第10話 崩れはじめた日常
※本作に登場するシステムや業務上のトラブル描写は、一般的な事例を参考にしたフィクションです。特定の企業・実在のシステムとは関係ありません。
創立記念日の翌日。
会社に着くと、いつも通りの朝が待っていた。
ユウは、何事もなかったかのように、俺のデスクの隣で脚をぶらぶらさせている。
まるで、あの“島”での出来事が幻だったかのように。
──いや、本当に幻だったのかもしれない。
それでも、あのときの言葉だけは、胸のどこかに静かに残っていた。
「……仕事、頑張ろうね」
あれは、あいつなりのエールだったのだろうか。
俺はひとつ息をつく。ユウは何も変わらない。
……大丈夫だ。昨日の違和感は、俺の思い過ごしだ。
午前中は、普段どおりに過ぎていった。
昼休憩のあと、14時前。
自席に戻る途中、ふと廊下で三谷とすれ違った。
「あ、三谷さん……前髪……」
思わず声が漏れる。
三谷の前髪が、すっきりと短く整えられていた。
顔まわりが明るくなって、ぱっと目を引く。
──こんなに目、大きかったんだ。
長いまつげが、廊下の窓から差し込む光を受けて、ふわりと影を落としている。
「……切ってみました。……変……でしょうか」
少し不安そうに、こちらを見上げてくる。
その仕草に、胸の奥がふっと熱くなるのを感じた。
「……ううん。似合ってるよ」
言ったあと、自分の声が少しだけ掠れているのに気づいた。
三谷は、わずかに頬を染めて、軽く会釈して歩き去っていった。
その背中を、思わず目で追ってしまう自分がいた。
──そして、それが訪れたのは、ほんの少しあとだった。
「すみません! ちょっと、出荷データが……おかしくて……!」
受注課から飛び込んできた声に、フロアがざわつく。
俺も画面を覗き込む。
一見ふつうに動いている。……だが。
「……今日の出荷データ、やたら欠品が多いと思って調べてたら、去年の注文が混ざってるっぽいです……」
「え?」
「昨日のEDI取り込み……バックアップファイルからとってくる時、間違えて過去のデータで取っちゃったかも……」
──その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
(マズい……。一年前のデータが、新規注文扱いで入ってる……!?)
基幹システムの受注は、納期が受注日+1日で自動で入る仕様になっている。
そこへ倉庫担当から電話が鳴る。
『おい、出荷リストと専用伝票の納期がメチャクチャな注文が山ほど入ってるぞ! これ、本当に出荷するのか!?』
倉庫はすでにピッキングを始めかけている。
空気が、一気に張り詰めた。
「……まっしー」
背後からユウの声がした。
振り返ると、いつもの軽い顔のまま、目だけが静かに翳っている。
「ちょっとまずいかも。……今回は、本当に。」
──夏の陽射しのなか、確かに何かが、静かに崩れはじめていた。
今回は、ちょっとリアルな「社内システムトラブル」の話でした。物語の中に出てきた用語を、軽く解説しておきますね。
•EDI(Electronic Data Interchange)
→ 企業間で注文データなどを電子的にやり取りする仕組み。昔の「FAXや電話で発注」から多くの企業がこのEDIに切り替わっています。
•バックアップファイル
→ システム障害や操作ミスに備えて、データの「控え」を定期的に保存しているファイルのこと。
今回はそこから間違えて古いデータを復元してしまった……という事故でした。
•納期 D+1
→ 受注した「翌日(D+1)」を納品予定日として自動登録する設定。リードタイムが短い業界で使われることが多い仕様のひとつです。
本来は当日〜翌日のスムーズな出荷を目的としたものですが、古い注文データが混じると「未来の納期」になってしまう、という罠が。
•ピッキング
→ 倉庫内で出荷指示に従って商品を集めてくる作業のこと。出荷リストをもとに、現場がすでに動き始めてしまうと「取り消し作業」がとても大変になります……。