最終回 何度でも、この場所で
穏やかな春の風が吹き抜ける。
東雲食品の敷地の奥、満開の桜が風に揺れていた。やわらかな陽射しが背中を押してくるような朝だった。
俺はいつものように自席に座り、配られた社内報をパラパラとめくる。
【RPA化事例紹介】【受注課業務改善インタビュー】の見出しが目に入った。
三谷が紹介されている。
──きっと朝から落ち着かない顔をしてるだろう。
ふと、松野の誘いを思い出す。
『まっしー、実力あるしさ。ITも強いし……なのに田舎で中小って、正直もったいないと思う』
たしかに、心が揺れた。
大学時代に描いていた未来、SIerに入社した頃の熱。
「社会を動かす大きな仕事がしたい」
そんな夢も、あった。
今の職場での日々は、あの頃の理想とは少し違って見えるかもしれない。
でも。
そっとオフィスに目を向ける。
受注課では三谷が、入社したばかりの新人と楽しげに話をしている。
製造部の佐伯部長は最近、タブレット片手に現場を歩き回っている。紙帳票の電子化がやっと軌道に乗ってきたらしい。
経理部の吉野さんは、今月からパソコン教室に参加してくれることになった。
同じ場所のはずのこの空気が、前より、少しだけ軽く感じるんだ。
*
昼休み。
社屋裏の小さな桜並木。ここは人の少ない、ひっそりとした場所だった。
缶コーヒー片手に歩いていると、背後から声がする。
「真嶋さん、明日お休みなんですか?」
振り返ると三谷が立っていた。
堂々とした視線で、こちらをまっすぐ見ている。
「ああ。有給とったんだ。……どうしても行きたい場所があって」
「えっ? 珍しいですね。どこか旅行ですか?」
「……まあ、そんなところかな」
曖昧に笑った。
三谷は首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。
「それじゃあ、良い休日を!」
「ありがとう。三谷さんも、新人ちゃんの教育係、がんばって」
三谷はぺこりとお辞儀して去っていく。
残された俺は、コーヒーをひとくち飲んで、ふうっと息をついた。
空には薄い雲の向こうに、春の陽射しがのぞいている。
*
翌朝。
高松港の岸壁に、静かな波音が響いていた。
俺の手には、小さな切符が2枚。
《高松港・フェリー乗船券》
潮風が吹き抜ける瀬戸内の島、女木島。
──あの夏の約束を、思い出していた。
「行こうか、ユウ。」
小さく、そう呟いてフェリーに乗り込む。
世界は、そう簡単には変わらない。
どれだけ願っても、望んでも、大きなことは何も動かないかもしれない。
でも、自分の小さな行動ひとつで、見える景色はきっと変わっていく。
今の俺は、そのことを少しだけ信じられるようになったんだ。
いま、はっきり言える。
俺は、自分が──この会社が、大好きだ。
次の春も...その次の春も、きっとこの場所で。
──その頃。
東雲食品のサーバー室。
静まり返った一角で、一台のPCのモニターが、ふと明るさを変えた。
──しばらくののち、誰も見ていないモニターの奥で、ひとことだけ、静かに文字が瞬いた。
《YUU_04_log》
《最後の同期完了:2026/04/05》
『またね。』
「オフラインの世界で。」 完




