第14話 今の自分ごと。
──次の日になっても、俺はまだ松野に返事を返せずにいた。
あっという間に定時が終わり、気づけばパソコン教室の時間。
開始時間ギリギリだが、三谷がまだ来ていなかった。
「……来ないな」
そう呟いた俺の横で、ユウが椅子の背にもたれて言った。
「受注、今日すっごく忙しそうだったよ。ぼく、ちょっと見てくるよ」
「え? あ……」
言いかける間もなく、ユウはすっと消えていった。
会議室には俺と佐伯部長、ふたりきりになった。
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「まあ、忙しいときは仕方ないわな。連絡する余裕もないんじゃろ」
佐伯部長はのんびりと紙コップのお茶を傾ける。
俺はモニターに表示したサンプル画面をいじっていたが、指先の動きと心はまるで別の場所にあった。
頭の隅に、昨日のメッセージがずっと引っかかっている。
「……ほう」
佐伯部長の声がふっと落ち着いた調子になる。
「真嶋くん、何か悩んどるな?」
「……え?」
「わし、この教室で君の様子、よう見とるからな。そろそろわかるんじゃ。今日は特に目の奥が重い」
誤魔化せない。
俺はモニターから手を離し、肩の力が少し抜けた。
「……いや、本当、大したことないんです」
そう言いながら、発した声は自分でもわかるほど、沈んでいた。
「……同級生に、飲みに誘われてて」
思わず口が滑る。
「ふむ」
佐伯部長はまっすぐ俺の方をみて、話を聞いてくれた。
「……小学からの幼馴染で。大学も同じだったやつです」
言いながら、胸の奥がぎりぎりと痛い。
「向こうは──都心の大手のメーカーで、出世コースで。けど……俺は心が折れて、地元に戻って。なんか、今の俺が行っても……場違いなんじゃないかって」
そこまで言って、苦笑が漏れた。
何も変われてない。
結局、俺はずっと、こんなことを気にしているんだ。
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佐伯部長はしばらく黙っていた。
けれど、優しい目でこちらを見ていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「真嶋くん。……わしもな、昔はそういうのが怖うてな」
柔らかな口調だった。
「え……?」
「昔なあ、一緒に働いとった営業がいての。そいつは東京に出て、でっかい会社に転職。わしは地元に残って、こっちで黙々とやっとったがな」
「そいつが久々に帰ってきたとき、誘われて、わしも、よう行かんかった」
少しだけ、佐伯部長の目が遠くなる。
「……けどな──そのとき先代、今の社長のお父さんに言われたんじゃ」
『人は、“今どこにいるか”より、“何を大事にして生きてるか”で見られるんじゃ』と。
……それが今でも、わしの中に残っとる」
そう言って、佐伯部長は紙コップを置いた。
目が真っ直ぐこちらを見ていた。
「真嶋くん、今の君は──何も卑屈になる必要なんぞない」
「今の場所で、誰かの役に立とうとしている。それだけで、堂々と胸張ってええんじゃ」
少し笑って続けた。
「それに、職場や役職はただの役割じゃ。人の価値はもっと根っこの深いところにある」
「まあ、これは先代の受け売りじゃがな」
俺は、思わず息を詰めていたことに気づいた。
胸の奥に、少しだけ温かいものが広がっていた。
「……ありがとうございます」
「それに、あの三谷さんに、あんなに一生懸命教えてやっとるやないか」
「……はい」
自然と、背筋が伸びた気がした。
そのとき、ドアが開いた。
「す、すみません……! 遅くなって……!」
三谷が息を弾ませて飛び込んできた。
その姿を見て、佐伯はにっこりと笑った。
「おお、頑張っとるなあ」
俺は画面を見つめながら、ふと心の中で思った。
──俺もいつか、今の自分ごと、認めることができるだろうか。
変われるかどうかは、まだわからないけれど。
その夜、俺はたった一言、送った。
「行くよ」
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翌朝、カーテンの隙間から差し込む光が、妙に眩しく感じた。