第3話 寄り道の先で
定時を過ぎた帰り道。
曇り空の下、会社の灯りが背後でゆっくりと遠ざかっていく。
いつもの立ち飲み屋に寄るか、いや──コンビニでビールを買おう。
最寄り駅に向かう、街灯の少ない道。
ふと、前方の公園のベンチに、見覚えのある制服が見えた。
膝を抱え、うつむいている。
「……三谷さん?」
声をかけると、彼女が顔を上げた。
目元が赤くなっていて、街灯の下でも涙の跡が見てとれた。
「……す、すみません……変なとこ、見られて……」
慌てて顔をそむける。
「いや、俺もたまたま通っただけだから。……三谷さんも電車通勤なんだ?」
「……はい。……車の免許、持っていなくて……今日は少しだけ、寄り道してました」
ぎこちない沈黙が流れる。
俺は、少しだけ勇気を出して、あの話を切り出した。
「昨日……怒られてるの、聞こえちゃって。……いつもあんな感じなの?」
その言葉に、彼女は驚いたように顔を上げた。
そして、震えながらも、言葉をひとつひとつ、紡いでいく。
「……私、受注課なんですけど、毎日、電話取ったり、受付に出たり、お茶出ししながら──」
「お客様からいただいた注文を、システムに入力するんです。だけど、ルールがいっぱいあって……」
「商品によって入力の仕方が違ったり、注意するところもバラバラで、どうしても覚えきれなくて……」
「処理も遅くて、ミスばっかりで……今日も、昨日も、怒られてばかりで……」
「……課長に言われたんです。“今までの新人で一番できが悪い”って……」
ぽろぽろとこぼれ落ちてくるような声だった。
泣いているところを見せたくないのか、目元を袖でぬぐいながら、顔をそらす。
俺は、ただ聞いていた。
思えば、俺もそうだった。
器用に振る舞ってきたようで、肝心なところでは何も掴めなかった。
諦めたふりをして、逃げただけだった。
「……三谷さん」
声に出すと、彼女が顔を上げる。
「ちゃんと泣けるのは、いいことだよ。
……たぶん俺、もう泣き方忘れたし」
「……そうですか?」
「そう。泣けるのも、素直に痛いって思えるのも、いまのうちだけだから」
自分でも、驚くほど自然に言葉が出た。
何かがほんの少し、戻ってきた気がした。
「……帰ろうか。次の電車逃したら、結構待っちゃうし」
三谷は小さくうなずき、立ち上がった。
帰宅後。
アパートの前でポケットに手を入れたとき、ふと気づいた。
(あれ……ビール、買い損ねた)
いつものコンビニを素通りしていた。
立ち飲み屋かコンビニでビールを買うのが、帰り道のルーティンみたいになっていたのに、今日はなぜか、すっかり忘れていた。
ドアを開けて、靴を脱ぐ。
「……ま、いっか。たまには」
部屋の明かりを点けながら、ぽつりと呟いた。
それが、ほんの少しだけ気分のいい夜だったことに、気づいたのは、もう少しあとのことだった。
翌朝。
出社して給湯室に向かうと、やっぱりそこにはユウがいた。
壁にもたれて、俺を見てニヤリと笑う。
「おはよう、まっしー」
「……ああ」
「へえ。今日はお酒くさくないねえ。珍しいじゃん」
「……うるさいな」
コーヒーを淹れながら、昨日のことをぼんやりと思い返していた。
三谷の言葉。涙。あの小さな声。
「――話、聞いてあげて、それで終わり?」
ユウの声に、手が止まる。
「……なにが言いたい」
「優しくするだけじゃ、守れないよ」
ユウは少しだけ真顔になる。
「受注の仕事ってさ、いわば、その道のプロの集まりなんだよ。かけた年数がものを言う仕事。
あの子、あのままだと潰れちゃう」
「……」
「真っ向からぶつかっても、経験じゃ敵わないでしょ?
だったら──別の武器、持たせてあげればいいじゃん」
ユウの声は、からかいでも皮肉でもなかった。
ただ静かに、まるで前から知っていたかのように。
「まっしー、持ってるでしょ。見た目より、けっこう強いやつ」
その言葉が、胸の奥に引っかかる。
(……ITか)
紙コップのコーヒーが、まだ少し熱かった。
考えるより先に、体が動きかけている気がした。




