第18話 ぼくのサンタさん
「……え? 真嶋くん、ごめん。ちょっと聞き間違いかもしれないから、もう一度言ってくれる?」
「会社に、クリスマスツリーを飾りたいんですっ」
静まり返ったオフィスに、俺の声だけが浮いていた。冬の乾いた光が窓から差し込んでいて、蛍光灯の明かりが妙に白々しい。
言ってから、少し後悔した。あまりに唐突で、子どもじみた願いに聞こえたかもしれない。
でも、そうでもしなきゃ──きっと、この気持ちは伝わらない。
あの夜の、ユウの表情がどうしても忘れられなかった。
計画停電の日。
会社の灯りがすべて落ちた、静かなオフィス。
『クリスマスツリーが、見たいんだ』
『……まっしーと一緒に』
駅前に出れば、街はすでにイルミネーションで彩られている。
百貨店にも広場にも、でっかいツリーはある。そう言っても、ユウは静かに首を振った。
「ここがいいの。……会社で、見たい」
その声は、小さくて。それでも、確かな意志がこもっていた。
あの言葉が、ずっと頭を離れなかった。
まるで心の奥にしまわれた引き出しが、そっと灯りをともしているみたいに──。
だから今、俺は人事部長・小田さんの前で、思いきり頭を下げている。
机にぶつかりそうな勢いで、言葉を絞り出す。
「……お願いします。自分で飾ります。片付けも、一人でやります。だから、ツリーを出させてもらえませんか」
小田さんは、少し驚いたように目を丸くしたあと、優しく微笑んだ。
「パソコン教室始めてから、前よりもっと優しくなったね
……でもツリーかあ。あるにはあるんだよね、実は」
「えっ、本当ですか?」
思わず身を乗り出すと、小田さんは懐かしそうに天井を見上げた。
「数年前までは、毎年玄関に飾ってたんだよ。立派なやつ。けっこう背も高くてね」
「そうだったんですね」
「うち、地域向けの取り組みで小学生の工場見学やってるでしょ? あれに合わせて、子どもたちが喜ぶようにって」
言われてみれば、そんな記憶がかすかにある。
まだ入社して間もない頃、玄関の片隅に大きなツリーが飾られていたような……。
ぼんやりとした記憶が、ふっと浮かび上がってくる。
「……でもねえ」
小田さんの声色が、少し落ちた。
「飾り付けも片付けも、どうしても業務時間外になっちゃうでしょ? そうなると、誰もやりたがらなくて……」
伏せられた目と、その語尾に、どこか申し訳なさそうな想いがにじんでいた。
「去年も、一昨年も……“やろう”って言う人がいなかったんだよね」
きっと、みんな忙しくて、余裕もなくて。
でも、心のどこかでは──誰かがやってくれたら、とは思っていたのかもしれない。
「俺が、やります」
気づけば、そう口にしていた。
小田さんは少し驚いたように目を見開き、それから、ほんの少しだけ嬉しそうに笑った。
*
定時が過ぎ、事務所の明かりもまばらになった頃。
俺は倉庫の奥から、ツリーがしまわれた大きな段ボール箱を引っ張り出していた。
「……うわ、思ったよりでかいな……」
箱の表面には、きらびやかなツリーのイラスト。記憶よりもずっと華やかだ。
端には、色とりどりのオーナメントや電飾の詰まった小箱が積み重ねられている。
荷台に載せ、玄関ホールまで運び出す。
このまま一人で飾りつけるには、少しばかり気が遠くなる作業だった。
──でも、いいんだ。
ユウと、約束したから。
見上げるあの子の目に、ちゃんとツリーの灯りを届けたい。
脚を組み立てようと床にしゃがみこんだ、そのとき──
「……真嶋さん?」
声に振り返ると、三谷が入口に立っていた。
どうやら帰りがけに通りかかって、声をかけてくれたらしい。
「三谷さん。……ちょっと、クリスマスツリー飾ろうと思って」
そう言うと、三谷は小さく目を丸くして──ふわっと笑った。
「わ、素敵ですね。……私も、お手伝いしていいですか?」
「えっ、いいの? 無理しなくていいよ、もう遅いし──」
「ぜんぜん! 飾りつけとか、好きなんです」
そう言ってスカートの裾を揺らしながら、三谷はしゃがみこむ。
手には、鈴型のオーナメントがひとつ。
「──おお、楽しそうなことやっとるのう!」
聞き慣れた声に振り向くと、佐伯部長が笑顔でやってきた。
箱の中をのぞき込みながら、オーナメントを漁り始める。
少しして、小田部長も顔を出した。
「おー、やってるやってる。三谷さんに佐伯部長まで! いやぁ、嬉しいなあ」
「……えー、なにやってるんですか〜?」
別の部署の若手もひょっこりと顔を出し、気がつけば、玄関ホールにどんどん人が増えていた。
誰かが言い出すわけでもなく、自然とみんなが手を動かし始める。
オーナメントに手を伸ばし、ガーランドを繋ぎ、脚立を持ってきてライトを巻いていく。
飾りがひとつ、またひとつと増えるたびに、会社の空気がほんの少しずつ、やわらかくなっていく気がした。
──ユウ。
君が、会社でツリーを見たかった理由が、少しだけわかった気がする。
誰かが笑って、誰かが黙々と手を動かして、それぞれが“ここにいていい”と思える、そんな時間。
それが、君の見たかった景色だったんじゃないかって。
俺は脚立に登りながら、金色の星を、そっとツリーのてっぺんに飾った。
*
「じゃあ、点灯しまーす!」
「せっかくなら、玄関の電気、消してみようか?」
誰かの提案に応じて、照明が落ちる。
一瞬、ホールが静寂に包まれる。
──そして次の瞬間。
赤、青、緑──ツリーの電飾がキラキラと色を変えて輝き出した。
その灯りに包まれながら、ふと視線を横に向ける。
──気がつけば、俺の隣に、ユウが立っていた。
「まっしー、ありがとう」
ユウの瞳に、ツリーの灯りが反射している。
その表情は、まるで夢を見ている子どものようで。
透き通るように、きれいだった。
「……ぼく、今日のこと、一生忘れないよ」
「まっしーは、ぼくのサンタさんだね」
その声は、小さな祈りのようにあたたかく、静かだった。
──この夜が、終わらなければいいのに。
そう思ったのは、ツリーの灯りのせいか。
それとも──あの笑顔のせいだったのか。