第4話 見えない教室
定時を数分すぎた夕方のオフィス。
まだちらほらと残業中の人影がある中、俺は意を決して、管理部の奥にある部長席へ向かった。
「……すみません。ご相談がありまして」
顔を上げたのは、うちの人事部長・小田さん。
50代前半、几帳面で気さく。情シスである俺の直属の上司でもある。
「おや真嶋くん、珍しいね。どうしたの。まさか辞めるとか言わないでよ?」
「いえっ! そんなことじゃなくて……」
慌てて手を振る。タイミングを完全にミスった気がした。
「実は、“パソコン教室”を開いてみたいと思いまして」
「……へぇ?」
小田さんの眉がぴくりと上がった。
「副業は禁止って、知ってるよね?」
「そうじゃなくて……終業後に、有志で。
場所と、使っていないパソコンを数台だけお借りできればと思って」
「場所は? 人数は? 目的は?」
「会議スペースを借りて、人数はこれから募ります。希望者に基礎的なスキルを教えられたらと思っていて。個人の成長にも、会社にも、きっとプラスになると思うんです」
しばらく沈黙が落ちたあと、小田さんの口元が緩んだ。
「……あの子のことかい?」
「……え?」
「受注課の新人ちゃん。三谷さん、だったか。最近よく叱られてるのを見かける。君、気にしてたろ?」
「……まぁ、少しだけ」
「ふふ、そういうところ、変わらないね。君は昔から、“必要なときに必要な場所にいる人間”だよ」
それは、何気ないようで、すごく温かい言葉だった。
「分かった。まずは試験的にやってみよう。使用申請と、簡単な参加者リストだけ提出して」
「……ありがとうございます!」
深く頭を下げると、小田さんは肩をすくめた。
「本当は、そういうの、人事の仕事なんだけどね。
でも“教えられる人”っていうのは、意外と希少なんだよ」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
⸻
定時を過ぎて、タイムカードを押す。
「ピッ」という音が、今日の業務の終わりを告げた。
──けれど、俺の“今日の仕事”は、まだ終わらない。
オフィスに残る空調音と静けさの中、自席に戻る。
文章ソフトを開き、新しい文書に向かってタイピングを始めた。
タイトルは──『パソコン教室のお知らせ(有志)』
(……ちょっと堅いか? でも、真面目さは伝わるだろう)
参加条件、開催日程、対象者、会議スペースの使用について──頭の中で整理しながら、一文一文を丁寧に打ち込んでいく。
俺は今、誰かのために動いている。
それは、たった数日前の俺なら思いもよらなかったことだった。
「ふふーん、まっしー、早速ノリノリだねぇ」
振り返ると、案の定、ユウがいた。
椅子の背に座り、足をぶらぶら揺らしながら、いつもの調子で笑っている。
「いいねいいね。そういう頑張り屋さんなとこ。俺、結構好きだよ」
「……茶化すなよ。別に善人ぶってるわけじゃない」
「でも、“誰かのために動くまっしー”は、昔のまんまだね」
「……そうなのかな」
キーボードを打ちながら、小さく息をついた。
“誰かのために”なんて、恥ずかしいことを自覚したのは、ずっと後になってからだった。
「じゃあ、俺も参加しようかなー。見学枠で」
「お前は社員でもないし、そもそも見えてないだろ」
「えー、それって差別じゃない?」
「はいはい、黙ってろ」
──でも、なぜだろう。
そう言いながら、心のどこかで救われている自分がいた。
プリンタから出てきた紙を取り上げ、掲示スペースへ向かう。
廊下には誰もいない。空調の風だけが、静かにシャツの裾を揺らしていた。
案内文を掲示板に貼りつける。
どこかの誰かの、ほんの少しの勇気に繋がってくれたら──
それだけで、今日は悪くない一日だったと思える。
ユウの声が、ふと耳元でささやいた。
「まっしー。いいじゃん、それ。ちゃんと今、生きてるって感じする」
その声に振り向くと、彼はもういなかった。