第7話 梅雨の終わりと──
──定時を過ぎた帰り道。
空はうっすらと茜色に染まり、会社の灯りが背後に遠ざかっていく。
鞄の重みが、いつもより少しだけ軽く感じられたのは、きっと──あのメールのおかげだ。
(パソコン教室……内容、どうするかな)
興味を持って、来てくれる人がいる。
だったら、ただの自己満足じゃなくて、ちゃんと意味のある時間にしたい。
でも──関数の使い方? ショートカットキー?
そんなの、ネットを探せばいくらでも出てくる。
(……本当に、それでいいのか?)
立ち止まり、ため息をついたそのときだった。
「……真嶋さん」
振り返ると、少し離れた歩道の端に、制服姿の三谷が立っていた。
「……三谷さん?」
彼女は、どこか迷うような目で、少しだけこちらに歩み寄ってきた。
けれどすぐには口を開かず、何かを押し殺すように視線を落とす。
「今日は……すみませんでした」
「いや、俺の方こそ。いきなり声かけて、ごめん」
そう返すと、彼女は小さく首を振った。
「……本当は、行きたかったんです。教室」
その言葉に、胸が締めつけられる。
「でも、課長にダメだって言われて……自信がなくなって。
それに、私が行ったら、また迷惑かけるんじゃないかって思ってしまって……」
その目は、どこかで諦めようとしているように見えた。
「迷惑なんかじゃないよ」
俺の声は、自分でも驚くほど自然に出た。
「“変わりたい”って気持ちは、誰にも否定できないし、俺は──
そう思ってくれた人のこと、応援したいって思う」
彼女の瞳が、ほんの少し揺れた。
「……わたし」
一瞬、言葉を飲み込んでから、三谷は顔を上げた。
「私、まだ何にもできないけど──変わりたいです」
「うん」
俺は、ゆっくり微笑んだ。
「一緒に、できることから始めよう」
三谷は不安気に「でも……」と続けた。
「……課長、わかってくれるでしょうか……」
業務外の活動。新人の参加。あの厳しい課長が、すんなり頷いてくれるはずがない。
それでも、あの子の目を見てしまったから──もう、引き返せなかった。
「俺が説得してみるよ」
三谷が驚いたように視線を上げる。
そのとき、風が吹いた。
湿った空気のなかに、わずかに光の匂いが混ざる。
長く続いた雨の季節が、ようやく終わろうとしていた。
⸻
──翌朝。
「……つまり、定時後に開く有志の講習なので、業務時間には一切かかりません。
受注課の業務で残業になるようなら、もちろん業務優先で構いません。支障のないよう、調整します」
俺は、森下課長のデスク前で頭を下げていた。
冷や汗が止まらない。
「それに……彼女、自分を変えようとしてるんです。
だからこそ、職場としても支えてあげたい」
課長は腕を組んで俺を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……はあ」
森下課長は、めんどくさそうに視線をそらす。
「別に好きにしてくれたらいいですけど……業務に悪影響と判断したら、人事部長に報告しますからね」
「ありがとうございます」
ぴしゃりと書類を閉じる音。
それでも、なぜか俺には妙にあたたかく感じられた。
⸻
その夜、帰宅してからも俺はPCに向かっていた。
関数の使い方でも、ショートカットキーでもない。
誰かの一歩を支える、もっと根っこの部分。
三谷にも、佐伯部長にも、なにか持ち帰ってもらえるようなもの。
スキルを教えるだけじゃない。
あの子にとって、小さくても“自分の居場所”だと思える時間を──。
そんなとき、ふと画面の片隅にある検索エンジンのアイコンが目に入った。
誰かの答えを探すための場所。
(……いいの、あるじゃんか)
⸻
明くる日の定時後。
ユウが、ぴょこんと顔を出す。
「まっしー! 三谷ちゃん、よかったね! 講習、ちゃんと決まったの?」
「ああ」
俺はPCの画面をユウに向けて見せた。
ユウは目を丸くしたあと、ニヤリと笑った。
「……まっしー、本気?」
「本気だよ」
俺は、モニターを見つめたまま、静かに頷いた。
「きっと、面白くなる。絶対に大丈夫だ」
「ふふっ……なんか、まっしーっぽいね」
ユウが笑う。
それはどこか嬉しそうで、ちょっとだけ、誇らしげだった。
静かに──けれど確かな何かが、ひとつずつ動き始めていた。
俺の時間も、梅雨の終わりとともに、ようやく動き出す気がした。
夏が、はじまろうとしていた。




