第2話 まっしーと少年と新人と。
──あれは、夢なんかじゃなかった。
制服姿の少年。
琥珀色の目で、まっすぐに俺を見つめていた。
「お疲れさま、まっしー」と馴れ馴れしく声をかけてきて、誰もいない備品室の奥へ、ふっと消えていった。
(……なんだったんだ、あれは)
翌朝。出社してすぐ、俺は備品室の前に立ち尽くしていた。
何かが残っているような気がして。
まるで、見えない答えを探すように。
「真嶋さん……」
「……真嶋さん!」
遠慮がちな声が、耳に届く。
振り返ると、制服姿の少女が不安そうに立っていた。
受注課の新入社員、三谷 薫。
この春、高卒で入社してきたばかりの女の子だ。
黒髪のボブ。前髪は長めで、目元をすっかり隠している。意図的なのか、無意識なのか──彼女は世界との境界線を、自分で引いているように見えた。
「あの……すみません。物流部がどこか、わからなくなってしまって……」
伝票を抱えるように持ち、視線を床に落としたままのその声は、かすかに震えていた。
(どうして俺に……?)
わずかな疑問が残ったが、彼女の不安げな表情を見て、自然と声が出ていた。
「……ああ。案内するよ」
物流部は敷地の奥、渡り廊下を抜けた別棟にある。
外気がわずかに入り込む通路を歩くと、ふと、雨の匂いが鼻をかすめた。
舗装の継ぎ目から立ちのぼる水気と、微かな土の匂い。
まるで、雨に濡れた静かな午後の空気が、そのまま隣を歩いているようだった。
彼女は何も話さず、俺の横を半歩後ろで歩いていた。それだけなのに、不思議と印象に残る沈黙だった。
案内を終え、席に戻ろうとしたときだった。
「“まっしー”って、いいあだ名だよね」
自分のデスクの端に、あの少年が腰かけていた。
昨日と同じ制服姿。こちらを見て、にこにこと笑っている。
「……お前、また……」
声を出した瞬間、言葉が詰まった。
昨日、たしかに目の前で消えたはずの少年が──そこに、“当たり前のように”いる。
「お前は一体なんなんだ……」
少年は頷きもせず、ただ穏やかに笑っていた。
「まっしー、今日もブラックコーヒー? 胃、やられちゃうよ?」
「……うるさい。勝手に変なあだ名で呼ぶな」
苛立ち混じりに、隣の席の人事課 竹内さんへ声をかける。
「竹内さん、あのさ、この子供が――」
言いかけて、指が止まった。その先には、誰もいなかった。
「……いや、なんでもないです」
竹内さんが怪訝そうにこちらを見る。
(……やっぱり、見えてないんだ)
この少年は──俺にしか見えていない。
「人前で指差すの、ちょっと失礼だよ?」
机の端で、少年が足をぶらぶらさせながら言った。
「……お前、本当に、誰なんだよ」
問いかけると、彼は少し目を伏せて言った。
「それ、まっしーが思い出さなきゃ意味ないんだけどなあ」
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午後二時。社内の給湯スペースの隅、小さな丸テーブルで、俺は遅めの昼食をとっていた。
うちの会社は交代制で休憩を取っている。
俺はたいてい、この時間にひとりになる。
冷めたコンビニ弁当。無糖の缶コーヒー。
味なんて、最初から期待していない。
「また一人?」
顔を上げると、あの少年が向かいに座っていた。
誰もいないはずの空間で、当然のように。
「ランチくらい、誰かと食べなよ」
「……放っといてくれ」
「こうやって一人で食べてるの、もう何回目だろうね。ずっと見てたから、心配だよ」
「見てたって……いつからだよ、お前」
少年は曖昧に笑ったあと、少しだけ真顔になった。
「ねえ。俺が、ここにいる理由って、なんだと思う?」
「……知らねぇよ。興味もない」
そう返したものの、気になっていた。
この少年の目が、ときどき“誰かを待っている”ように見えることが。
「……俺は、お前の名前も知らねえし」
少年はしばらく黙ったあと、ぽつりと口にした。
「――ユウ。たぶん、そう呼ばれてた」
「“たぶん”って……自分の名前だろ?」
「あるんだよ、そういうこと。
まっしーだって最近、自分のこと、よくわかんなくなってるでしょ?」
その言葉に、胸の奥が引っかかった。
“自分のことがわからない”──その感覚は、思った以上に図星だった。
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午後。フロアの奥から怒声が響いた。
「三谷さん、これまた違うって言ってるでしょ!? 何回同じこと言わせるの!」
営業部のチーフの声だった。
視線を向けると、三谷が立ち尽くしていた。
手に持った帳票が小刻みに震え、顔は真っ青。前髪が頬に張りついている。
一歩、足が前に出かけて──止まる。
(……俺が出ていっても、余計ややこしくなるだけだ)
そう思いながらも、手に持った書類の端を、つい強く握っていた。
ユウが、そっと呟く。
「でも、まっしーって、そういうとき……昔は、迷わず動いてたよね。
自分の痛みより、誰かの困った顔に先に気づいてたのに」
その声に、胸の奥が静かに揺れた。
思い出しかけた何かを、いつからか奥深くに押し込んでいた感覚。
席に戻っても、チャットの通知音は鳴らなかった。
まるで、自分だけがオフラインのまま、世界から取り残されているようだった。
そんな俺の背中で、ユウがまた囁いた。
「――まっしー、忘れちゃったの?
君は……あの頃、自分のこと、ちゃんと好きだったんだよ」
言葉は静かに胸に沈み、やがて溶けるように消えていった。
けれど、消えたはずの感情の破片が、心の奥で何度も反響していた。
その日も変わらず午後二時、俺は給湯スペースで弁当を開けていた。
けれど、あの出来事が、ずっと頭に残っていた。三谷の震える手。押し殺したような表情。
そして──何もしなかった俺自身のことが、何より重かった。