよう」


 三谷は不安気に「でも……」と続けた。


「……課長、わかってくれるでしょうか……」


 業務外の活動。新人の参加。あの厳しい課長が、すんなり頷いてくれるはずがない。

 それでも、あの子の目を見てしまったから──もう、引き返せなかった。


「俺が説得してみるよ」


 三谷が驚いたように視線を上げる。


 そのとき、風が吹いた。

 湿った空気のなかに、わずかに光の匂いが混ざる。

 長く続いた雨の季節が、ようやく終わろうとしていた。



 ──翌朝。


「……つまり、定時後に開く有志の講習なので、業務時間には一切かかりません。

 受注課の業務で残業になるようなら、もちろん業務優先で構いません。支障のないよう、調整します」


 俺は、森下課長のデスク前で頭を下げていた。

 冷や汗が止まらない。


「それに……彼女、自分を変えようとしてるんです。

 だからこそ、職場としても支えてあげたい」


 課長は腕を組んで俺を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……はあ」


 森下課長は、めんどくさそうに視線をそらす。


「別に好きにしてくれたらいいですけど……業務に悪影響と判断したら、人事部長に報告しますからね」


「ありがとうございます」


 ぴしゃりと書類を閉じる音。

 それでも、なぜか俺には妙にあたたかく感じられた。



 その夜、帰宅してからも俺はPCに向かっていた。


 関数の使い方でも、ショートカットキーでもない。

 誰かの一歩を支える、もっと根っこの部分。

 三谷にも、佐伯部長にも、なにか持ち帰ってもらえるようなもの。


 スキルを教えるだけじゃない。

 あの子にとって、小さくても“自分の居場所”だと思える時間を──。


 そんなとき、ふと画面の片隅にある検索エンジンのアイコンが目に入った。

 誰かの答えを探すための場所。


 (……いいの、あるじゃんか)



 明くる日の定時後。

 ユウが、ぴょこんと顔を出す。


「まっしー! 三谷ちゃん、よかったね! 講習、ちゃんと決まったの?」


「ああ」


 俺はPCの画面をユウに向けて見せた。

 ユウは目を丸くしたあと、ニヤリと笑った。


「……まっしー、本気?」


「本気だよ」


 俺は、モニターを見つめたまま、静かに頷いた。


「きっと、面白くなる。絶対に大丈夫だ」


「ふふっ……なんか、まっしーっぽいね」


 ユウが笑う。

 それはどこか嬉しそうで、ちょっとだけ、誇らしげだった。


 静かに──けれど確かな何かが、ひとつずつ動き始めていた。


 俺の時間も、梅雨の終わりとともに、ようやく動き出す気がした。


 夏が、はじまろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ