第1話 それは、職場にいた。
学生時代の俺は、確かに──輝いていた。
特別な才能があったわけじゃない。
けれど、将来に希望を抱いていて、夢を語るのが楽しかった。
友達にも恵まれていたし、それなりにモテてもいた。
毎日が前に進んでいる気がして、根拠のない自信もあった。
……でも、気づけば。
いつからだろう。
誰かと話すたびに、どこかで引け目を感じるようになっていたのは。
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真嶋純也は、自分の人生が順調だと思っていた。
名のある国立大学で情報工学を学び、新卒で大手SIerに入社。
技術の最前線で、社会を動かす仕事に関わることを夢見ていた。
けれど、現実は、想像よりずっと過酷だった。
深夜帰宅、鳴り止まない電話、休日返上のデバッグ作業。
三年が経つ頃には、心も身体もすっかりすり減っていた。
そして、ある朝。
まるで電源を落とすように、ふっと会社を辞めた。
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それから数年。
二十八歳になった今、俺は地元の食品メーカー──東雲食品工業株式会社で、社内SEとして働いている。
プリンタの紙詰まり対応。IT初心者への操作説明。ベンダーとの調整。
古びた勤怠システムの保守に、たまに来る謎のPCトラブル。
本来やりたかった開発や業務改善の提案は、ここではほとんど通らない。
少しでも効率を良くしようと資料をまとめても、「今のやり方が一番いいから」のひと言で終わる。
最初のうちは、それでも食らいつこうとしていた。
でも、いつの間にか俺も、同じようになっていた。
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出社前、洗面台の前で鏡を見る。
クセのある黒髪を整える。
整っていないわけじゃない。顔立ちだけで言えば「かっこいい」と言われたこともあった。
でも、いまは違う。
無精ひげ、目の下のクマ、くたびれたジャケット。
“冴えない男”に見えるように、自分自身が仕立ててしまっているようだった。
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いつもの時間に東雲食品に出社する。
「おはようございます、真嶋さん」
「お疲れさまです、吉野さん」
経理部の吉野は、かつて「この会社、もうちょっと変われたらいいのに」と言っていた。最近はもう、何も言わなくなった。
メールを処理して、社内チャットを確認する。
「真嶋さーん、またプリンタ詰まってます〜」
お決まりの呼び出し。もはや“定型業務”の一つだ。
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廊下を歩いていると、チカチカと点滅する蛍光灯に気づく。
補修依頼は出してある。半年以上も前に。
誰も気にしない。“この会社”では、そういうものだ。
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プリンタの蓋を開け、詰まった紙を取り出す。
折れ曲がった端に滲んだインクが、どこか自分と重なった気がした。
──そのときだった。
ふと、誰かの視線を感じた。
給湯室の奥。
ガラス越しに、制服姿の少年が立っていた。
茶色がかった髪が頬に張りつき、猫っ毛のせいでところどころ跳ねている。
背は小さく、制服がわずかに大きめ。
琥珀色の瞳だけが、まっすぐに俺を見ていた。
「……え?」
瞬きをした。
──いなかった。
誰も、いない。
コピー機の唸り音だけが、妙に間の抜けたように響いている。
こんな場所に子供なんているはずがない。
(……疲れてんのか、俺)
苦笑して、蓋を閉じた。
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昼休み。
勤怠システムのログをチェックしていたとき、奇妙なログイン履歴に気づいた。
【YUU_04】
見覚えのないID。
社内の誰のアカウントにも該当しない。
ログイン時刻は──今日の朝9時20分。
つまり、俺がプリンタ対応をしていた時間だ。
端末は、自席のPCだった。
(まさか……)
そんなはずはないと思いながら、机の端を見ると──
付箋が貼られていた。
『まっしー、また無理してる。』
やわらかい字だった。
“まっしー”なんて呼び方、大学の一部の友人しか使っていなかった。
この会社で、そんな呼び方を知っているやつなんて──いない。
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夕方。
会議室へ向かう途中、備品室の扉がわずかに開いていた。
覗き込むと──
あの少年が、膝を抱えて座っていた。
俺を見ると、かすかに笑った。
「お疲れさま、まっしー」
その声が、胸の奥にすとんと落ちてくる。
「……お酒くさい。昨日も、あの立ち飲み屋?」
冗談めかした口調。
けれど──どうして、それを知っている?
問いかけるより先に、少年は立ち上がり、
ゆっくりと備品室の奥へと歩いていった。
──誰もいない、空っぽの空間へ。
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その日からだった。
俺の“職場”には、真嶋純也にしか見えない少年が現れるようになった。
誰にも気づかれず。
誰にも知られず。
でも、確かに、そこにいる。
まるで、オフラインの世界でだけ繋がっているみたいに──。