第20話 さよならの雪解け
はあっ、はあっ……!
雪が、吹き荒れるように降っていた。
横殴りの風が頬を打つ。
視界は真っ白に霞んで、積もった雪に足がとられそうになる。
人気のない正月の商業街を抜けて、俺はひたすら走っていた。
ニットの裾は重く濡れ、ブーツの中に雪が染み込む。
(……ユウ……!)
足が止まらなかった。
胸の奥で、何かが叫んでいた。
──『結季をいじめんなああ!!』
突然、頭の奥に声が響く。
幼い頃の、自分の叫びだった。
──『だって、僕……』
──『僕とか言うから、なめられちゃうんだよ! ほら、俺っていう練習!』
──『いつまで真嶋くんって呼ぶんだよー』
──『だって、名前で呼ぶの恥ずかしいもん……』
──『なんだよそれ。じゃあ……俺はユウって呼ぶから。ユウもなんか考えてよ!』
──『……ましまくん……そうだっ……!まっしー!』
はあっ、はあっ……!
幼い声が、吹雪の中に溶けていく。
俺はその声を追いかけるように、足を止めなかった。
白く染まる視界の向こうに、会社の門が見えた。
正月の静まり返った敷地。
いつもなら閉まっている正月休みの正門が、わずかに開いている。
正門をくぐると見慣れた制服姿の少年が、そこに立っていた。
制服のまま、冬空の下、静かにこちらを見つめている。
「ユウ……!」
声が裏返った。
視界が滲んだまま、足が勝手に動いた。
「ユウ……! 結季っ……!!!!」
たまらず、腕を伸ばして飛びついた。
けれど──。
すり抜けて、雪の上に崩れ落ちた。
冷たい雪が頬を打つ。
掌が、氷のように冷たい床に触れた瞬間、痺れるような痛みが走った。
鼻の頭は感覚がなく、手の甲は真っ赤になっていた。
指先がかじかんで、震えているのが自分でもわかった。
「……ごめん……っ……俺……全部忘れてて……最低だ……」
震える声が漏れた。
空気が白く染まる。
降りしきる吹雪の音だけが、静かに耳を打った。
「仕方ないよ、まっしー」
優しい声が降ってきた。
顔を上げると、ユウがほんの数歩先に立っていた。
「まっしーと僕が過ごしたの、たったの数ヶ月だし」
「僕たちまだ低学年だったし」
「まっしーには僕以外にも、たくさんお友達いたんだし……」
ユウの言葉に胸が締め付けられる。
俺はなんとか言葉を絞りだした。
「でも……俺……約束したのに……!」
雪に膝をついたまま、拳を握りしめた。
「ねえ、まっしー。ここは寒いからさ。中で話そうよ」
ユウは微笑んで、そっと玄関のドアを押した。
中から通路の灯りが漏れた。
「でも今日は……」
「大丈夫。バレないようにしとくから」
にこりと笑って、ユウは歩き出した。
俺は震える膝で立ち上がり、その背中を追った。
がらんとした社内の廊下に、ふたりの足音だけが響く。
「……僕のお父さんは、先代のあとを継ぐために、いろんな職場で修行してたんだ」
ユウの声が静かに続いた。
「僕はお父さんについて行って、いろんな学校を転々としてた。だから、友達もなかなかできなくて……」
一瞬、声が途切れた。
ユウはちらりとこちらを見て、また前を向いた。
「髪の毛は地毛なのにこんな明るくて。なのに、引っ込み思案で。学校でもかなり浮いてた」
俺は黙って、その言葉に耳を傾けていた。
胸の奥が、じわじわと締めつけられていく。
「でも、まっしーは──」
ユウの声が、少しだけ震えた。
歩みが、ふっと止まる。
「……まっしーはね、僕にいっぱい話しかけてくれた。
一緒に給食食べてくれた。
一緒に帰ってくれた。
僕に、“友達”って言ってくれたんだ」
その場に立ち尽くすユウの背中が、ほんの少し震えて見えた。
「……せっかく、まっしーと仲良くなれたのに、また他県に引っ越すことになって……」
「大人になって、自由に過ごせるようになったら、また一緒に遊ぼって約束したのに……」
ユウは俯いて、小さな声で続けた。
「僕、おっちょこちょいだからさ。
ちゃんと約束、叶える前に……事故に遭っちゃった」
俺の胸の奥で、何かが張り裂けた。
「事故のあと、気がついたらここにいたんだ」
「この会社で働くいろんな人たちを見てるうちに、仕事ってどういうものか少しずつわかってきた」
「僕は誰にも気づかれず、干渉できない代わりに、ここにい続けることができた」
「そしたら──ある日、君がきたんだ」
「まっしーがこの会社に来てくれた時、僕、めちゃめちゃ、超嬉しかったんだよ」
振り返ったユウの目が、うっすら潤んでいた。
「でも……まっしー、昔とちょっと違って……自信なさそうで……いつも辛そうに見えた。
まっしーは僕のヒーローなのに」
「だから、僕……まっしーにどうしても伝えたくて」
俺は一歩、ユウに近づいた。
でも、その影は少しずつ淡くなっていた。
「ユウ……! 俺……!」
手を伸ばしかけた。
ユウは静かに首を振った。
「……僕、もうあんまり時間がないみたいなんだ」
ふっと微笑んで、ユウは一歩、後ろへ下がった。
「正月休みに入っちゃったから……もう会えないと思ってた」
ユウはにこりと笑い、ほんの少し肩をすくめた。
「……僕ね、ほんとうは、ずっと、ずっと、待ってたんだ」
「……まっしー、思い出してくれて……ありがとう」
一拍の間が落ちたあと、ユウはぽつりと続けた。
「まっしー、もう、僕のこと忘れないでね。
僕も、絶対忘れないから」
ふっと吹いた風に混ざるように、ユウの姿はゆっくりと、淡く溶けていった。
気がつけば、社内には静けさだけが残っていた。
俺はその場に立ち尽くしたまま、ぽつりと呟いた。
「……ユウ……俺……やっと思い出せたんだ」
「やっと……」
掌を見つめた。
ぽた、ぽた、と雫が落ちてくる
それを涙と認識したらもう止まらなかった。
俺は1人きりの会社で声を出して泣いた。
静まり返ったフロアに、自分の嗚咽だけが響いていた。




