第6話 君に、届かなくても
──その朝、社内の空気が、ほんの少しざわついていた。
「えっ、誰あれ……真嶋さん?」
「雰囲気、変わった……?」
「わ、ちょっとカッコよくなってない?」
通りすがりの女子社員たちが、ちらちらとこちらを見ては、ひそひそと囁いていた。
俺は無言でタイムカードを押す。
(……そんなに変わったか?)
美容院で整えてもらった髪は、まだ自分でも見慣れない。
けれど、これで何かが変わるなら──そう思った。
廊下を歩いていると、すれ違ったのは三谷だった。
「あっ……」
彼女は俺に気づくと、少しだけ目を見開いてから、そっと目を逸らす。
でも、去ろうとするその足がふと止まり、小さく声が落ちた。
「……あの、なんか……いいと思います。髪、似合ってます」
顔を赤らめながら、かすかに笑うように。
「そっか、ありがと」
思わず、肩の力が抜けた。
──その横で、備品棚の影からひょっこり顔を出したユウが、満足そうに頷いていた。
「うんうん、第一印象アップ、成功だね、まっしー」
「お前、どこにでもいるな……」
⸻
午後。
受注課の空気は、静かに張り詰めていた。
三谷薫はコピー機の前で、一枚の紙を両手で握っていた。
《社内パソコン教室 参加申込書》
興味がないと言えば、嘘になる。
自分の不器用さも、不甲斐なさも、誰より自分が分かっている。
それでも、「できない自分」を変える一歩になれば──そう思った。
その時。
「……なにそれ。まさか、それ出す気?」
振り向くと、受注課の課長・森下が、腕を組んで立っていた。
「……はい。あの、パソコン教室っていうのがあって……」
「は?」
森下は呆れたようにため息をついた。
「三谷さん、自分の仕事も満足にできてないのに、教室? 順番、違わない?」
その言葉に、喉の奥がきゅっと詰まる。
「やる気だけあってもなあ……。まず“受注業務”を完璧にしてから、そういうのは考えて?」
胸ポケットに握りしめた申込用紙を押し込んで、三谷は静かに席へ戻った。
(……分かってる。でも、それでも……)
心の中で呟いた言葉は、誰にも届かなかった。
⸻
午後の休憩時間。
自販機でコーヒーを買っていた俺は、たまたま通りかかった三谷を見かけた。
「三谷さん──」
声をかけた瞬間、彼女はぴくりと反応し、一瞬こちらを見た。
でも──
「すみません!」
言葉を残し、まるで逃げるように背を向けて去っていった。
(……あれ?)
(俺……避けられてる?)
さっきの反応が、ひどく胸に刺さった。
調子に乗ってたのかもしれない。
髪型を変えて、周囲の反応が良くて。
自分が三谷の力になれるって、勝手に思い込んでた。
「三谷さんが応募しないんじゃ……パソコン教室なんて、やりたい人いないだろうな……」
言葉にするには小さすぎる声で、誰にも聞こえない呟きがこぼれた。
⸻
夕方。
オフィスに戻り、PCにふと届いた通知を開く。
──社内メール:1件
《パソコン教室 参加希望》
(……え?)
送信者の名前を見て、思わず息を呑んだ。
「製造部長・佐伯英人」
あの“鬼部長”として有名な人物が?
本文には、こう綴られていた。
「若いやつらが動いてるのを見て、ちょっと刺激された。俺もそろそろ“リスキリング”ってやつ、してみようかと思ってな」
画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
たった一通の応募。
けれど、その一歩が、不思議なほど力強くて──あたたかかった。
⸻
備品室の前。
ユウが壁にもたれ、満足げに笑っていた。
「ねえ、まっしー」
「……なんだよ」
「誰かの勇気ってさ。伝わるときは、ほんとに思いもよらないとこから返ってくるんだよ」
俺は、ふっと笑った。
「……ほんと、そうだな」
少しだけ視線を落としながら──ふと思う。
三谷の本心は、まだわからない。
それでも──今の自分にできることを、ひとつずつやっていこうと思った。
誰かの背中を、ほんの少しでも押せるように。